枕元の懐中時計は、ささやかな音を立てて時を刻み続けている。切れ間のないそれに耳を澄ましながら、彼女は古びた天井を眺めていた。今は彼女と彼にとっての「夜」。たとえ外が朝だとしても、昼だとしても、閉ざされた世界で暮らす二人には関係のないことだった。時計に合わせて布団に入り、決められた時間まで互いに暖めながら眠る。彼女がこの世界に迷い込んで、もうひと月。それでも二人は相手を見失うことを恐れるように、同じ布団で身を寄せ合った。
 深夜一時。彼はまだ戻ってこない。抜け殻となった布団の中が少しずつ冷たくなる。彼女は彼のいた場所をつまらない気持ちでなでた。
 眠れない、と呟いたことに他意はなかった。目が冴えたのか、ただ本当に眠れないと感じたのだ。彼女としては何気なく言ってみただけなのに、彼はわずかに困惑を見せて言った。
「どうしても眠れないか」
「うん。眠くない」
「そうか」
 交わした会話はたったこれだけ。彼はすぐに「そこにいろ」とだけ言って部屋を出て行ってしまった。嫌われたのだろうか、とか、怒らせたのだろうか、などと悩んではみたものの、答えが出るはずもない。彼女はひやりとしたシーツに手足を伸ばした。
 木の軋む音がする。すぐに、ろうそくの明かりが部屋に差し込む。開いた扉に目を見やると、そこには大量の本を腕に抱えた彼が立っている。彼は火の灯る燭台と、運んだ本をベッドの下に積み置いた。
「ねえ、それ何?」
「本だ」
 見ればわかるよ、と言うと、そうだな、と返される。だからといって馬鹿にしているわけではなく、彼なりに真面目なのだと理解したのは最近のことだった。彼はその呆れるほどに真面目な顔で、本を指差して言う。
「眠れないんだろう。読もうか」
 彼女はどう答えていいのか解らなくなって、とりあえず口を結んだ。
「童話は嫌か」
「……私、もう十一歳」
「俺は今でも嫌いじゃない」
 本気なのか冗談なのか解らないことを言って、表紙に積もったほこりを払う。ぼやけていた絵がくっきりと現れて、彼女はさらに口をとがらせる。単純な線で描かれた姫に王子、カエルにニワトリ。次々にほこりを脱ぐ薄い本は、どれも幼児向けにしか見えなかった。
「いいよ、そんなの面白くないから。多分、知ってる話ばかりだよ」
「まだ題名も読んでないのに解るのか」
 題名は彼女には解らない言語で記されている。彼は一冊の本を掲げ、題名を読み上げた。
「『小鳥姫……」
「知ってる」
「……は見た! 残虐な四つの龍と荒くれ山姥 赤いトロルの目に涙』」
 彼女の時がしばし止まった。
「……え?」
「こっちは『37人の小人と184人の中人と1235人の巨人たちの物語』」
「多いよ!」
「俺はこれが一番好きだ。でも、話は破綻してる」
 そうだろうね、と言いかけてそこで初めて気がついた。
「なんで手書きなの」
 彼の持つ本はよく見るとどれも手作りのようだった。絵も文字も売り物のように上手だが、製本の甘さや表紙の乾きが手製品だと教えてくれる。
「出版もした。けど、売れなくてすぐに絶版になった」
「……誰が書いたの?」
「俺じゃない。上手い奴がいたんだ。そいつは、こういう話が読みたいと言えばすぐに話を作ってくれた。ただの小鳥姫がつまらないと言われれば、山姥とトロルを出した。俺がたくさんの登場人物が出てくる話がいいと言ったら、いっぺんに人を増やした。そうやって、好きなように話を作ってくれたんだ」
 彼は懐かしむように本を見つめながら喋る。その目が遠くに飛ぶのを感じて、少し切ない気分になった。彼の見つめる思い出は、もう、百年も昔のことだ。まだひとりきりではない、幸せだった頃のことだ。彼は本を見せて訊く。
「いらないか?」
「……じゃあ、その、トロルの。気になるから、読んで」
 正直に答えると、彼は小さくうなずいた。職台を近くの机に置いて、本と共にベッドに上がる。彼女の隣に落ち着くと、見えやすいよう本を掲げて題名を読み上げた。
「『小鳥姫は見た! 残虐な四つの龍と荒くれ山姥 赤いトロルの目に涙』」
 題にはそぐわずほのぼのとした表紙をめくると、真っ赤なページが現れる。
 彼は表情ひとつ変えず本文を読み上げた。
「『ドーン! まちはひのてにつつまれて……」
「怖いよ!」
 たまらず言ってしまった彼女を、彼は不思議そうに見やる。
「幸せになるにはそれなりの障害が必要だろう?」
「それにしたって、いきなり町壊されてるし……人が黒こげになってるし」
「龍に燃やされたら、黒くこげるのは当たり前だ」
 そうだけど、と口の中で呟きながら彼女は話の続きを待った。
 平坦な彼の声が、波乱に富んだ小鳥姫の冒険を読み上げる。大鳥の王子と幸せに暮らしていた小鳥姫は、暗黒龍の秘密を覗いてしまったために、まだ幼い子どもたちを龍に奪われてしまう。姫は物知りの山姥の元に行き、彼女の機嫌を取ることで情報を聞き出した。そして長く苦しい旅の末、龍を倒す手がかりとなる “赤いトロルの涙”の謎をとうとう解き明かし、子どもたちを取り戻して平穏な暮らしに戻る。
 激しい絵と文で綴られる物語は十数ページで幸せに締めくくられた。
「……短いね」
「ああ」
 最後のページを見つめながら、彼女はかすかな笑みを浮かべる。
「でも、ちゃんと『小鳥姫は見た! 残虐な四つの龍と荒くれ山姥 赤いトロルの目に涙』だったね」
「覚えたのか」
「うん。面白かったよ。なんで売れなかったんだろう」
 短くてあまりにも突飛な物語だが、彼女には逆にそういうところが魅力的に感じられた。こんなに面白くて変な物語なら、少しは売れてもおかしくないのに。
「これは、子どもを寝かしつけるための絵本として売り出されたんだ」
 彼は掲げた本をまっすぐに見つめて言う。
「でも、話が激しすぎて子どもが寝なくなった」
「……ドーンとか、ドカーンとか。そういう音が多いよね」
「そういうのが好きだったんだ。あいつは大声で読みあげるから、聞いた子どもはみんな泣いた」
 それはもう何もかも間違っているような。そう言いたげに見つめるが、彼は何事もなかったかのように本を床の上に戻す。
「眠れるか」
「眠れないよ」
「そうか。じゃあ、次はこれにしよう」
 そう言って取りあげたのは、かわいらしいおもちゃ箱が描かれたもので、題名は彼によると『極秘任務! おもちゃの国に訪れた崩壊の危機を救え!』と言うらしい。彼女はこの人が書いた本では一生眠れないのでは、と言おうかどうか迷ったが、結局はどんな話か気になって最後までつきあった。そうやって、いくらでも出てくる手製の本を一つ残らず味わった。


 最後の一冊は彼の手に取り上げられ、すぐに床に戻された。
「どうしたの? それ、読まないの」
「好きじゃない」
 答える声はやけに硬い。彼女は彼の代わりにその本を取り上げた。水色の淡い海を背に、白く大きな灯台が描かれている。入り口のそばには小さな人影。題名を指でたどると、彼が呟くように言った。
「『灯台守』。昔からある民話だ。好きじゃない」
「それはもうわかった。でもここまできたら全部読もうよ。どんな話か、知りたい」
 彼の手に本を押し付けて、念を押すように言う。渋るような間があって、彼は静かに読みあげ始めた。
「『おそろしく広い海の端に、白く、大きな灯台がありました……」

 その灯台には一人の男が住んでいて、毎日休まず明かりの番を続けていた。男は灯台を家族や恋人のように想い、害をなす鳥が来ては追い払い、嵐の後には汚れた壁を心を込めて磨き上げる。そうすると、灯台はまるで感謝でもするかのように、よりいっそう強い光を海に向かって投げるのだった。
 灯台守は身寄りのない貧乏人だが、船乗りからも街の人たちからも慕われていた。灯台の明かりは港へ向かう船にとってはなくてはならない大事なものだったから。だがある日、灯台守は泥棒に罪をなすりつけられ、街の人たちの財産を盗んだことにされてしまう。人々は怒り、灯台守の話も聞かずに彼を手ひどく痛めつけた。そしてそのまま死にかけた灯台守を灯台の頂上に吊り下げて、食事も水も与えずに置き去りにしてしまう。灯台守は冷たい夜にとうとう息絶えてしまった。
 すると海には突然嵐が吹き荒れ、いくつもの船が真暗な波に翻弄される。星はなく、縋るべき灯台に光はない。街の者が明かりを入れても灯台に灯はつかない。まるで意志を持つかのように、灯台守を痛めつけた人間に復讐をするかのように、灯台は光を放たず次々と船を沈めた。波はとうとう津波となり、街を何度も飲み込んで、陸に暮らす人々までもを暗い海へと引きずり込んでしまった。
 嵐が去り、晴れ渡る空の下には何ひとつ残らなかった。港も、街も、船も、人も。
 残されたのは、ただ灯の消えた灯台だけ。

「『……かなしい灯台ひとつだけ。』」
 静かな声が、物語の終わりを告げた。最後のページには、水色の空と海に囲まれた灯台が描かれている。その他には何もない。灯台守も、街の人も、動物の影でさえ。彼は力ない目で灯台を眺めていた。救いようのないその姿に、多分、自分自身を重ね合わせて。
 彼女は何を言えばいいのか解らなくて、それでも何かしたくなって、凍りついたように本を掲げる彼の腕に手を添えた。そして気づく。
「まだ、ページ残ってない? これで終わりじゃないの」
「後は奥付だけだ。これと同じ灯台の絵があるだけの……」
 だがページをめくったところで彼の手はぴたりと止まった。目も、声も、息でさえも。
 水色の空と海が広がる中に、小さな白い灯台が遠景として描かれている。灯台の立つ崖の上にも、手前に広がる陸の上にも本来は何も記されていなかったのだろう。だが今は、一粒の隙間もないほどにぎっしりと、街の人々が描かれていた。
 空の上には書き殴りに近い形で文字が連ねられている。手書きのそれは彼女には読めないが、随分と急いでいたことだけは伝わった。これまでの本文とは明らかに違うものだ。後から書き加えられたものに違いない。
 彼は呆然と連なる文字を見つめている。彼女は不安になって尋ねた。
「ねえ、なんて書いてあるの」
「……『しかしその時奇跡が起きてしまったのです』」
 声は、かすかな震えを帯びた。
「『灯台の悲しみと懺悔が天に届いたのでしょう。雲の切れ間から一筋の光が差し込んだかと思うと、善き生き物となった四匹の龍が、山姥と赤いトロルが、小鳥姫とその家族が、37人の小人と184人の中人と1235人の巨人たちが灯台の元にやってきたのです。彼らは力を合わせて沈んでしまった船を救出しはじめました。伝説の石の力を使って街の人たちを助けました。灯台守をも、その奇跡をもって生き返らせたのです。灯台のまわりには、またたくさんの人間たちが集まるようになりました。龍やトロルや巨人たちも地上に生きるようになり、みんなで一緒に幸せに暮らしました。おしまい』」
 彼女もまた彼と同じく呆然と本を見上げた。あまりにも突飛で、唐突で、破綻したエピソード。明らかに付け足されているそれは、どう考えても今までの物語と同じ作者に違いなかった。彼は力ない声で呟く。
「……俺は昔、こんな悲しい話は嫌だって言ったんだ。どうしてこんな話を本にするのかって。でもあいつは、『お前が嫌だと思ってもこういう話が好きな人もいるんだから』って。『この本はお前のためだけに書いてるわけじゃないんだから』って……そう言って」
 だが今は、この本を読むことができるのは彼ひとりだけ。
 少なくともこれを書いた人はそう考えていたはずだ。彼のためだけに手を加えた、この世にひとつきりの絵本。彼は描かれたたくさんの登場人物を、それに囲まれる灯台を見つめ、本を顔の上に被せた。
「……これ、好きだ」
 あふれ出す感情を抑えるように、顔に本を押しつける。
「俺、この本好きだ」
 囁く声は哀しいまでに暖かく、やわらかだった。彼女は天井を見つめて呟く。
「私も、その本好き」
 彼は小さくうなずいて、また、本を高く掲げる。そして最後のページを見つめると、両腕で抱きしめた。彼のために書かれた本を、大切に、大切に、愛しそうに抱きしめた。