この場所に昼夜はない。彼はまず初めにそう言った。 昼というものはない、夜というものもない。どれだけ時間が経過しても夜の闇は訪れず、朝焼けが空を照らすこともない。風もなく雨もなく、ただ、音のない静かな時間が永遠に続くだけ。 彼女は彼の言葉を信じることができなかった。 まさか、そんなはずはないだろうと素直に受け止められなかった。 怪訝な目を向ける彼女の頭をなでながら、彼は呟くように言う。 ――すぐに、解る。 そして空腹を訴えている彼女のために、ささやかな食事の準備に向かう。 二人きりの生活は、いつの間にか始まっていた。 「眠れないのか」 ドアを開けて呟くと、本に没頭していた少女は弾かれたように顔を上げた。その目元は青黒く、まだ幼さを残す顔は憔悴に満ちている。見つめてくる黒い瞳には警戒心と縋るような気持ちが交互に見え隠れする。彼は虚ろに迷うまなざしを受けて、眼鏡の奥をわずかに歪めた。 彼女がこの封印の中に潜り込んでもう三日ほどは経っただろうか。昼もなく夜もないこの檻の中では正しい日時は実感できない。いくら待ち望んでいても、日は暮れず眠りをそそることはない。ただうすぼんやりとした白い日差しばかりがこの世界の中を照らす。 いつまでもそれが続く。まるで明け切らない朝のような不安な色が空を覆う。 幼い彼女はその奇妙な世界にいまだ慣れないようだった。封印の中に潜り込んだその日以降、彼女が長く確かな眠りを取っていた覚えはない。彼は部屋の中に入り、彼女の前に座り込んだ。 「眠れないのか」 もう一度尋ねると、彼女は無言で目を落とす。年季の入った飴色の床板には様々な厚さの本が並べられていた。床に直に座る彼女を囲むように小さな山を作っている。彼はざっと目で題名を確認した。どれも魔術と封印に関するものだ。彼女の母国語に訳されている本ではあるが、内容はまだ十一になったばかりの子供が理解できるものではないはずなのだが。 「解るのか」 彼は開かれたままの一冊をさして言う。彼女はまるで責められでもしたように、怯えるように頷いた。 彼はしばし無言で本と彼女を交互に見つめる。そして彼女の頭をなでようと手を伸ばし……それを、中空でぴたりと止めた。彼女は不思議そうな目で見つめてくる。彼はそれにひるむように、顔をほんのわずかに引いた。 伸ばしかけた手を下ろす。行き場をなくしてしまったように、意味もなく近くの本に乗せる。 彼は目を逸らして言った。 「眠れないのか」 「……うん。うとうとしても、すぐに目がさめるの。……怖い夢見て」 三度目の問いかけには細く掠れた声が続いた。涙が枯れるほどに泣き、疲れきってしまった者の弱々しくはかない声だ。彼はまた逸らした目をわずかに歪める。 同じように俯いた彼女に向けて更に訊いた。 「出かけてくる。一緒に行くか」 そしてそっと手を差し伸べる。 彼女は彼を不審そうに見つめていたが、しばらくの沈黙の後にその手を取った。 彼女は彼に手を引かれ、久しぶりに外に出た。 家を出るとそこは既に樹海の中だ。木造の一軒家は巨大な木々に囲まれるように建っている。 空は、白い。そびえ立つ樹も土でさえも。 ただ天高くに広げられた沢山の葉と巻きつくツタだけが鮮やかな緑色をしている。飛び出した根に添うようにして生えている、ささやかな草とかすかな苔も濁りを帯びた静かな緑だ。 彼女はふらつく体をなんとか支え、白い根と転がる石をひとつひとつ越えて歩いた。 「どこに行くの?」 見上げるようにして訊くが、彼はただ前を見て歩くだけ。空いた手にはくすんだ銀色のバケツが握られていた。覗き込むが中には何も入っていない。何のための道具なのか問いかけても答えはない。 彼女は口をきちりと結び、ただ手を引かれるままに歩いた。 空を見上げる。何度目か忘れるほどに見つめたが、それでもやはり太陽がどこにあるかは解らなかった。この世界を照らすのは一点の光ではないのだ。封印の天蓋が光源を遮って、ぼんやりとつかみどころのない日差しばかりを生み出している。 どうして夜が来ないのか、なぜこんな奇妙な状態に陥っているのかは本を読んでも解らなかった。 あの家の書棚には、今まで欲しかった、知りたかった知識がぎゅうぎゅうに詰め込まれた本が山ほどあった。彼女はおそれを誤魔化すようにひたすらそれらにのめり込む。そうしているうちは不安が少し和らいだのだ。この封印を壊す鍵を探しているという実感が、恐怖心を余所へと流した。 だが、こうして意味のない行動を続けていると、嫌なことばかりが胸をつく。 「……ねえ」 手を引いて先を行く彼に呼びかけた。だが返る言葉はなく、ただ景色ばかりが変わっていく。 気がつけば周囲の木々は目に見えて数が減り、整備されていない細い道の周りにも少しずつ空間が広がってきていた。深い森が終わりを告げようとしている。白い幹がまばらに姿を減らしていく。 木々の合間に、水のない川があった。幅の広いそれははるか昔に枯れ果ててしまったのだろう。転がる石は白く乾き、雑草が辺りを埋め尽くしている。 唐突に黒い影が現れて、思わず小さな声をあげるが、それはうらぶれた木の橋だった。 黒ずんだそこには長い間人の渡った気配はない。枯れてしまった川と同じだけの時間を無為に過ごしたのだろう。人の手を感じさせるその物体は、まるで木々の間に立つ幽霊のように思えた。 彼女はごくりと息を呑む。理性が危険を訴えだした。恐怖心が足を大きく震わせる。 あんなに大きな川の跡に樹が根付くものなのだろうか。何百年もの樹齢を重ねているような、大人の腕でも二人でようやく抱えられるような巨大な樹が、どうして橋を囲むように生えているのか。 「ねえ」 彼女は少し強めに声をかけた。だが彼は振り向きもせず歩くだけ。 導く行く手は急激な下り坂に差し掛かる。土手だ。その先には川がある。枯れてしまった幅の広い大きな川が。彼はそこを目指している。黒ずんだ木製の橋の隣を歩き、川の向こうに行こうとしている。 何か、別の、新しい場所が近づいている。彼女はその事実に怯えた。 怖れのまま足を止める。 繋いだ手がぴんと張られて彼も止まった。 だが、彼は振り向かない。背を向けたまま立ちつくす。 彼女はほとんど泣きそうな声をその背に投げた。 「やだ」 彼女は繋いでいた手を離す。 彼は、ぴくりとも動かなかった。 「行かない」 彼女は離してしまった左手を、右手でそっと包み込む。泣きそうな目で彼を見つめた。所在なさ気にぶら下がった、彼の大きな手を見つめた。 彼は振り向かないまま静かに呟く。 「そうか」 そして、空いてしまった手を握りしめると、またゆっくりと歩きだした。 今度は付いていく者はいない。彼はひとり土手を降り、ただ前を見つめて枯れた川の中を歩いた。川の跡であるはずなのに、そこには木々が天高くそびえ立っている。 行く先には対称の形をとった土手があった。その向こうには変わらず並ぶ白い木々。 そしてそれらの合間には、ぽつぽつと人家の屋根の端が見えた。 彼女はそれを認めた途端、弾けるように踵をかえす。 そして震える体を抱きながら一目散に家へと戻った。 彼女は本を読んだ。 大量の書棚が並ぶ書庫の奥に身を隠し、ひたすらに本を読んだ。 解らないのは嫌だった。不気味だった。恐ろしかった。 目に付いた端から読み続ける。指先が触れたものは全て床の上に置いた。 うず高く積み上げられた山の中で、彼女はただ本を読み続けた。 解らないのは嫌だった。何よりも恐ろしかった。 不可解なこの場所が。不気味に立つ白い木々が。そして、彼が。 彼について知っていることはあまりにも少なすぎた。問いかけても答えてくれない、話し掛けても避けられる。彼女が何かを言うたびに、彼の目を見つめるたびに、彼は戸惑いを顔に浮かべた。眼鏡の奥の灰色の瞳が怯えるように身を引いた。 表情にはあらわれない。ただわずかな歪みにしか見えはしない。 だが彼女は彼の様子を敏感に感じ取っていた。 顔色が変わらなくとも、その目と心が後ろに引くのを確かに感じ取っていた。 二人の間には隠し切れない距離がある。すぐそばに向かいあって座っていても、とてつもなく広い広い隔たりがある。 まるで、あの枯れた川を挟んでいるようだ。 川の端と端に立って、互いの様子を慎重に窺っているようだ。 彼はことあるごとにその距離を埋めようとしていた。唐突に彼女の頭をなでた。前置きもなくふいに話し掛けた。彼女に向かって、静かに手を差し伸べた。 だが、かと思えばなでようとした手を止める。開きかけた口をつぐむ。合わせようとした目を逸らす。 触れようかどうしようか悩んでいるように思えた。彼女の元に近づこうかどうしようか、向こう岸で戸惑っているように感じた。そのあやふやな定まりきらない感情は、彼女の心をざわめかせる。彼自身の持つ不安が彼女にまで伝染して、余計に二人の距離を広げる。 彼女は本を読んだ。 想うだけで不安になる彼のことを忘れるように、ただひたすらに本の世界にのめりこんだ。 ページに手を掛けたまま何度か眠った。だが浅いそれはすぐに悪夢を呼び起こし、彼女はその度うなされながら目を覚ます。一体どれだけ眠ったのか、時計もなく陽のうつろいも感じられないこの場所では解らない。彼女は押し寄せる憂鬱から逃げるように、またすぐに本の中へと潜った。 その手から紙の感触が消えたのは、読める本が尽きてしまったからだった。もう彼女の理解できる言語で書かれた本はない。全て、本当に全て読み尽くしてしまった。 そうすると途端に不安が押し寄せる。ものを言わないはずの書棚が、古びた壁が急に暗く彼女に迫った。 この家の壁にはいたるところに紋様が彫り込まれている。無造作に広がるそれらは飾りではなく、何か魔術的な意味を持つものに思えたが、書かれてある内容を理解するだけの知識はまだない。彼女は不気味なものを見る目で広がる紋様たちを眺めた。 壁を直接彫った溝に墨を埋め、更に上から保護剤のようなもので磨き固めてあるのだろうか。透明なつやを帯びたそれらは気迫をもって彼女を包む。 彼女は心細さに泣いた。大声を出す力はもうない。ただ弱々しい嗚咽だけが誰もいない部屋に響く。 誰もいない。本当に、自分以外は誰一人。 泣いていると笑いながらハンカチで顔を拭いてくれた母も、困ったようにただ「泣くな」と言うだけだった父も、本ばかり読んで動こうとしない自分の腕を無理に引き、強引に外遊びに連れて行ってくれた友も、ここにはいない。 もう、二度と逢えないかもしれない。 誰もいない。自分は今こんな場所にたった一人きりなのだ。 彼女は泣いた。今更ながらに彼について行けばよかったと思う。こんなにも寂しい思いをするのなら、不安な思いをするのなら、せめて、あの時彼に付いていっていれば。せめて彼がここにいてくれれば。 力ない動きで涙を拭ったその時、部屋のドアが静かに開いた。 向こう側には無表情で佇む彼。 彼女は彼の姿を認めた途端、ふらつく体で駆け寄った。そして驚く彼に抱きつく。涙が急にどっとあふれた。彼女は堰を切られてしまったように、大声で泣き始める。 彼は縋りつく彼女をじっと見つめた。強く抱きついてくる細い腕を、やつれつつある弱い体を、真っ赤になって泣きわめくその姿を。 彼は戸惑うように迷わせていた手を、しっかりと彼女の肩にやる。そのまま崩れるように屈みこみ、小さな彼女を抱きしめた。 「寂しかったのか」 彼女は深く頷いた。彼の目が泣きそうな形になる。 「ひとりは嫌か」 彼女はまた強く頷く。彼は彼女を強く抱きしめた。 「そうか」 彼はただそう言って、彼女の頭をそっとなでた。泣き出しそうに歪めた瞳に涙が浮かぶことはない。表情もそれ以上の変化を見せることはない。彼はただ、優しい仕草で彼女の頭をなで続ける。掠れた声で囁いた。 「ごめんな」 そればかりを繰り返し、彼は彼女を強く強く抱きしめた。 彼は川の向こう側から手土産を持ち帰っていた。分厚く大きな黒い布と、バケツいっぱいのろうそく。怪訝にそれらを見つめる彼女に、彼は呟くように言った。 「昼と夜を作ろう」 更に怪訝に見上げた彼女に向けて続ける。 「ここに、時間を作る。そうすればきっと眠れるようになる」 彼は丸い銀色のものを取り出した。手のひらに乗せて彼女に見せる。 それが何かを教えるように、目の前でふたを開いてみせると、白地に黒で数字の記された文字盤が現れた。動きの止まった三本の黒い針も。 くすんだ銀色のそれは、小さな懐中時計だった。 彼はねじを回して時計の息を吹き返させる。針の位置を調整すると、ふたを閉じ、付属した細い鎖を彼女の首に掛けてやった。 「これをお前にやる。時間は読めるか」 「うん。今は……四時三十分」 彼女はふたを開いて脈打ち始めた針を見る。秒針の働く音がかすかに聞こえた。 「もうすぐ夕方だ。そのうちに日が暮れる」 彼はろうそくの盛られたバケツを取る。そしておもむろに立ち上がった。 「その前に、昼を作ろう」 彼は部屋の隅にひどく古びた燭台を立て、ろうそくを並べていった。赤いもの、白いもの、長いもの、丸いもの。中には花の形をしたものもあった。彼はそれらに順番に火をつけていく。 彼女も彼に倣って不揃いなろうそくたちを並べていく。バケツの中のものが尽きても、まだ元から家にあったものや、黒い布に包まれていたものもあった。燭台が尽きたあとは代わりに小さな皿を並べる。火をつけて融けはじめたろうをたらし、ろうそくを固定した。 ちらちらと揺れる炎が少しずつ増えていく。 炎の並びは居間と言える部屋を囲い、廊下を進み、作業室や寝室まで明るい光で照らしていく。 彼が何かを細工したのか、炎は触れても熱くなかった。あまりさわると消えてしまうが、火傷をすることはない。部屋の温度を無茶にあげることもなく、どういうわけだかろうそくの減りも遅かった。 彼女は初めて目にする魔法のかけらに夢中になる。疲れも震えもどこかに捨ててしまったように、嬉しそうにろうそくを見つめていた。 部屋は段違いに明るくなった。立ち並ぶろうそくたちは煌々と身を燃やし続ける。窓から差し込むぼんやりとしたそれよりもまだ強く、大量のろうそくが真昼のような光をもたらす。 そこには確かに昼が訪れていた。間違いのない、彼らの昼が存在していた。 「何時になった」 ろうそくを全て並び終え、彼が訊くと彼女は首に下げた時計を見る。 「五時」 「夕方だな」 そう言うと、彼は黒い布で窓を覆い始めた。外から入る白い光が遮断されて部屋の中は炎の明かりだけになる。まるで急に日が暮れたような色があたりを包んだ。彼はろうそくの火をいくつか消した。光が量を減らしていく。少しずつ闇に近づく。 「夕方だから、夕食だ」 彼は当たり前のように言って、台所へと歩きだした。 彼女は駆け寄って後に続く。彼の服の裾をつまんだ。 「手伝う。私の方が上手だから」 彼はびくりと身を固くして、戸惑うように彼女を見つめる。触れようかどうしようか、近づこうかどうしようか悩むような、怯えるようないつものまなざし。 彼は気持ちと共に体を引いて、彼女に手を離させる。 彼女は悲しそうに彼の目を見つめた後で、ゆっくりと俯いた。 彼は何か言いた気に口を開くが、すぐにそれを閉じてしまう。 二人は複雑な距離を空けたまま、並んで台所に立った。 粗末な食事をたいらげた。食器の類を片付けた。その間にも交わされたのは最低限の会話だけ。 やりきれない気まずさが二人を包む。一度は近づいた距離がまた広がっていくようだった。 行き場のない視線をふと時計にやって、彼女は時刻を彼に伝えた。 「七時十分」 「そうか」 彼はそう言うと食卓を離れた。彼女も同じように席を立つ。 「夜になるの」 「そうだ。もう寝たほうがいい。昼を消すぞ」 そういう端からろうそくの火を指でもみ消す。熱を持たない魔力製の炎は音もなく掻き消えた。 それを、ひとつひとつ繰り返していく。家中に並べた大量の火を消していく。 彼女もそれを手伝った。彼の横に並び、小さな手で炎をもみ消していった。 闇が徐々に勢いを増していく。外の光は黒い布に阻まれて届かないのだ。ろうそくの火が消えた後は、ただ真暗な闇が迫るばかり。 部屋の明かりが落ちていく。少しずつ、夜の色に近づいていく。 居間の明かりを消した後は廊下の火、その後は作業場の火と時間をかけて消していった。 彼女はうとうととしながらも彼の側を離れない。心の距離を感じながらもぴたりと側に並んで立つ。 彼は彼女を気にするように見つめながら、ろうそくの火をもみ消した。闇がまた確かに近づく。 「お前は」 呟いた彼の声は震えた。 「寂しいのは、嫌か」 「……うん」 彼女は火を消しながら答える。彼は更に問いかける。 「ひとりは嫌か」 「うん」 彼女は大きな炎をもみ消す。また、夜の闇が近づく。 「そうか」 彼もまた最後の火をもみ消した。廊下の火は完全に掻き消えて、その場は重い闇に沈む。彼は彼女の寝室のドアを開けた。眩しいまでの明るい光が目に飛び込む。 「布団に入れ。後は俺が消す」 「……うん」 どこか暗く頷いて、彼女は素直に布団に入る。ベッドが軋んだ音を立てた。彼は彼女に背を向けてろうそくの火をひとつずつ消していく。最後の部屋にも少しずつ闇が手を伸ばしていく。 彼は背を向けたまま、かすかな声で呟いた。 「俺も、ひとりは嫌だ」 彼はまたひとつ炎をもみ消す。沈黙の中、部屋がまたほのかに暗くなる。 彼女の反応はなかった。彼は安堵のような、悲しみのような複雑な気持ちを覚える。 長い間、彼はひとりきりだった。この不可解な檻の中にひとり閉じ込められていた。 彼女はこの状態に陥ってから初めて出会う人間だ。 久しぶりに、本当に久しぶりに出会うことのできた人だ。 だがこのまま情をうつすわけにはいかなかった。暖かい感情を持ちだしてはいけなかった。 彼女は長くは生きられない。この不自然な環境で、生身の幼い人間がどれだけ生き延びることができるだろう。食べるものは確実に尽きていく。きっと、長くはもたない。 たとえ上手く生きたとしても、どちらにしろ人間はいずれは老いて死ぬものなのだ。既に二百年近くを生き、それでもまだ果てのない命を抱える彼とは違い、彼女はいつか自分を置いていってしまう。それは、どうしても避けることのできないものだ。 だから彼は彼女と深く関わることを恐れていた。暖かなその存在を求めまいと自制してきたのだ。 ろうそくは、もうあと四本だけになった。彼は手近なひとつを消すために手を伸ばす。 だがその動きは彼女の言葉に遮られた。 「ありがとう」 伸ばした手がぴくりと跳ねる。彼女は更に言葉を連ねる。 「お昼、作ってくれてありがとう。ごはんも、いろんなことも全部。ろうそく、私のために取ってきてくれたのに、あの時はごめんなさい」 伸ばしたままの手が震えた。すぐそこにある火まで指が届かない。炎を消すことができない。彼女は緊張したたどたどしい喋りで続ける。 「でもね、嬉しかった。ひとりでいるのすごく怖かったから、帰ってきてくれて、嬉しかった」 彼はまた小さく震えた。俯いた顔がみるみると弱っていく。 距離を置き避けて過ごす。必要以上に触れ合わない。それが正しい選択だと思っていた。そうすることが一番いいと考えていた。 それなのに。 「……一緒にいてくれて、ありがとう」 それなのに、心は既に彼女を求めてうろたえている。 彼は胸の内でかぶりを振った。触れてはいけない。近づいてはいけない。 このままではいつか必ずやってくる別れの後に、自分は生きていけなくなる。 それほどの悲しみを、また、背負うことになる。 彼は素早くろうそくの火をもみ消した。一つ、二つ、三つ。あと一つ。あと一つだ。そうすればこの部屋から出ていける。また距離を遠く置くことができる。 彼女が何か口を開く気配が伝わる。 彼は最後の火に手を伸ばす。 届く。揺れる炎に指を入れて握りつぶす。 消えない。早く、早く、早く。 焦りから震える指でもう一度火を握る。 完全な夜の闇が部屋の中に訪れた。 急な光の消失に目が慣れず何も見えない。彼は小さく安堵の息をついた。悲しみはある。言いようのない寂しさはそれ以上だ。だが、それでも、いつか大きな喪失感を味わうことになるよりは。 彼は外に出るために一歩を踏み出す。 その動きが凍りついたように止まった。 「いっしょにいて」 小さな手、震える声。いつの間に近づいていたのだろう、彼女がそっと服の裾を握っていた。 「お願い。今だけでいいから。いっしょに、いて」 言葉は涙に途切れていた。彼女はきゅうと彼の背にしがみつく。そのまま静かに泣きじゃくる。 彼もまた泣くだけの力があるのならば泣いただろう。いつか訪れる別れへの不安から、恐れから、そして今だけは胸に溢れる暖かな喜びに。 彼は弱々しく振り返り、そっと彼女を抱きしめた。 「寂しいのか」 彼女が頷くのが気配で知れた。彼は掠れた声で続ける。 「ひとりは嫌か」 彼女はまた強く頷く。 彼は彼女を強く抱き、かすかな声で囁いた。 「俺もだ」 二人分には狭いベッドに潜り込み、薄い掛け布団を被る。 彼女は彼の手をぎゅうと握って離そうとはしなかった。 「それで眠れるのか」 「だって、離したらいなくなるでしょ」 彼は思わずぎくりと身を固くする。まだ機を窺って逃げようとしていることを見抜かれてしまったのか。 「……私はまだ大丈夫だから。だから、今は一緒にいてね」 彼は夜闇の中の彼女を見つめた。いつの間に考えを知られてしまったのだろうか。 始めに歳を告げていたからか。自分がまだ永遠に近く生き続けることを教えたためか。 それとも彼女が日に日に弱っていくのを心配していたからか。それら全てかもしれない。 どちらにせよこの利口な少女は、彼の不安のほとんどを察し取ってしまったようだ。 「あのね、私がんばる。がんばって、いつかこの封印を解くの」 彼女は彼の手を強く握った。確かな意志がそこから伝わる。 「そうすれば二人でここを出られるよ。一緒に外で暮らせるの」 「そうか」 彼は呟くように言った。口を閉じてしまった後で、少しずつ暖かいものが胸を満たす。 「……そうだな」 穏やかな声で言って、口元をわずかに上げた。 笑うのは、もう、随分と久しぶりのことだった。 彼は掴んでくる彼女の手を引き剥がし、代わりに指を絡ませる。 「そうだな。そうしよう」 「うん。そうしようね」 彼女もまたしっかりと手を合わせ、嬉しそうな笑みを浮かべた。 そしてどちらともなく目を閉じて、いつしか寝息を立て始める。 闇を生み出すカーテンと、火の消えた沢山のろうそく。 創り出した夜の中、二人は手を繋いで眠った。 |