古びた音をぎいと立て、彼は家の戸を開けた。外の光に射られるように目を細め、かすかな息を一つ吐く。大きなバケツを持ち直し、ずれた眼鏡を掛けなおしつつ足を進めた。
 一面の、緑。枝葉の濃い大木たちは、白い土を隠すように隙間少なく大きく根付き、昼夜のない空へと背を伸ばす。見上げても、葉の合間から覗く空には星ひとつ見えなかった。太陽の形も見えず、ただ平坦な一面の淡い白が広がるだけ。
 天蓋は見えない壁に阻まれているのだ。この土地だけ世界から隔離されて一体どれほど経っただろう。解るのは、数えるのを諦めてから何十年も過ぎたことだけだ。
 彼はひとり樹海を歩く。そびえる木々には黒い塗料で紋様が描かれている。指先でその道筋を辿りつつ、水差しの呪文を唱えた。指先が通る度に幹の中で水の跳ねる音がする。かすかな音だが辺りがあまりに静かすぎて、恐ろしく大きく響いた。
 風は吹かない。ここには雨も届かない。大木たちはその葉を揺らすこともなく、ただ静かに佇んでいる。彼はその隙間を縫って歩く。
 その足がぴたりと止まった。彼は警戒するように気を張りつめて辺りを窺う。空気が震えたような気がした。見えない壁が大きく揺れたような気がした。
 バケツを放り、彼は突如あらぬ方へ駆け出した。木々から落ちるつたを掻き分け、地を覆う根を踏みつけて、ただ一点だけを見つめて走る。そしてまた唐突に足を止めた。
 嘘だ、と呟く。だがどんなにまばたきしても光景は変わらなかった。幻ではない。
 彼は息を飲み込んで、そっとそれに手を伸ばした。
 大きな古い本を抱え、丸くなって眠る子供に。



 まだ十は越えていないか。彼は眠る子供を見つめる。家に運び、ひとまずベッドに寝かせてみたものの、一向に目を覚ます気配はなかった。生きた者を目にするのは余りにも久しぶりで、年齢予測もあまりあてにならなかった。はっきりと解るのは、これが女の子だということ。そして抱えたこの本を、どうやっても離そうとしないこと。
 日焼けが酷く、書かれた文字も薄れきった分厚い本。この小さな子供が持ち運ぶには幾分不自然にも思える。背表紙はかろうじて読みとれた。近隣言語で『幻術の迷宮路』と記されている。幻術、迷宮。彼は心でその言葉を反芻する。そして事態と照らし合わせ、行き着いた結論に大きく疲労の息をついた。
「おい」
 小さな頭を乱雑になでくってみる。要望に答えるように、子供は眠りを手放した。
 もぞもぞと布団を求めて手足を伸ばすが、望みのものは部屋の隅に除けられている。探っても探ってもシーツにしか出会えないと悟ったのか、子供は薄く目を開けた。
 ぼんやりと濁った目が彼を捉える。彼はまた大きな手で頭を撫でた。子供は嫌がり唸りながらそれを拒む。彼は眠りを消し去るように、執拗に撫で続けた。子供も払おうとするのをやめず、そのやり取りを繰り返すうち完全に目が覚めたようだ。
「……だれ?」
「お前こそ」
 短く返すと子供はきょとんと見つめてくる。ようやく覚めた視線を受けて、彼は困ったように言った。
「どうやって入り込んだんだ。……お前、もう出られないぞ」
 子供はぽかんと口を開けた。



 ぎいぎいと甲高い音がする。木の軋む音を立て、彼は子供を連れて歩いた。
「ここか」
 子供はかすかな声で頷く。彼はまた息をついた。
「泣くな」
 だがそれで涙が止まるはずもなく、子供はただ泣きじゃくる。彼は諦め繋いでいた手を離し、この小さな侵入者が潜り込んだ場所を見つめる。どの景色とも変わらない白い土と白い幹、そしてただひたすらに濃い緑の広がる樹海の一角。だがそこには目新しい物達がぱらぱらと落ちていた。
 黄色のカバンに小さな水筒、薄い地図。お菓子の袋は空っぽで、磁石の針は術にやられて回転を繰り返す。彼は散らかる一つ一つを拾い集め、バケツの中に入れていった。その度にかんかんと耳障りな音がする。子供の泣き声に混ざる。
「たった十一で、封印を見破って進入か。驚いた」
 だが言葉と違い表情に変化はない。動揺一つ見せることなく回収を終え、子供の側にしゃがみ込んでまた小さな頭を撫でた。彼は子供に改めて聞く。
「お前はここから入ってきたんだな」
 子供はこくりと頷いた。嘆きの去らない赤らむ顔で、怖々と彼を見つめる。彼はまた頭を撫でた。
「それは凄いことだ。だがな、よく見てみろ。今ここに、その出入り口が残っているか?」
 子供の目にまた涙が盛り上がる。それを振り払うように、大きく何度も首を振った。
「そうだ。封印に綻びがあった。お前はその隙を突いてこの国に入り込んだ。そこまでは簡単だ。だがここに掛けられた術は甘くない。中の者を閉じ込めるように出来ているんだ。だからお前はもう自分の家には帰れない」
 淡々と続いた言葉に、子供はとうとう声を上げて泣き出した。火をつけられてしまったように、脆い堰を完全に壊したように、子供はただわあわあと泣き喚いた。彼は側の木の根に腰掛け、無表情にそれを眺める。二人は遠く別の場所にいるように干渉もなく時を過ごす。
 この土地は世界から隔離された幻の国。透明な封印の壁は外部からも内部からも出入が出来ないように作られている。この子供はもう外には出て行けない。食糧も水も少ない檻の中で、短い生を終えるだけだ。
 彼はバケツの中から子供の本を取り出した。内容は、“幻の国”へ辿り着く方法をいくつもいくつも並べては否定した研究書。彼はそれをめくりながら、ある範囲にだけ手書きの文字が紛れていることに気付く。気付いた途端挟まっていた新しい紙がこぼれ落ちた。止まらない泣き声を耳にしつつ拾いあげる。書かれているのは幼くつたない文字の並び。だが、そこに記されているのは……。
「おい」
 呼びかけには動揺が薄く浮かぶ。子供は泣きながらも振り返り、しゃっくりをしつつ彼を見上げた。
「これ、お前が書いたのか?」
 彼は紙を掲げて見せる。子供は小さく頷いた。彼は思わず目をみはり、もう一度その内容を読み返した。本に書かれた手書きの言葉とも合わせ、その中身に没頭する。
 本の中ではたった数行の否定で片付けられた、ある仮定。幻の国は封印されて、まだこの世に存在するのではないか――事実だ。その国は確かにここにあるのだから。だが封印を越えるための魔術理論は破綻だらけで役に立たない。確かに一蹴されるだけのことはある。
 だが、この子供のつたない言葉は新たな理屈を引き出して、その破綻を全てきれいに埋めていた。この封印を越えることは可能なのだと綴っている。まだ幼い、たった十一の子供が。
 彼は呆然と彼女を見つめた。泣きつかれて根の上にへたり込む、弱々しい小さな子供。
 この子供はこの理論を編み出したのだ。そして自ら答えを得ようと、実際に動いたのだ。
 そして今まで誰一人見つけられなかった、幻の国を見つけだした。
 だがそこはただの深い森。二度と外へは出られない檻。
 いや、と彼は心の中で呟く。そうとは言い切ることができない。
「おい」
 本をバケツの中に戻し、彼はすっと立ち上がる。子供に近寄り変化のない顔で訊く。
「お前、戻りたいか」
 子供は強く大きく頷く。
「そうか」
 彼は眼鏡を掛けなおし、持ったバケツの中を見つめ、また子供へと視線を戻す。
「何年か掛かっても、戻りたいか」
 この子供が見つけた理論は新たな道を彼に与える。封印の壁を中からこじ開け、出口を生み出すことが出来るかもしれない。試すだけの可能性は確かにある。ただ、上手くいくかはわからない。どれだけ時間がかかるかもわからない。それでも賭ける価値はある。
 子供がそれを察したのかは解らない。だが、彼女は聡明な目で彼を見つめ、頷いた。
「そうか」
 彼はただ、顔色一つ変えないままに、空いた手を子供に伸ばす。
 子供はそれにしがみついた。



 子供の稀なる才能は新たな道を次々と見つけだした。彼はそれを完全なものにするため、一つ一つ詳細に詰めていく。その結果多くは破綻を迎えて消えて、研究は何度も水泡に帰すこととなった。それでも彼らはひたすらに道を探す。外に出て行くための道を。檻を破るための鍵を。
 そして約一年後、彼らは儚い希望を見つける。



「一人分か」
 呟く彼の表情は、相も変わらず変化を見せない。子供は涙を堪えて言った。
「ごめんなさい」
 彼はゆっくりと首を振る。
「いいんだ。どちらにしろ俺はまだ出て行けない。役目がまだ終わっていない……だから泣くな」
 見つかった希望の鍵はあまりに弱く壊れやすく、一度の行き来で消滅してしまう道だった。彼は子供だけを外に帰すことに決め、ささやかながらも身支度を整えてやる。こぼれる涙を拭きもせず、子供はまたごめんなさいと繰り返す。泣き顔で彼を見上げた。
「外に出たら、絶対にむかえに来るから。今度は絶対、一緒に外に出られるようにがんばるから」
 涙の混じる必死の声に、彼はまたゆっくりと首を振る。
「無駄だ。お前は外に出た途端、中でのことを全部忘れる」
 それが、封印の形だった。この国が幻と呼ばれるゆえん、古くは確かに他国と交流していたのに、文献も人の記憶も全て抹消されている原因。呪いのような強い魔術はここと外とを完全に切り離す。子供は外に帰った途端、ここでの全てを忘れてしまう。
「わすれない。わすれないから」
 泣きじゃくり、子供は彼にしがみ付く。約一年、子供は彼に育てられた。まるで父と娘のように確かな絆を作り上げた。だがそれすらも幻となり、完全に忘れ去られてしまう。長く生き、彼は誰よりもそれを思い知っている。
「忘れるんだ。忘れたくなくても、忘れてしまう」
 彼は子供の頭を撫でた。優しく確かな暖かい手で。
「でも俺はお前のことを忘れない。俺はまだ諦めない。必ずここを脱出する」
 言葉に弱さは浮かばない。そこには希望を見つめる強さがあった。彼は続ける。
「お前が教えてくれたんだ。諦めないこと、可能性を忘れないこと。俺はここを出てみせる。お前がまだ生きていればいつか会えるかもしれない。お前が覚えてなくても、会えるかもしれないんだ」
 しゃっくりをして、子供は袖で涙を拭う。じゃあ、と言って腕を出した。
「名前を残してよ。もう一度会った時、ちゃんとそうやって呼ぶから」
「無駄だ。たとえ刻み込んだとしても、跡形もなく消えてしまう」
 だが子供は腕を下ろさない。真剣な眼差しでまっすぐに彼を見据えた。
「やってみなきゃわからない」
 彼は笑ったようだった。それはまた一瞬で無に戻ったが、右手には答えの代わりに筆記具が握られた。子供の腕を優しくとって、ペンの先を肌に当てる。
 彼はやや歪んだ文字で自らの名前を綴った。子供は何度も呼んだそれを、改めて読み上げる。
「カリアラカルス」
 彼は静かにペンを置いた。
「俺はお前を忘れない」
「私も、忘れないから」
 子供は彼に身を寄せる。彼はそれを抱きとめて、また優しく頭を撫でた。
「また会おう。ミハル」






 机に追加された本があまりにも大量だったので、シグマは思わず嫌そうな声を出した。
「あー、もうなんでこんなに持ってんすかー」
 山のように積み上げられた文献たちを、疲れたように横目で眺める。ミハルは顔色一つ変えず、あっさりと言い切った。
「趣味だ」
 そして山を一つ一つ指差しては説明する。
「これは消滅説、これは沈没説、転移説、封印説。まあ封印説だけで十分だが」
 それらは全て幻の国に関する研究書物だった。ミハルが集めたものらしい。
「なんでそんなに詳しいんすかー。というかこれ全部読んだんすか? 本当に?」
「ああ。書庫の奥にはまだ沢山ある」
 その分量を想像し、シグマは机に突っ伏した。
「駄目です。無理っす。俺は魔力提供だけってことになりませんかー?」
「理屈が解らないと呪文が掴めないだろう? まあ大丈夫、大雑把なところは私が一人で考える。お前は手伝ってくれるだけでいい」
「ありがとうございます」
 心からの感謝をあらわし、シグマは深く礼をした。
 魔力塔からの帰路、ミハルはシグマに相談を持ちかけた。あの塔の中で見た、幻の国への道を探したい。樹海にしか見えなかった場所の封印を解くために魔力を提供して欲しい、と。
 あまりにも真剣に言うので、迷いもなく承諾したのが悪かった。彼は現在ミハルの家で、その異様なまでの熱心さを思い知らされているところ。
「完全に分野外なのに、なんでここまで……単なる趣味を越えてますよ」
 下手をすると本業より詳しくてもおかしくない。ミハルは素朴な疑問を受けて、不思議そうに首をかしげた。
「それが、実は自分でもよく解らない。何故だろうな、辿り着かなくてはいけないものがあるような気がするんだ」
「そんな先輩らしくもない。ああ、でも塔のためにも答えを見つけたいですよね。封印の国は今どうなってるのか、なんで消えてしまったか」
「そうだな」
 椅子を引き、ミハルは対面に座る。積み上げた本を寄せ、空いた場所に白い紙を広げたところで手を止めて、何故だかふと自分の頭に手をやった。
「どうしました?」
「あ、いや……なんでもない」
 不思議そうに眉を寄せたがすぐに気を取り直し、側にあったペンを取る。一冊の本をシグマに渡した。ツギだらけの古い本。表紙からは辛うじて題名が読みとれる――『幻術の迷宮路』。
「じゃあ、始めようか」
 そして二人は新たな道を探し始めた。