数日前、彼女は秘密の部屋を見つけた。
 それは大人の視点で見てみると部屋と言えるほど大層なものではないが、まだ小柄な彼女にとっては十分に自由な時間を過ごせる場所で、何よりも“彼”には入り込むことができそうになかった。
 彼女はある事情から誇らしげに高鳴る胸を抱え、這うようにして狭い木組みの枠を潜った。先にあるのは暗くて狭い小さな空間。どこか乾いたほこりの香りが鼻の先をくすぐった。少しずつ床の汚れを拭ってきたが、まだ四隅には取りきれないほこりたちが住み着いている。長い時間をかけたそれらは灰色の層となっていた。
 彼女は外に置いたろうそくを慎重に中に入れる。鋭角を並べた巨大な影が途端ににゅうと現れた。正体は、天井代わりになっている階段の裏側だ。ここは階段下の粗末な収納庫だった。
 普段使う廊下側に入り口らしい物はなく、こんな場所があることすらしばらくは気付かなかった。秘密の扉は分かり易い場所にはない。丁寧に物が並べられた倉庫の壁の隅の隅、闇に紛れて黒色に消えてしまったような箇所に小さな小さな扉があった。
 はめ込み式になっている木製の扉には珍しく何も書かれていない。倉庫とも、物置とも。その事実が彼女の興味を引き寄せた。このあらゆる物に説明書きの付された家で唯一名前の見えない小部屋。もとより好奇心と探究心は呆れるほどに強い性質だ。彼女がここを気に入るのにどれほどの時もかからなかった。
 そして、彼女は今日も小さな秘密の部屋へと潜る。いつもならば彼が外に出かけている間に掃除をし、明かりを入れてこっそりと読書などにふけるのだが、今日ばかりは事情が違った。彼はいま家にいる。近くにある居間の中で、じっと彼女を待っている。

 きっかけはささやかな手遊びだった。裏も表も空白がなくなるまで記しつくしてしまった紙を、何気なくはさみで切り抜いた。単純な直線を中央に向けて引いて角張った花にする。大きなものを一つ作ると、その中を同じ形に切り抜いた。その中をまた切り抜いて、更に小さな花を作る。そうして生まれた四つの花の輪郭と、最後に残った小さな花を食卓の上に並べた。
 彼は「上手だ」と言ってくれた。彼女はとても嬉しくなった。
 だから、思いつきに従ってちょっとした提案をした。
「この紙で体の傷をふさげばいいよ。また新しく開いたんでしょ? 包帯を巻く下にこれでふたをしておけば中の魔力がもれないよ」
 彼の体は血肉を伴う生身の物とは違い、木の肌と木の部品で組み立てられた精巧な作り物だった。はるか昔ならばともかく今の世界に動力となる魔力は少ない。そのため彼は限りある命のもとを失わないよういつも気をつけていた。傷がついて裂けた肌から魔力が抜けていかないように、表情を大きく変えて力を消費しないように。だからこそ彼の顔に表情らしきものはなく、口数も極端に少ない。彼女は初めそんな彼を苦手としていたが、この家に二人きりで数ヶ月を過ごした今ではそんな思いはかけらもなかった。

 この家、というと正しくない。正確には、この世界、だった。
 封印の壁に阻まれたこの世界に生きているのは、百年以上を過ごした彼と、この世に生まれて十一年しか経っていない彼女だけ。あとはただ、物言わぬ不思議な白い木々とこの家があるだけだった。
 幼い彼女は彼を頼った。彼もまた、孤独から彼女を求めた。
 二人は閉ざされた檻の中で物言わず身を寄せ合う。そうして互いを暖めていた。
 どちらかが消えてしまえば途端に凍えてしまうような、そんな小さなぬくもりだった。

 それでも人は秘密を求めるものなのだろうか。彼女は彼にはこの部屋のことを隠していた。今にしても自分がどこに向かうのかは内緒と告げて、居間で待ってもらっている。彼女は彼が万が一ここまで様子を見にきたりしないよう、急いで部屋の奥まで進んだ。天井は行けば行くほど狭くなるため注意して頭を下げる。そしてつきあたりにぽつんと置かれた唯一の家具に手を伸ばした。
 小さな箱だ。箪笥でもなく靴箱でもない、引き出しが二つ付いただけの単純な形の木箱。ほこりを被って灰色になってしまったそれの下側の引き出しをあける。拒むような抵抗が取っ手越しに手のひらを騒がせる。木の擦れる音を立て、彼女はいくぶん乱暴に引き出しをこじ開けた。
 ぱ、と白い紙が散る。勢い余って弾けたそれらはふわりとわずかに宙を舞い、上辺にあった何枚かが滑るように床へと落ちた。彼女はなぜか慌てた気持ちで落ちた紙を拾い集める。手ずれのある白い紙。手のひらに収まる程度に切り揃えられたそれらは端書き用に作られたものだったのだろうか。
 その殆どに折り目がある。丸められたあともある。だが不思議と時は感じられなかった。少々の黄ばみはあるが、気にする程のものではない。
 この家に保存されている物は大抵がそうだった。とても、百年以上を彼と共に過ごしたようには思えない。まるでここに封印が掛かった日から時が止まっているようだ。彼以外の全ての物が、眠りについてしまったようだ。
 無作為に逸れかけた思いを今へと戻し、彼女は紙を取り出した。引き出しの中は同じような紙がたくさん詰まっていて、ふさふさと不思議な心地を手にもたらす。そのうちの、なるべくきれいなものを何枚か抜き取った。
 手もとに集めて彼の元に戻ろうと考えて、ふと、目を奪われる。
 ささやかな束にした数枚の紙。その一番上に重ねたものに、何か文字が記されている。
 字の形には見覚えがあった。この家に嫌というほど残されている彼にとっての母国語だ。彼女にはまだ話すことはできない言語。彼は彼女の国の言葉を操れるので生活上の不便はないが、彼女は少しずつ勉強をして壁の文字や文献の解読に挑んでいる。辞書があれば、その言語で書かれた本も少しは読めるようになった。
 彼女は思わず昨日から床に置き去りにしていた辞書を取る。彼のことはひとまず忘れた。湧き起こる好奇心が彼女の手を動かした。文字の書かれた一枚だけを手にとって、あとは下に置いてしまう。ぺたりと足を崩すようにして座り、辞書めくりに専念する。
 まずは見知らぬ単語、行頭の三文字を引く。イ、ディ、フィ、ウィ……独特の音順を探っていくと、目当ての言葉を文字の海の中に見つけた。続く意味を目でたどり、どきりとして息を止める。

 ヴィータ。主に女性が愛しい相手を指して使用する語。

 愛しい相手、という言葉がいやに強く目にとまる。女性が、という箇所も。
 彼女は紙に書かれた文章をざっと見つめた。内容はわからない。ただ、まず初めに挙げられた一言だけがささやかな予感となって胸のうちを波立たせる。女性。いとしい、相手。
 彼女は辞書を床に置くと、文字の走る紙と落とした紙とを拾い上げて重ね持つ。ゆっくりと、膝をするようにして小さな秘密の部屋を出た。
 そして穏やかではない心を抱えて彼のいる居間へと向かう。
 愛しい相手を指すという一言が、どこまでもまとわりついてくるようだった。



 彼はソファに座ったまま彼女を待ち続けていたらしい。部屋を出ていった時と全く同じ姿勢をしている。彼女はそんな彼の律儀さすら嫌なように感じられて、口元をわずかに歪める。
 彼はそれを抜かりなく目にとめて、抑揚のない声で尋ねた。
「どうした」
 呟くようにかすかなそれは静かに耳から胸へと伝わる。彼女は彼から目を逸らし、いやに重い足を使って二人がけのソファに近づく。彼の隣にちょこんと座った。いつも通りの二人の定位置。
「どうした」
 全く同じ言葉と共に、今度は大きな手のひらがゆっくりと頭をなでた。
 柔らかい肌ではなく包帯が彼女の黒い髪をなぜる。彼女はとても弱くなってしまったように、その圧力に押されるようにゆっくりと俯いた。女性。いとしい、相手。
「あのね」
 声はいやに不安な調子で外に出た。彼の手がぴたりと止まり、頭から離される。言葉少ない彼にとっての続きを促すための合図。彼女は彼が言葉の続きを待っているのを強く感じ、責任にかられて口を開く。
「貼るための紙見つけたの。だから切って貼ってあげる。でも一つだけ。一つだけね」
 喉がいやに重かった。
「何か書いてある紙があって。それ、使ってもいいのかなって。なんて書いてあるか解らないから、だから、それ、持って来たの。…………教えて、くれる?」
 この言葉が一体何を示すのかを。
 尋ねた声が複雑な色をともなうのが恥ずかしいほどよく分かる。甘えるような、問うような。彼はただ表情を動かすこともなく、じっと彼女を見つめると、その視線を手に持たれた紙へと動かす。
 そしてそっと指を伸ばし、一枚だけをつまみ取った。
 心臓が大きく跳ねる。彼女は身を固くする。何か大きな不安の元が手の中から去っていったような気がした。だが不安は大きな緊張に変化して居心地を悪くする。ソファにきちんと座っているような気がしない。
 彼女はちらりと彼を窺う。問題の紙を持ち上げた、人の肌によく似た木の腕。その手首から、普段はあまり目立たない質素な腕輪がぶら下がっているのが見えた。輝かないくすんだ銀色の飾り。装飾に疎い彼が唯一手放そうとしないもの。
「……これ」
 唐突な声に心臓どころか体さえ跳ね上がりそうになった。彼は彼女を見ることもなく、ただ小さな紙片を見つめて尋ねる。
「これ、どこにあった」
 答えるかどうかしばし迷った。だがうまくごまかす言葉をひねり出すことができなくて、だいぶん時間を置いたあとで結局は素直に答える。
「階段の下の部屋。たんすがあって……紙がいっぱい入ってて。そこに」
 彼は彼女を見ないまま、紙の上だけを見つめていたが、しばらくして「そうか」と言った。
 その声は今までに聞いたこともない色を持っていて、彼女はゆっくりと眉を下げる。当たってしまった予感に対する敗北感が、ゆるゆると体に降りた。
「それ、なんて書いてあるの」
 誰が書いたの、とは言えなかった。その答えはすでに分かっていたから。
 左につける銀の腕輪は彼の国の風習では既婚者のものだという。一生を共に添い遂げると決めた時、互いの腕に宣誓と共にはめるのだと本にあった。
 彼は紙を見つめたまま読み上げた。
「『あなたがどんな路を選んだとしても、わたしはあなたのことを大切に想っている』」
 穏やかで、暖かい声だった。彼はそこで紙を持った手を下ろす。目を閉じると上を向いて諳んじた。
「『この体が土に消えても、魂が風に溶けても。それでもわたしたちはあなたのことを、何よりも大切に想っている。この世界のどこかで、ずっとあなたを想っている。土に消えても。風に溶けても。それでも何も変わらない』」
 一息をのんだあと、最後の一文を読みあげる。
「『あなたはひとりじゃない』」
 その声は、かすかな震えと共にこぼれた。
 彼は閉じた目を両手で覆い、ゆっくりとソファの背にもたれかかる。キイ、と木の軋む音がした。彼はそっと手をはがすと、読み終えた紙を彼女に返す。
「……書き損じだ。本物は、別にある」
 彼女はそれに目を通したが、どこが間違っているかは解らなかった。
 彼が今読みあげたのは“本物”の方だったのだろうか。
 迷いもなく諳んじることができるほど、読み返したものなのだろうか。
「多分、そこにある紙は全部。あの時は捨てる時間もなかった」
「え。でも、他のにはなにも」
 思わず言うと、彼は残りの白い紙たちを見て手を伸ばす。そしてその隅を指差した。
「あ」
 示されて初めて気がついた。白紙とばかり思っていた他の紙にも、よく見ればうっすらと文字の跡が残っている。鉛筆だろうか、インクで書かれた一枚目とは違う。それにしてもあまりに薄い文字なので、ただの汚れか紙の色かと思っていた。細かく並んだ小さな文字の羅列たちだったのか。うねる線の繋がった筆記体はきれいな模様のようにも見えた。
「これを使おうか」
 彼はインクで記された“書き損じ”の紙を指差す。
「大きめに切ってくれ。小さいと傷が広がる」
 彼女は少し悩んだが、頷くと近くに置かれたはさみを取った。ソファに深く身を落とす。空に掲げるようにして、銀の刃で紙をつまむ。
 す、とかすかな音すら立てず、紙は鋭い形に切れた。動かして別の場所にはさみを入れ、中央に向けて直線的な花びらを作っていく。ひとひら、ふたひら。彼の視線を受ける手もとが熱い。彼女は慎重に刃を動かした。花びらを落とさないように、文字を落とさないように。
 最後の余白がはらりと落ちて、手の中には単純な形の白い花だけが残った。
「上手だ」
 誉め言葉は最初よりも多くの意味を含んでいるように聞こえた。
 その分、何倍もの達成感を感じられて彼女は口元をゆるめる。彼の手が優しい仕草で小さな頭を撫でてくれた。
「塞ごうか」
「うん。やってあげる」
 花に広がる文字の羅列を目で追うと、ひどく切ない気持ちになる。だが今は忘れようとした。考えないよう努力した。
 彼が服を脱いでいる間に棚に向かう。瓶に詰まったのりと共に小さな皿も取り出して、少量の水を乗せた。両手に荷物を持って戻ると、彼は上身を晒してきちんとソファに座っている。
「傷、どこにあいたの?」
 彼は無言で左腕の根元を指差す。魔力を失いただの織布に戻りつつある人工皮に、小さな裂け目が生まれていた。何度も縫って、その度ほどけてしまった場所だ。あまりにもほつれてしまった傷口は針と糸を受け付けなくなっていた。普段よく動かす箇所にはそういうことがたびたび起こる。
 彼女は目で紙の花と傷口の大きさを比べると、早速それを貼り付けるためのりの瓶のふたをあけた。用意した小皿の水に指をつけ、まずは紙の裏側に塗る。即席の水張りが終わった上に白いのりを薄くつけた。
 指の腹でそっと広げる。隙間のないよう、剥がれてしまうことのないよう。
 目をやると、作業を見つめていた彼は傷口をこちらに向けた。彼女は彼の側に寄る。ごく近くなった素肌にどきりとした。顔が熱い。随分と赤くなっているような気がして落ち着かない。
「貼るよ」
 目の前にある傷口を空いた方の指でふさぐと、上から紙を貼り付けた。
 壊れかけた彼の体に白い紙の花が咲く。
 ぱ、と広がるその色が左肩を明るく見せた。
 表面に並ぶのは藍色の細やかな文字。欠けることなく無事に揃った大切な言葉の羅列。
「上手だ」
 彼はまた、ゆっくりと彼女の頭をなでる。
 悔しいけれど嬉しくて、彼女は口を緩ませた。
「だめだよ、気をつけなきゃ。怪我したりしちゃだめだよ」
「そうだな」
 照れから出た小言に答え、彼は肩に咲いた花にそっと指の先を添える。
「大切にしなきゃな」
 しばらくの沈黙の後、口の中で誰かの名前を呟いたような気がしたが、かすかなそれは聞き取ることのできないまま空気の中へと溶けていった。



 彼女は小さな紙の花を持ち、扉の前に座り込んだ。
 この部屋は自由に使っていいと正式な許可をもらった。もう秘密の部屋ではないが、それでも彼女はこの場所がなんだかとても気に入ったので、これからも暇をみては通おうと思っている。
 だから、印をつけようと思った。この部屋に確かに自分がいたという、いつまでも残る証を。
 彼女は何も書かれていない真っ白な花を見て、しばしの間考える。ここに何を記そうか。どんな言葉を残そうか。
 だがあの言葉にはどうしても敵わないことを知り、結局は、白紙のままのりを貼る。
 別に急ぐ必要はない。まだ、時間はたくさんあるのだから。
 いつか自分も誰かの心に残るような、彼の中に残るような心からの言葉を書きたい。そう強く考えながら、黒ずんだ扉の中央にぺたりと白い花を咲かせた。念のため剥がれないよう手のひらで押さえつけ、密着したことを知ると満足げに息をつく。
 そして静かに立ち上がり、水の入った小皿とのりとを両手に持って、彼の元へと戻っていった。

 今はまだ、その花に名前はない。