彼女は銀のバケツを抱え、ぼんやりと森を眺めた。そびえ立つ木々は目を痛めるほどに白く、高い。巨大なそれを追って顔を上げれば天を仰ぐことになる。息を飲むほど鮮やかな緑色の葉を抱え、樹は天蓋へと伸びていた。光源がどこにあるのかもわからない、不自然に白い空。昼も夜も存在しないまるで変化の見えない天に、大樹の先は混じりあい融けあってすべてがひとつになっている。森に生える何百という大木が、すべて空へと消えている。
 彼女は飽きることなくそれらを眺めた。衝き上がる巨大な幹。纏わりつく苔やあふれる葉を目で辿りながら登っていくと、自分自身が樹の一部になるような気がする。白い幹に取り込まれた肉体は高く高く昇っていき、最後には、天の上でひとつに溶けて……。
「駄目だ」
 他愛ない幻想は真暗な闇にさえぎられた。古びた物特有のほこりじみた匂いがする。彼女の視界は包帯を巻いた彼の手にきつく閉ざされていた。彼女は折角の夢心地を害されて、つまらない気持ちで手を剥がす。
「どうして」
「お前は行くな」
 天よりも低く見上げた彼は不安そうな瞳をしていた。彼女にしか分からないかすかな反応。彼は怖れるように、ゆっくりと、彼女の額に手首を当てる。肌と肌が直接に触れた途端彼はきつく口を結んだ。
「戻れ。熱がある」
 吐き出された囁きはおそろしげに振れている。彼は彼女を抱き上げて一歩ずつ家へと向かった。幼い体を苦しめてしまうほどに強く抱いても、腕が小さく震えていても、あたたかく呆けていく彼女の頭がそれに気づくことはなかった。




「……カゼ引いたのかな」
 眠たげに呟く彼女の上には、家中から集められた毛布や掛け布団の類が嫌というほど乗せられていた。彼がひとつ重ねるたびによろける手で落としながら、彼女は目を迷わせる。薄く涙を乗せた瞳は視線が定まらないのだろう、むつかしげにまばたきをしては赤く火照る頬をおさえた。
「熱、ずいぶんあるの? 私、熱い?」
「熱い」
 冷やした布を額に乗せると、彼女はきゅうと目を閉じた。
「さむい」
 まるくとけていくような声。うまく動かない舌で喋りながら彼女は彼に手を伸ばす。
「さむい。さむいよ。ねえ、さむいの」
「駄目だ。熱が……」
「やだ。それやだ。さむいの。こわい、こわい、こわい」
 焼けつくほどに熱い手が怯える彼の腕を抱く。汗ばんだ彼女の体は小刻みに震えていた。抱きしめた胸に小さな頭が擦りつけられる。
「やだ。わたし死ぬの? いやだ、いやだよ……」
 執拗に首を振る彼女の声は、しゃくりあげる涙の中に紛れては消えていく。彼は瞬く間に弱る小さな体を震える腕で抱きしめた。熱が上がっていくのが分かる。悪化を直に肌で感じる。服の中に潰れる声が、かすかに彼の耳に届いた。
「死にたくないよ……。たすけて。たすけて……」
「薬が」
 か細い音を打ち払う。彼は悲痛な言葉を聞かなくて済むように、叩き付ける調子で言った。
「薬がある。取ってくるから、それまで耐えろ」



 ただ歩いているだけなのに吐き出す呼吸が弾むのは、ひどく、恐れているせいだ。彼は震えを堪えるためにバケツの柄を強く握る。だが銀の容れものはすべてを見透かすように揺れた。中にある短剣がぶつかっては音を立てる。小刻みに響くそれがまるで笑い声に聞こえた。今の彼を取り巻くものは、すべて無闇に嗤っている。
 森を出ても川ですら白い木々に侵されている。彼は寂れた橋を横目に水の消えた川を渡り、対岸の土手を上っていく。そこにも生える白の大木。まばらに並ぶそれらはある場所では身を寄せ合い、またある所ではぽつりとひとつ生えている。どれも薄ぼけた乳白色の天に向かって伸びていた。
 進んでゆけば木々の合間に建物の残骸が現れはじめる。無惨に砕けたそれらは、現れた木々に突き飛ばされて、押しつぶされて、以前の姿がどうだったかも解らなくなっている。時おり、空に向かう幹に突き刺されたまま中空に残るものもあった。
 彼は歪んだ道を行く。衝撃に崩れた敷石は多くが苔に侵食されて緑色に映えていた。白く巨大な木々の隙間を、苔を踏みしめながら歩く。バケツの中の短剣がカタカタと嗤っている。
 足を止めた。目の前には、他と何ら変わりの無い太い幹が広がっている。抱えても抱えてもまだ届かないほどの樹木。彼は消え入るほどに弱い瞳で天へと溶ける樹を見上げる。ひとつ、湿り気のある息を吐く。
 何か言おうと口を開いて無駄に思えてすぐに閉じた。バケツを置いて、短剣を取る。古びた鞘を抜いてしまえば手に残るのは鋭い刃。彼は胸まで息を閉じて、振り上げた剣を樹へと下ろした。
 白い肌に傷が走る。斜めに刻まれたそこから、鮮血が飛び散った。
 息を呑めど赤は止まらず彼の顔を覆っていく。洪水のようにあふれだして身体にぬたりと纏わりつく。
「ああ」
 儚い悲鳴を上げた途端に赤は輝く銀に変わった。彼は全身を銀の液に濡らしながら息を吐き出す。
「ああ! ああ、ああ!」
 目も眩む銀の水は彼の髪を顔を服を肌を浸し玉のしずくを滴らせる。地に膝をつけば体の震えは制御などとうに離れ、見えない手にゆすられているかのように揺れながら崩れ落ちる。生気の消えた眼で樹を見上げる。天を、仰ぐ。
 薄白く広がる空に、一点の濁りが見えた。それはみるみる大きくなって彼の視界を埋めつくす。悲鳴のような木の軋む音がして、地が酷く揺れた途端に暗い濁りは掻き消えた。顔を上げれば目の前にあったはずの大木は跡形もなく消えている。残されたのは、銀色の水たまり。
 彼は虚ろにそれを眺めていたが、のろのろとバケツを取って銀の水を集め始めた。靴の中まで同じ水にあふれている。それでも彼は銀を集める。中ほどまで溜めたところで、俯いて水を覗いた。
「罪は無い」
 鉄の縁を握りしめて、濁りを吐くように言う。
「誰も、裁かない」
 手の震えが満たされた銀の水に波紋を生んだ。




 彼女は夢を見ていた。
 木々の中に立っていると、腕がみるみる硬くなり、足も首も胴もすべて白い幹に変化するのだ。骨が分かれて枝となり、細やかな緑の葉をつけていく。ぬるい空気を掻き分けながら溢れんばかりに広がっていく。
 伸びていく体はみるみる上へとのぼりつめる。彼女は知っていた。膨れ上がり伸びた頭が天蓋に着いた瞬間、この身は他の木々と溶け合い混じり合ってひとつになるのだ。彼女はそれを求めていた。恍惚にも似たよろこびが待ち受けているのを知っていた。
「駄目だ」
 ため息のような呟きが彼女の伸びをさえぎった。
 見下ろすと、遥か遠く足元で彼が手を伸ばしている。
「お前は行くな!」
 泣きそうな目をしているのが離れているのによく見えた。彼は悲痛な顔で必死に手を伸ばしている。
 ああ、だめだ。あのひとをおいてはいけない。
 彼女は彼を見下ろして思う。あのひとを、ひとりにするわけにはいかない。
 戻ることを望んだ途端、膨れていた彼女の身体は落下にも似た浮遊感を伴いながら縮んでいく。泣きそうな顔の彼が近づき、伸ばした両手を恋しく想い、彼女もまた両腕を伸ばしたところで力強く抱きしめられて、体中が痺れるようなよろこびに満たされた。




 気がつけば彼に抱かれていた。彼女はまだ夢から醒めきらない目を瞬かせて、不思議な顔で彼を見上げる。彼の体は震えていた。逃さないよう、失わないよう、彼女を抱きしめていた。
「……カリアラ?」
 問うと、頭を撫でられる。摩擦で熱を感じるほどに、執拗に、強く強く。そうしてまた抱かれた時には体が軽いことに驚いていた。寒くない。熱くもない。目の前が熱に霞むこともない。彼女の体はもうすっかりと快くなっていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「良かった」
 ため息のような声は喜びにあふれている。彼は泣きそうな眼を歪め、ぎこちない笑みを見せた。
「……良かった」
 彼女はぼんやりと彼を見て、その髪に、何か光る銀色のものがこびりついているのを不思議に思う。
 同じ物が自分の口の端からこぼれ落ちているのには、まだ、気づいていなかった。