|
小さな銀の懐中時計がちょうど午後十時をさした。彼女は細い針の並びを確認すると、パチ、と音を立てて薄く丸いふたを閉じる。もう何十年、何百年と眠っていたためだろう。こうして毎日ふたを開閉するたびに、小さな時計は今にも砕けてばらばらになってしまいそうに思えた。 夜の十時は眠る時間だ。部屋中でちらちらと明かりをもらすろうそくの火を消して、ベッドの中に潜り込んで次の日を待つ時だ。だがそれが本当に翌日なのかは解らなかった。何しろいくら時間が過ぎても朝の日ざしは訪れず、夜の闇が暗がりを生み出すこともないのだから。 彼女と彼が二人きりで暮らしている小さな家は、深い樹海の中にある。白い木々と緑の葉のみが生息するその森は封印の檻の中だ。そのため、彼女の他に人はいない。獣や鳥や虫までも、命ある生き物はこの場所には彼女以外に存在しない。 在るのはただ水すら飲まない奇妙な木々と、木造の家を含めた物言わぬ自然の景色だけ。 そしてあとは人間ではない“彼”がいるのみだった。 彼女は夜の訪れを彼に告げるために歩く。廊下に出て一階に下り、また短い廊下を抜けて居間の扉をぎいと開ける。ろうそくの火が風にあおられ小さく揺れた。彼女はすこし背を伸ばし、部屋の隅のソファに眠る彼の影を確認する。彼は薄汚れた布を頭の上から全身を丸め込むように被り、小さく体を固めては身動きもせずじっとしていた。眠っているわけではないとは知っていたが、あまりにも部屋の中が静かすぎて、彼女は思わず息をひそめて彼のもとに歩み寄る。何も言わず側に座り、伸び盛りの手足を持て余すように揺らした。 キイ、と木の軋む音がした。床に置いた左手に軽く触れられて、顔を上げると彼が身を起こしている。その顔にかかる眼鏡のつるが、片方だけいやに大きく歪んでいた。彼女はそっと指を伸ばし、仕草で彼に訴える。彼はひしゃげてしまったつるを押さえ、ふっ、と彼女に目をやった。 彼女はその視線を受けて、物言わず立ち上がる。そして彼の望みを叶えるために、またひやりと冷たい廊下に足を向けた。 彼は眠るときでさえ眼鏡を外そうとしない。こうして壊してしまうのも、今回が初めてのことではなかった。こういう時どうすればいいのかは言われなくても知っている。どの場所に行き、どの扉を開くのかは彼自身に聞かなくともこの家の壁が教えてくれた。 彼女は矢印と古い文字が刻まれた廊下の壁に手を添えて足を進める。彫られた線は文字を作り、墨を注ぎ込まれた上から保護剤をかけて磨き固めてあるようだ。彼女は頭の中で、何度も読み古した言葉を反復する。 “生活用具は倉庫の奥へ” 示された矢印の上を指先でなぞりながら、彼女はあちらこちらに刻まれたたくさんの言葉たちを見る。 “包帯は裏表を確かめること” “階段は気をつけて下りること” “魔力を外に流さないよう傷はすぐにふさぐこと” 一見するとまるで魔術か何かの紋様にも見えるそれらは、彼が、この家の中での生活に困らないよう、道しるべとしてことごとく書き記されたものだった。 矢印は終わりを迎え、突先に一つの扉が現れる。中ほどには大きな文字で“倉庫”と記されていて、下には小さくさまざまな単語が並んでいる。包帯、魔石、薬、枕、布団、眼鏡……。 彼女は最後の一言に指を添え、倉庫の扉を大きく開いた。木の軋む音は悲鳴のようで肌を薄く粟立てる。ろうそくの明かりが入っていない暗い中にひょこりと小さな体を入れて、すぐ手前に置かれた箱を引きずり出した。ふたの表面には廊下のものとまったく同じ筆跡で“眼鏡・薬”と記されている。開けてみるとその通り、仕切られた箱の中には薬の瓶と眼鏡がいくつも並んでいた。数にして二十は残っているだろうか。彼女は呆れるほどにたくさんあるうちの一つを手にとって、ふたを閉めると箱の位置を元通りに並べ直す。 箱をぴたりとつけた壁にも、矢印と説明書きが丁寧に記されていた。 来た時と同じように、壁に並ぶ文字を見つめながら歩く。物のありかを示す言葉、生活上の注意や知恵をことごとく連ねた文章。家のあちこちに刻まれた文字はお節介なまでに世話を焼く。 一度、彼に尋ねたことがある。この言葉を刻んだのは一体どんな人だったのか。 彼はしばらく悩むように口を閉じ、ゆっくりと、言葉を探しながらのように喋った。 「友達」 と、まず初めに言った。その後で何かが違うというかのように首を振る。 続いてまだ決めかねながら、途切れ途切れに言葉を続けた。 「親友、家族、仲間、…………」 そこまで並べて迷うように一度口を閉じかける。だが完全に沈黙が下りる前に、ぼそりと呟くように言った。 「群れ」 そして、内に湧いた感情を抑えるように、彼女の頭をぐいと強くなでつけた。 以来同じ質問を彼に投げたことはない。何か訊いてはいけないことに、触れてはいけない哀しい場所に踏み込んでしまったような、そんな居心地悪さがいつまでも胸にまとわりついた。 思い出すと気分が深く沈んでしまう。彼が以前この場所でどんな生活をしていたのかは解らなかった。だが誰かが共にいたということは解る。目を凝らせばかすかに解る複数の生活の痕跡が、食卓の椅子の背に刻まれたいくつかの名前が教えてくれた。 彼女は俯きかけた顔を上げる。まだ幼さを残すそこに表情らしいものはなかった。 あまりにも静かで、あまりにも緩やかな場所。この中では感情すら磨耗していく。 何も起こらない、何も動かない。静止の時間は気が遠くなるほどに続き、どれだけ時間が経過しても終わりの影すら掴めない。彼女は溜まった手製の暦を思って沈んだ。過ぎた日時を記した紙はすでに十枚ほどになる。もう、この封印に入り込んで一年近くが経過していた。 胸の内に浮かぶのは明日の日付を記した箇所だ。一度言葉を書き記し、切なくなって何重にも上から取り消し線を引いた、黒く汚れた小さな欄。彼女はため息をもらすこともなく、ただ人形のように静かな顔で、彼に届ける眼鏡を掴んでまた居間の中へと戻った。 彼は眼鏡を外したまぶたをそっと押さえ、まるで置物のように微動だにせず座っていた。彼女が側に近寄ると、何も言わず開いた手を伸ばす。彼女もまた何も言わず眼鏡をその上に置いた。彼は目を開かないよう慎重に眼鏡をかけると、ようやく安心したようにゆっくりとまぶたを上げる。ソファの隣に腰かけた彼女の頭を柔らかい仕草でなでた。彼女は静かにそれを受け止める。 二人の間で交わされる言葉は日を追うごとに減っていた。嫌い合いはじめたわけではない。話す言葉が次第に必要なくなってきたのだ。この奇妙な世界にたった二人で閉じ込められて一年近くの時を過ごした。探せど鍵は見つからず、話すことも消えていき、あとはただ、説明を必要としない合図のようなものだけが残っていく。 それでも二人は身を寄せ合った。言葉もなく、ただ静かに緩んでいく時間の中で、お互いを失うことだけを怖れて生きた。同じだけ動き、同じだけ眠り、同じものを見てはよく似た反応をする。子供らしくくるくると変化していた彼女の顔は表情を取り落とし、自由に動くことのできない彼のものと酷似するようになった。 「言葉」 彼は久しぶりに口を開いた。彼女は驚いたように彼を見上げる。 彼はそんな彼女を平らな顔で見つめると、呟くように声を続ける。 「言葉、覚えてるか」 うん、と声に出そうとして口元が凍りついた。彼女は途端に恐怖を感じてたどたどしく口を動かす。 「こ、こと、と、と……」 「言葉。言葉、だ」 ゆっくりと口を開いた彼の音は優しかった。彼女はそれをじっと見つめ、怯えながらも震える口を同じように動かした。 「こと、ば。……うん。言える。言葉、言葉……しゃべ、れる」 彼は大きな手のひらで、彼女の頭を包み込むようにしてなでた。 「もうずいぶん喋らなかった。忘れるだろう」 「うん。……うん、忘れてた。怖かった……」 「使わないといつかは思い出せなくなる。それはだめだ」 なでる彼の手を払い、彼女は相も変わらず表情を変えずに喋った。 「だって、もう、ずっと喋ってくれなかった。どうして最近動かないの」 ここ数日の彼は今まで以上に動くことを嫌がっていた。日課だった樹海への外出もぴたりとやめた。三回の食事すら手伝おうとしなくなった。彼はただソファの上に横たわり、何事かを惜しむようにじっと身を固めていただけ。 「魔力を溜めてる。動くと魔力はすぐに減る。傷をふさいで、隙間を閉じて、動かなければ余裕ができる」 「余裕って、何の」 「魔力、動力。動くための力」 「体、悪いの」 彼女の顔がほんの少し青ざめた。彼は心配を消し取るように首を振る。木の軋む音がかすかに響いた。 包帯を巻いた首の付け根のあたりからだ。大半が木で作られた彼の体は老化を見せ始めている。ただでさえ動力となる魔力は日々減少してきているのだ。土から、木から、食事から取り込むことのできる量は限られていて、力を節約するために彼は激しい動きができない。普段から表情を変えないのもそのためと言っていた。泣き、笑うとそれだけ終わりが近づくのだ。 「悪くない。でも、溜めてる」 どうして、と尋ねかけたが彼が先に口を開く。 「もう夜だろう。今日はひとりで眠れるか」 「うん……」 返事は尻すぼみとなった。彼女は不安を表すように彼の服の裾をつまんだが、返ってくるのは変わりのない無表情と呟くような言葉だけ。 「おやすみ」 「……おやすみ」 彼は変わらぬ平らな顔で彼女の頭をそっとなでる。 そして付け加えるように、かすかな声で囁いた。 「また明日」 いつもと違って彼が隣にいない夜はいやに長く感じられた。彼女は手足をベッドの上に伸ばし、敷かれたシーツを意味もなく撫で回してはきゅうと握る。厚い黒のカーテンと、消された明かりが作り出す人の手による闇の中で、何度も目を閉じては開いた。闇が重い。いつもより冷たく暗い。 耳の奥がぼんやりと鳴りはじめるほど静かな中に、唐突に不思議な音が混じり始めたのは何時ごろのことだろうか。がたがた、ことこと。そんな奇妙な物音が階下から響き始めた。物を動かすような音、扉を開閉しては廊下を進む音。彼女は不思議に思いながらも、目を閉じたままかすかなそれに聞き入っていた。がたがた、ぱた、かたかた……。 かちゃ、とドアの開く音がした。彼女はハッと目をあける。 物音に耳を済ませているうちに、気がつけば眠っていたようだ。まだぼんやりと醒めきらない頭を起こし、部屋の中に入ってきた彼の姿を目で探す。 彼は黒いカーテンを開けているところだった。薄ぼんやりとした白い光が部屋の中を淡く照らす。彼女は完全に身を起こし、顔についた眠りの汚れを落としながら口を開いた。 「おはよう……」 「おはよう」 ぴく、と体が自然に動く。何かが違うような気がした。いつも通りの光景なのに、変わらないはずの場面なのに、何かが、今日は何かが違っているような気がした。 「ちゃんと眠れたか?」 「う、うん」 彼は背を向けて据え置かれたろうそくに火を灯らせる。いつも通りの光景だ。毎朝彼が繰り返しているただのいつも通りの日課だ。だがそれすら今日はどこかが違っているような気がする。 彼女は彼の背を見つめていたが、唐突にそれに気付いた。 ――声が。声が、違うのだ。 「腹は減ってるか。今、何か食べられるか?」 声質が変わったわけではない。別人となったわけではない。ただ雰囲気が。声と共に彼をとりまく空気がすべて不自然なまでに変わっている、ような気がする。 「どうした? まだ眠いのか?」 予測は彼が振り向いたことで解りやすい確信へと変化した。 彼女はただ呆然としてぽかんと口を開いてしまう。 彼は、笑っていた。いままで殆ど感情を顔に浮かべることのなかった彼が、変化のない無表情ばかりだった彼が、にこやかに、笑っている。 彼は驚く彼女を見つめると、まるでとどめを刺すかのように、楽しむようににやりと笑った。 「おはよう」 丸く開いた彼女の瞳が、更に大きく見開かれた。 「わ、わら、わら、っ、て」 「どうした? そんなに驚かなくてもいい」 「おど、驚くよ!」 まだ上手く回らない口で思わず大きな声を出すと、彼はくつくつと喉すら震えさせて笑う。彼女はもうどうなっているのか、これはなんの幻なのかとまじまじと彼を見つめ、彼はその視線を受けて面白がるように笑った。 「俺が笑わないと思ってたか」 そうしていつもと同じように、彼女の頭に手を伸ばす。大きな仕草で小さな頭を掴むようになでくると、顔をくしゃっと笑みに崩した。ふつふつと湧き出すような喜びが口をつく。彼は嬉しくて仕方がないと言うように、彼女の肩をポンと叩いた。 「朝だ、起きよう。今日はすることがある」 「す、する、こと?」 彼女はあまりにも唐突な彼の変化に付いていくことができなくて、戸惑いをかすかに混ぜた無表情で問いかけた。彼は顔に表情を取り戻しているのに、自分だけがいつものままで取り残されたような気がする。 「そう。することだ」 彼はどうしていいか解らなくて動きかねている彼女に両手を伸ばし、その体を軽々と抱き上げた。彼女は思わずひゃあ、とか弱い悲鳴を上げる。彼はそれすら楽しむように、笑いながら彼女を抱えて歩きだした。 「だ、だめだよ、重いよ。壊れたらどうするの」 「大丈夫。お前はもうちょっと重くなった方がいいんだ。だからとりあえず飯だ」 言葉の通りに思ったよりも彼の動きは力強い。彼女はそれでも心配で仕方がなくて、包帯を巻いた彼の首にしがみ付いてもいいものかためらいながら運ばれた。 「なんで、なんでっ」 「決めたからだ」 そればかりを繰り返すが、彼はただ答えにならない答えを告げて笑うだけ。彼は小さな彼女を悠々と抱きかかえて部屋を出た。まるで父が娘にそうするように、親しみと愛情をこめて。 彼は嬉しそうに笑って言った。 「今日は笑う日にしよう」 食卓のいつもの席に降ろされたころには、彼女の頭はもう飽和状態だった。一体何が起こっているのかまったくもって解らない。どうして昨日までは無表情だった彼が、最低限の行動しかしようとしなかった彼が、今日になっていきなり大きく変わっているのか。 台所からどこか怪しい物音が聞こえてくる。彼が朝食らしきものを笑顔で準備しているのだ。彼女は少々の怖れと多大な緊張をもってそれを待ち受けていた。こわい、どうしよう、逃げたい。脳と心の許容限度を飛び越えた現状に逃避したくてたまらない。 「持っていくぞ。そっち、空けてくれ」 背後から声をかけられて、彼女はびくりと背筋を伸ばした。 「机の上。じゃまだから、それ」 「う、うん」 あたふたと動揺しつつも机の上の雑多なものを横に寄せる。 足音と気配が近づいた。彼の手が皿と共に目の前に下りてくる。 ふわりと甘い香りがした。 「…………これ」 空腹をくすぐる匂いと柔らかい熱が漂う。彼女は置かれたそれをじっと見つめた。 「ケーキだ。今日はお祝いだからな」 製作者の自称の通り、それは焼きあがったばかりの小さな丸いケーキだった。 ほどよく焼けた表面は美味しそうなきつね色で、ふわりとうまく膨らんでいる。ところどころに潰した赤い木の実のかけらが見え隠れして、地味な色にせめてもの鮮やかさを添えていた。 表面にはろうそくの代わりだろうか、赤く小さな木の実の粒が円状に並んでいる。 彼は当たり前のように言った。 「お前の誕生日だろう。今日で十二歳になった」 ――息が止まった。その後で、心臓がばくばくと走り始める。 彼は斜め向かいの席に座り、嬉しそうに語り始める。 「暦に書いて消した跡があった。だからな、少しずつ準備を進めてた。材料を探して、木の実を集めて、作り方を思い出して。ちゃんとケーキになってるだろう。クリームはないし、味も木の実の甘味だけだが、一応はケーキの形だ」 一度記して消してしまった祝いの名前をどうして察してしまうのだろう。食べ物の数が少ない、ただ庭に埋めた野菜などしか残っていないこの場所で、弱り始めた足を使い、軋み始めた体を抱え、どうやってこれだけの物を作るための材料を探すことができるのだろう。 「それだけじゃ足りないから、ずっとじっとして力を溜めていたんだ」 どうしてこのひとはこんなにも優しいのだろう。 「今日だけは思いきり笑えるように。……お前の生まれた日を祝えるようにな」 どうして、こんなにも暖かいのだろうか。 彼は満面の笑みを浮かべ、彼女の頭を優しくなでた。 「笑おう。祝いの日だ」 彼女はどうしていいか解らなくて、おろおろと目を彷徨わせる。表情が感情に追いつかなくて頭の中がぐるぐるする。どうしたらいいだろう。笑う、笑うのはどうしたら良かっただろう。どうすれば笑うことができただろう。 彼女はただぱくぱくと口を動かし、震える喉を持て余し、困ったように彼を見つめる。その黒い瞳はみるみるうちに弱くなる。どうしていいか解らなくて、ただ、楽しそうに笑っている彼をじっと見つめる。 「どうした? 食べないのか?」 からかうように言われるが動きだすことができない。置かれたケーキと彼を何度も交互に見つめる。 「作り方を忘れてたから、すごく大変だったんだ。昔は何度か作ったことがあった。俺は下手で、他にもっと上手いやつがいたから普段はやらなかったけど、時々はやらなきゃいけない時があったからな。……普段下手だからって、不味いと思ってるんじゃないのか? これでも何回も作り直したんだ。材料がなくなりそうでどきどきしたけど、なんとか朝に間に合った。ほら、切ってやろうか。熱いうちの方が旨い」 彼の顔はいつもと違ってくるくると楽しげに変化した。耳を疑うほどに喋る。そしてまた笑い、明るく口を開く。今までの様子からは想像もつかない姿だ。こんな人だとは知らなかった。いつも無口で、無表情で、ただ頭をなでることしかできない不器用な男なのだと思っていた。 だが、これが本来の彼なのだ。 こうして笑い、喋る姿こそが本当の彼なのだ。 自分だって、本当は。 彼女は小さなくちびるを震わせる。喉が熱い。息がいやに荒くなる。顔が火照っていくのが解る。視界が水に沈んでいく。 彼女は泣いた。随分と久しぶりに、声を大きく上げて泣いた。 生まれたばかりの赤ん坊に戻ってしまったかのように、わんわんと大きな声を上げて泣いた。涙が次々あふれてくる。ぽろぽろと大きな大きな粒となって、雨のように頬を濡らす。 「泣けるじゃないか」 彼の腕が優しく体を包み込む。力強く抱きしめられて、頭をくしゃくしゃになでられて、ますます涙が止まらなくなる。痺れきった感情が緩やかにほどけていく。消えていた表情が鮮やかに蘇る。 「泣けるなら笑えるはずだ。お前は人間なんだから」 彼は彼女の背を叩く。耳元で強く囁く。 「笑おう。祝いの日だ。この世に生まれて来れた日だ。生きることの始まった、何よりもめでたい日だ」 彼女は彼にしがみつく。続く彼の声は震えた。 「俺はな、百年以上前に生まれた。本来の生を離れて新たな体を手に入れた。かけがえのない友達を、家族を、仲間を、群れを手に入れた」 彼女を抱く体もかすかに震えている。 「それが俺たちの誕生日だ。俺たちの、祝いの日だ」 彼は、泣いているような、笑っているような声で語った。 「この日だけはみんなこの家に集まって、ケーキを焼いて、料理を出して、そうして笑顔で祝いあった。歳を取っても、いつになっても、それだけは変わらなかった。俺たちはそうしてこの日を祝いあった。この世に生まれてこれた日だ。生きることの始まった、何よりもめでたい日だ」 彼女は壁に書かれた言葉の主を思い起こす。黒く続く筆跡はいくつもあって、複数の人の手による物だと伝えてくれた。彼の言う“みんな”の手によるものなのだとはっきりと理解した。 「忘れないでいようじゃないか。それが何よりもありがたいことを。この世に生まれ、育ち、生きることの始まりとなったこの日を大切にしよう」 彼は泣くのを堪えるように、彼女を強く抱きしめた。 「そうしてまた生きていくんだ。一つ一つ、積み重ねていくように」 その体も声も哀しいほどに震えていた。彼女はそっと手を伸ばし、彼の頭を優しくなでる。彼がいつもしてくれるように。少しでも、彼の心にあたたかいものを贈れるように。 彼は弱く顔を上げ、彼女を見て嬉しそうな笑みをつくる。 「笑えるじゃないか」 彼女はその笑顔を受けて、泣きながら更に笑った。 「お前は笑うことができる。泣くこともできる。素晴らしいじゃないか、お前はまだ生きてるんだ」 彼は泣き出しそうな顔で彼女の肩に顔をうずめる。 「素晴らしいじゃないか」 震える声で囁くと、泣きそうな顔で笑い、彼女の頭をくしゃくしゃに撫でまわす。彼女もまたぼろぼろと涙をこぼしながら、むりやりに満面の笑みを作った。 彼と彼女は笑いあい、その喜びの日を祝う。 二人は力が限界を迎えるまで笑い、遊び、言葉が尽きるほどに語りあった。 気力と意志を新たにした彼女が、封印の鍵を発見するのは半月後のこと。 一人外に出て行くこととなった彼女と、彼が再び出会うのは、それから更に十七年後のこととなる。 |