共に眠るようになってからひと月は経つというのに、彼女の夜泣きは止まなかった。昼間は笑顔を見せているのに、眠りの時間になった途端不安そうな顔をしてこちらに肌をすり寄せる。寝返りが打てないほど密着して眠っていると、夜更けに、突然泣き始めるのだ。
 利発であってもまだ十一にしかならない子どもだ。闇の中に恐怖を感じてしまうのも、見通せない行く先を恐れるのも仕方がない。彼はただ、しがみつく彼女の体を支えるように抱いてやる。胸元を濡らす彼女の涙はいつまでも尽きることがない。毎夜のように泣いているのに、枯れてしまうことはない。
 彼は必死に縋りついてくる彼女を見て昔のことを思い出す。
 最後の一年間を、胸のうちで噛みしめる。




 あらゆる手段を探し尽くした。他に善い策がないか、逃れる道が存在しないか何年もかけて求め続けた結果が出たのは、全てが止まる一年前のことだった。打つ手が無いと知れた時から、彼らはまた同じ家で暮らし始めるようになった。別々に住んでいた家を捨て、昔のように一つ屋根の下で暮らす。周囲の友人たちには、老後のためだと笑って答えた。そうして彼らは終わりに続く一年を、また、家族として過ごした。
 ひと時でも離れたくない気持ちは誰もが同じだった。朝になればひとつの部屋に集まって、夜になるまでそこで過ごす。皆、忙しくとも仕事は中に持ち込んだ。長く家を空けなくなった。限りある時間を惜しむように。彼を、ひとりにしないように。
 笑うことが多くなった。苦しみを忘れるように遠ざけてしまうように、皆は沢山笑った。
 泣くことが多くなった。忘れられない恐ろしさや不安ややるせなさに、皆は沢山泣いた。
 怒ることが多くなった。呪わしき行く末と救いのない現状に憤り、叫び、力尽きるように泣いた。
 そんな、人間らしい日々を過ごした。

 彼はしばらくの間泣かなかった。ただひとり閉じ込められることを知ってから、泣くことすら諦めたのだ。この世の路は全て探した。本当にどうすることもできないと理解してから、泣くことを諦めた。
 こわばった笑みを浮かべ、大丈夫だと繰り返す。つらくない。苦しくない。悲しいけれど仕方がない。だから泣くな、悲しむな。俺は大丈夫だから。つらくない。苦しくない。悲しいけれど仕方がない。もうどうすることもできない。泣いて何が変わるというんだ。無駄に力を消耗するなら笑っていた方がいい。
 泣くのが怖かったのだ。彼はまだ数えるほどしか泣いたことがなかった。涙を流し、声をあげ、全身から感情を吐き出すと自分が別の生き物になってしまうようで、制御がつかなくなるような気がして恐ろしかった。だから恐怖を笑みに隠してひたすらに繰り返す。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
 そのうちに、友に怒られた。叱るように殴られた。その後で、悲しまれた。

 ――泣け。

 友は命令のように言う。

 ――我儘を言え。最後だ。本当に最後なんだ。迷惑を掛けてもいい、殴っても、いっそ殺してしまってもいい。お前が楽になれるのなら俺たちは何にでもなる。悪でもいい、神でもいい。苦しければ恨め、憎め。つらければ忘れてしまえ。俺たちのことも、この国のことも、何もかも忘れろ。

 友は泣きそうになりながら、震える声で呟いた。

 ――形の消えた俺たちにできることは、それぐらいしかないんだ。

 潰れるほどに強く腕を掴む手も、同じように震えていた。

 ――今泣かないでいつ泣くんだ。俺たちはいなくなるんだ。お前を支えてやれる奴は、今ここにしかいないんだ! 我儘を聞いてやれる奴も、泣き言を聞いてやれる奴も、誰一人いなくなる。
 ――泣け。我儘を言え。なんでもいい。俺たちにできることは何でもするから。今のうちに、全部言え。

 それを聞いて、体が壊れるほどに泣いた。大声で悲しみを叫んだ。いやだ、いやだ、俺をひとりにしないでくれ。怖い。寂しい。つらい。苦しい。目に見えるものにあたり、殴り、ぶつかった。今まで信じてもいなかった神を罵り、叫び、怒鳴り、力尽きて倒れるまで感情を吐き出した。そんなことをしても何が変わるわけでもないのに、そうしなければいられなかった。ひたすらに、いやだとわめいた。
 起き上がる力もなくして泣きじゃくる傍には皆がいた。少しでも離れないように、ぴたりと傍についていた。そうして、そのまま皆で眠った。




「……カリアラ?」
 泣き止んだ彼女が不安そうに彼を見る。そのまま彼の頬へと指を伸ばした。
「泣きそうな顔してる」
 彼は彼女の指を握り、ゆっくりと元に戻した。まだ顔に残る涙をそっと袖で拭ってやる。落ち着かせるように頭を撫でると、彼女の顔は普段のような明るさを取り戻した。小さな頭を彼に埋め、少し照れくさそうに囁く。
「ごめんね。ありがとう」
 返事として頭を撫でると、彼女は不思議そうに彼の顔を見つめ直した。
「人型細工は泣けないの? 涙、ないの?」
「ある。ここに、沢山溜まってる」
 彼は涙腺のある位置を指し示す。溜め込んだ人工涙で足りなければ吸収した水分をろ過して使うこともできる。だが、全てが止まる前に彼の中には最大限まで涙が注ぎ込まれていた。
 そんなに沢山用意しても、もう泣くことはないはずなのに。泣くと、大量の魔力を消費することになる。少しでも体を長く保つためには涙は必要ないだろう。そう言うと、叱られた。

 ――いつか泣きたくなった時、涙がなきゃどうするんだ。

 いつか必ず終わりが来る。その時のためにこの涙は取っておけ。そう、真剣な顔をして言った。
「涙があるのに泣かないの? 疲れるから?」
「それもある。でも、疲れなくても泣かなかった」
 純粋な彼女の問いに答えながら改めて考える。あれから、もう百年以上も泣いていない。まだ力に余裕があった時でも、彼は決して泣かなかった。不思議そうな彼女の頭をやわらかく撫でて言う。
「泣いた後にひとりだと、とても耐え切れないだろう」
 喋りながら、泣きそうな顔をしていると思った。
 少しでも気を緩めれば崩れてしまう、弱い顔になっていた。
 彼女は彼をじっと見上げ、また、その黒い瞳に涙を浮かべる。嗚咽も上げず、ただ静かに涙を流して彼の体にしがみついた。
「どうした」
 支えながら尋ねると、涙に濡れる声で言う。
「カリアラの分」
 彼はひと時息を詰めて、泣きそうな顔で彼女を抱いた。
「ありがとう」
 囁きが震えるのは仕方がないことだろうか。彼はそれでも泣かないように、しぼり出すように言う。
「お前が居てくれて、良かった」
 これは、終わりとなるのだろうか。彼女が自分に何かをもたらしてくれるのだろうか。
 目に見えぬ友に問いかけても答えが返るはずがない。それでも、問わなくてはいられない。
 二百年近くの時が過ぎても、思い出は薄れゆくこともなく心に刻み込まれている。忘れられるはずがないのだ。恨むことも憎むこともできるわけがない。思い出すだけで身が千切れるほどつらいのに、その暖かさに縋らなければひと時でも生きていけない。
「……お前が居てくれて、良かった」
 だがその苦しみの中でも傍に誰かがいてくれるなら。
 彼女の熱を感じながら、彼は固く目を閉じる。
 次に泣く時は、全てが終わる時だ。
 その時に命すら失う覚悟で涙を流し、何もかもを終わらせる。
 いつになるかは恐ろしくて考えたくもなかったが、彼女がいてくれるなら、前を見ることができる。ただ絶望に沈むだけでなく、進んでいくことができる。
 彼は長く息をついた。彼女を傍に感じながら、目に見えぬ友に語りかけた。

 大丈夫。俺は、大丈夫だ。