陸に上がると、いやに喉が渇くようになった。 カリアラは水差しに口をつけて汲み置き水をじかに飲みほす。ごくごくと喉から耳へと心地よい水の音が流れていく。それでもまだ奇妙な渇きは水を求めて胸を騒がす。 「あ、飲むなって言っただろ!」 空にした水差しを置くと、台所にいたサフィギシルにたしなめられた。彼はずかずかと近寄ってきて置かれた瓶を取り上げるが、空になっていると知ると不機嫌そうに顔をゆがめ、困ったように立ち尽くすカリアラを叱りつける。 「お前最近水ばっかり飲みすぎだぞ」 「でも、のど渇くんだ。飲んじゃだめなのか?」 カリアラは尽くしてしまった空の瓶を物欲しそうに眺めるが、サフィギシルはそれを背中に隠した。 「度が過ぎると胃袋がもたないんだよ。所詮はただの人工皮なんだから“生身”の体と同じようにはいかないんだ。破裂するか中の部品が圧迫されて故障するか。どちらにしろ直すのは俺なんだからな、これ以上手間をかけさせるなよ」 胃の形を解りやすく教えるように、カリアラの胴体部分を指でぐるりと示しながら説明する。指差された先にあるのは質素な服。更に下には血肉を伴わないひとがた細工の体がある。 それは一般に細工物と呼ばれ、魔術と技術を合わせて使う魔術技師の手による『作品』の一例だった。魔力を呑んだ特別な石や鉄の部品も含んではいるものの、全体のほとんどは木で組み立てられている。魔力でかなり調整してはいるが、多すぎる湿気や水気は体の動きを鈍らせるのだ。 そのため、大量の水分摂取はカリアラの体にとっても具合が悪いはずなのだが。 「でも、すごくのどが渇くんだ」 彼自身は製作者の小言など気にもせずに言い切った。 サフィギシルは諦めたように呟く。 「……魚だしな」 「うん。でも、今は人間だ」 カリアラは当たり前のように答えた。 平然として見える彼の表情が、無感情な魚のそれとよく似ているのは偶然ではない。ほんの数ヶ月前までは彼はピラニアとして生きていた。だが共に育った人魚が陸へと運び出され、更に二本の足を付けられて人としての生活を強いられたため、カリアラもまた人の体と陸での暮らしを望んだのだ。その願いはサフィギシルの手によって叶えられ、カリアラは不完全な木製の“人間”としてこの小さな家に住み着いている。 「人間なら水もほどほどにしろよ。とにかくこれはもう飲むな。わかったな」 言い聞かせるようなサフィギシルの念押しに、カリアラは真剣な顔で頷いた。 「わかった、それはもう飲まない。外から別の水取ってくる」 「お前は何ひとつ解ってない。これっぽっちも解ってない」 人間になりたての元ピラニアは、まだ言葉があまり得意ではない。 ※ ※ ※ 「どうして喉が渇くんでしょうね」 膝に乗せたカリアラの額に意味もなく手をあてて、元人魚のシラは首を傾げた。きょとんとした目で見つめてくるカリアラの肌をなぞり、べたべたと触りながら言う。 「この間までは水もそんなに欲しがってなかったのに」 「すみませんオレまだ子供なんでたいがいにしてくれませんか」 そのままでは接触過剰になりかねない元水棲の二人に向けて、遊びにきていたピィスが呆れきった声を出した。二人からは少し離れた食卓で、少年じみた薄い体を退屈そうに伏せている。 「いやいいんだけどさ、仲良しで。あーあ、目のやり場がない家だなーっと」 「大丈夫ですよ、恥ずかしくありませんから。ねえ?」 シラはそう言うと膝枕のままカリアラの体に腕を回す。きゅ、と軽く抱きつくと、カリアラもまたそれに応じて彼女の腕を優しく掴んだ。彼は彼女にぴったりとくっついたまま、不思議そうな顔で尋ねる。 「ピィスはなんで恥ずかしいんだ?」 「……もう何を言えばいいのかも解らないし、さっきの発言は忘れていいよ」 ピィスは小さな頭を抱え、諦めたように遠くを見つめた。カリアラは気分が離れてしまったピィスを気遣うように問いかける。 「お前も一緒にやるか?」 「勘弁してくれ」 即答されるがあまり気にはしないようで、カリアラはそうかと言うとまたシラの膝に頭を乗せた。二人掛けのソファでは毎日同じことが繰り返されている。それぞれがただのピラニアと人魚だったころからふれあいの形は変わらない。たとえ、ピラニアが人間の青年になったとしても。 「あら?」 シラはカリアラをなで続けていた手を止めた。 「これ、何でしょうか」 指差されてカリアラは自分自身の襟元を見つめる。ピィスの目も遠くから寄って来た。椅子を立つとソファの背から乗り出すようにして凝視する。 「……芽?」 呆然とした言葉の通り、カリアラの服の中から飛び出たそれは、黄緑色の草の芽だった。ひょろりと伸びた茎の先には小さな緑の粒がある。根元からは藻のような細やかな葉が伸びていた。植物だ。まるで日陰で育ったような、鮮やかさのない薄い緑色の草。 カリアラは首元に生えた寄生物を指先でちょんとつついた。 「これ、まだ生きてるな」 「じゃあ、生えてきたってこと? いや、まあ肌も木で出来てるんだから寄生されてもおかしくはない……のか? ええ?」 突然の事態に混乱するピィスをよそに、シラは迷わず台所のサフィギシルに声をかける。 「サフィさん来てください! あなたのせいで大変です!」 「は!?」 まだ料理の途中だったのか、サフィギシルは片手にお椀を持ったまま居間の中に飛び込んでくる。シラはカリアラの頭を抱きしめたまま彼に非難を投げかけた。 「あなたがまた性懲りもなく変な実験をするから……!」 「え、いや、してないし! 一回もしたことないし!」 訳が解っていない様子でお椀ごと手を振ると、カリアラが寝転がったまま弁護する。 「そうだぞ。おれ、もうずっと修理してない。だからサフィじゃない」 不服そうなシラを見つめ、カリアラはまっすぐな目で言い切った。 「多分、おれは花壇になったんだ」 不可解な沈黙がしばしの間部屋を満たした。 「うわ。なんかいま一瞬すごい世界に連れていかれた」 「バカ、俺なんか毎日こんな発言ばっかり聞かされてんだぞ」 自らの腕を抱くピィスの頭を小突き、サフィギシルは小声で言う。 カリアラはそんな彼らの反応をきょとんと見つめ、不思議そうにシラに尋ねた。 「おれ、この間花壇で草むしりしたから。だからおれも花壇になったんじゃないのか? 違うのか?」 「そうですねー、そうかもしれませんねー」 シラは彼が可愛くて仕方がないというように、相好を崩しに崩して頭をなでる。 「どう考えても違うだろ。そこで誉めちゃいけないだろ」 「バカ、俺は毎日もっと凄い会話を聞かされ続けてるんだぞ」 苦渋に満ちたサフィギシルの顔を見て、ピィスは同情あらわに言った。 「……そろそろ脳が溶けそうですかお兄さん」 「若干」 付いていけない人間二人はため息と共にわざとらしく首を振る。 だがいつまでもふざけてはいられない。サフィギシルはカリアラをソファにきちんと腰かけさせて、出現した奇妙な芽を確かめた。襟の端から出ているために肩から生えたようにも見えるが、実際には腕の付け根、脇に近いあたりから人工皮の隙間を抜けて外に出ている。 「中に種が入り込んだんだな。多分それが発芽したんだ。花壇の掃除をした時、お前土にまみれてただろ。枯れ草の処理もしたし、そこから種が入ったんだ。木組みの体内は魔力の熱で暖かいし、水ばっかり飲んでたから湿気が増えて成長しやすくなったのかもな」 「じゃあ、やっぱりおれは花壇に」 「なってない。ま、別に何か害があるわけでもないし、ほっとけばそのうち枯れるよ」 どうでもよさそうに告げると、サフィギシルは立ち上がる。製作者による処置の放棄にシラは悲しく俯いた。 「そんな。こういう時に修理をするぐらいしか意味のない人生でしょうに……」 「いま炊いてる晩飯は誰が作ってるのかとか、着ている服は誰が洗濯してるのかとかもう一回ちゃんと考え直してくれる?」 サフィギシルがいい匂いのする台所を指差すと、シラはわざとらしくため息をつく。 「掃除と洗濯と調理と片付けと修理にしか生きがいを見つけられない人生でしょうに……」 「うわ寂しい。そうか、だからいつも機嫌の悪い不憫な子になったのか……」 「かわいそうですね。きっと愛が足りないんですよ」 芝居じみたピィスの言葉に頷いて、シラはカリアラの体に抱きつく。不必要に体中をなで回しつつ生えた草を指で弾いた。サフィギシルは不機嫌を丸出しにした顔で言う。 「解ってるんなら分けてくれよ。二人でべたべたしてないで」 それを見ると、カリアラは当たり前のように彼に腕を差し伸べた。 「じゃあ、お前も一緒に……」 「誰が混ざるか!」 速攻の拒否の理由がわからず首をかしげる彼を無視し、サフィギシルは調理の続きを再開するため台所へと戻っていく。カリアラは不思議そうに去り行く家主の背中を見つめた。 「さみしいのになんですぐあっちに行くんだろうな」 「台所と作業室だけが安息の場所なんですよ」 「うわあ、ひどい言われよう。……あれ?」 何かに気付いたピィスがふと顔を寄せた。 「これ、先のやつってつぼみじゃないか?」 手を伸ばすとカリアラの襟から伸びる植物を指でつつく。細くてか弱い黄緑色の茎の先にぽつんと付いた小さな粒。やや濃い緑色をしたそれは、言われてみればまだ膨らみもしていない若いつぼみのようにも見えた。ピィスは近くでまじまじと見つめた後で、ぱっと口を軽く開く。 「え、あれ、うわ。なんかこれ知ってる気がする。どっかで見たことあるような……あれ、あれ、なんだっけ。えーとえーと、えー……あ、スイセッカ!」 「スイセッカ? そういう名前なんですか?」 「いや、あれ? なんかちょっと違うような。でもそんな感じの名前だったんだよ。いや、違ったような、あれー? ともかく図鑑かなんかで見たんだ。たしか変な特徴があって、それで印象に残ってて。多分うちにあるはずだから、晩飯食ったらすぐに帰って調べてみる」 「それでも飯は食ってくのか」 話が聞こえていたのだろうか、サフィギシルが部屋の奥から顔を出した。 「そんな珍しいものなら見てみたいな。カリアラ、育てて花を咲かせてみろよ」 「見たいのか? おれ、育てたほうがいいか?」 物を知らない元ピラニアには冗談など通じない。カリアラは本気にしてゆっくりと体を起こす。 キィ、と奇妙な音がした。 腕の付け根のあたりからだ。手足を軽く動かすと、体の奥で木の軋む音が響く。 カリアラは眉根を寄せて喉を押さえた。 かさかさと乾いた肌が手のひらをくすぐる。体中が不自然なまでに乾燥している。 「もう、いい加減なこと言わないでください。何かあったらどうするんですか……」 カリアラの仕草に気付いたシラが顔を覗き込む。それにつられてサフィギシルとピィスもカリアラを見た。 「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」 「のどが渇いた」 カリアラは困ったように三人を順に見つめる。手のひらは喉を包むように押さえたままだ。 サフィギシルが不機嫌そうに顔を歪めた。 「また? さっきあれだけ飲んだだろ」 「でもすごく渇いたんだ。水飲んでいいか?」 「駄目だ。明日まで我慢しろ」 カリアラはますます困ったように、飛び出た芽をつまんで尋ねる。 「花が咲いてもだめか?」 「それとこれとは関係ない。何があっても今日は駄目だ」 「そうか」 カリアラは悲しそうな顔をして、せめてつばを飲もうとする。 だが、唾液の一滴ですらすでに枯れ果てていた。 ※ ※ ※ 夜が更けていけばいくほど乾きは酷くなっていった。 喉が渇いて仕方がない。それだけではなく肌までが潤いを求めている。 水が欲しい。水が、水が、体がうもれるほどの水が。 切実に水を求め続けるこれは何なのだろう。この渇望のような感情は。 包まった布団の中でカリアラはまるで沫を吐くかのように、こほ、と小さく息をつく。 壁に体を押し付けると、みしりと奇妙な音がした。 ※ ※ ※ 「オハヨーゴザイマス根暗兄さん。玄関あけてー」 「……朝っぱらから喧嘩でも売りに来たのか」 コンコンと窓を叩くピィスに起こされ、サフィギシルは不機嫌なまま体を起こした。今はまだ早朝で、一般的にも個人的にも来訪には早すぎる。眠気を顔に浮かべたまま窓を開くとピィスが身を乗り出した。 「いや大変なんだって。昨日のカリアラに生えた草! 親父の園芸図鑑に載ってたんだけどさ、っておい聞いてる? あっコラ寝るな!」 「もーなんだよめんどくさいよ変なこと言いだすなよねむいんだよ」 「幼児化してる場合じゃねーって! ろれつ回してちゃんと聞け!」 小脇に抱えた園芸図鑑で窓枠に伏した頭を叩き、ピィスは喋りだそうとする。 「あの花は」 その動きは甲高い悲鳴に中断を余儀なくされた。 「……シラ?」 悲鳴がしたのはカリアラとシラそれぞれの部屋がある二階からだ。眠りかけていたサフィギシルもさすがにがばりと体を起こし、駆け出すとあっという間に部屋を出て行ってしまう。 「あっちょ、玄関あけろって! ……入るぞコラー!」 たちまち見えなくなった家主に悪態をつきながら、ピィスは小さな体を身軽に起こしてひょいと窓から入り込んだ。そのまますぐに本を抱えて走りだす。瞬発力には自信があった。廊下に出て階段を駆け上がるとちょうどサフィギシルにぶつかる。上がってすぐのカリアラの部屋は扉が開け放されていた。入り口にはへたり込んだシラの姿。 「どうした!?」 問いかけてもシラはただ呆然として部屋の奥を指差すだけ。サフィギシルとピィスはほとんど同時にその指し示す先を見た。そして、まったく同時に口を大きく開いてしまう。 窓際に位置するベッドの上にはカリアラが横になっている。 その口元が緑色に染まっていた。耳も、顔も、腕も、足も。 彼の全身のいたる場所から、黄緑色のひょろりとした草が生えていた。 「うわ――!!」 思わず飛び出た絶叫も、ぴたりと二つ重なった。 ※ ※ ※ 「おれ、やっぱり花壇になったんだな」 カリアラはベッドに寝転んだまま納得したように言った。 「まず一言目がそれかよ!」 「もっと動じろよ!」 サフィギシルとピィスが即座に言っても彼はただきょとんと目を丸くするだけ。その目頭からもにょろりと茎が飛び出している。鼻からも、口からも、耳からも。黄緑色の細い茎はあらゆる場所から飛び出しては弱々しく伸びていた。 ピィスは引きつった表情で、おそるおそる彼に近づく。 穴という穴からだけでは飽き足らず、緑の芽は人工皮を突き破って体の節々から顔を見せていた。堅く小さな緑の粒が変わらずぽつんと付いている。少し尖ったその先端が皮を破ってしまったようにも見えた。 まるで全身が草の苗地になったようだ。花壇という表現も間違いとは言いきれない。 「うっ、わー……凄いことになったなー」 「うん、凄いんだ。昨日の夜からずっとなんだ」 「それならそうと早く言え!」 まだ側に寄る度胸の出ないサフィギシルが入り口で言う。その隣では腰が抜けて立てないシラがこくこくと頷いた。カリアラは不思議そうに側のピィスに問いかける。 「でも、別に寝てるのを起こすほどのことでもないよな?」 「そんな純粋な目で難題をふっかけるな。でもまさかここまで育つとは……。サフィ、とりあえず背中開けてみて。多分、中はもっと凄いことになってる」 「これ以上凄い状況があるのかよ……」 サフィギシルは顔を引きつらせたまま歩み寄り、カリアラをベッドの上に座らせた。シラもまた後に続き、恐る恐るといったように作業の様子を覗き込む。 サフィギシルは慣れた手つきでカリアラの痛覚を切り、服を脱がせて皮を剥ぐ。部屋に常備してある工具でネジを外すと背中をはがし――思わずそのまま取り落とす。 木製の体の中は、藻のような緑色の葉でびっしりと埋め尽くされていた。 サフィギシルもピィスもシラも、たまらず一歩後に引く。 「なな、なんだこれっ。侵食されてるじゃねーか!」 「カリアラさん、大丈夫ですかカリアラさんっ!!」 様々な部品が詰め込まれているはずの内部はもはや草色にしか見えない。サフィギシルが怯えつつもその一本を引っぱると、どうやらそれらは随所に位置するひとがた細工の動力源、魔石と呼ばれる特殊な石に根を張っているようだった。 研磨された青い石の表面を覆うように、白いひげ根が隙間もなく這っている。目に見えるカリアラの体内は緑か白か二色に染め直されていた。 ピィスがその様子を覗いて納得したように言う。 「やっぱり。これ<水石花>だ」 サフィギシルとシラの目が同時にそちらに集まった。 「スイセッカ?」 「うん。池や川の底に石があるだろ? その表面に根を張る水草なんだって」 「水草? こんな凶悪な植物が?」 サフィギシルはびっしりと生えた緑を指差して言うが、ピィスは園芸図鑑を開いて内容を読みあげる。 「なんか結構人気あるらしいよ。水槽に沈めた石を核にして観賞用に育てる人もいるみたいでさ、注意点なんかもここに載ってる。『ある程度までは少量の水分でも育つが、あくまでも水草なので水中でしか花を咲かせることができず……』」 「ちょっと待て、これ花が咲くのか? 水の中で?」 「うん。水の中で咲くんだって。『特に芽を出してからは少しでも多くの水を求めて根を伸ばすため、陸上でも水たまりなどで自然に育つ場合もある』って。かなり生命力が強いんだな」 「それで、体の中の魔石に寄生したってわけか」 カリアラの体内を流れる魔力はほとんどが水属性だ。そのため水を求める花は彼の内部に根付いてしまったのだろう。もとより魔力を過剰に摂取すれば、植物も動物も異常な発達を遂げるものだ。短期間でここまで育ってしまったのも無理のないことだと言える。 ピィスは更にページをめくりながら続ける。 「で、ここが面白いところなんだけどさ。この草、水の中に入ると、根付けるような石に向かって飛んでいくらしいんだよ」 「飛ぶって、そんなまさか」 「いや本当に書いてあるんだって。飛ぶっていうより流されるというか。『今まで根付いていた仮の石を水に浸すと、水石花は根をほどいて水の中を漂い始め、最終的には水中での新たな宿主を得てそこに根を張りなおす。そのため別名<水棲帰花>とも呼ばれている』……だってさ」 読み上げる声が止まると、カリアラ以外の全員が困ったように口をつぐむ。 解説を終えた図鑑をぱたんと閉じてしまうと、あとは現実的な問題だけが残された。 「水棲帰花、ねえ。しっかしこれどうするか……全部手で取り除いてたらキリがないぞ。まさか石を一つ一つばらして水に浸していくわけにもいかないし」 サフィギシルはカリアラの内部を見ると、それだけで疲れたようにげんなりと顔を歪める。石にはびこる水石化は数にして百はあるだろうか。全身の魔石を取り外すなどということになれば、何百とある部品をすべて分解しなければならない。 カリアラが、こほ、と小さく息を吐いた。生える草に慣れたシラが、気遣うように優しく尋ねる。 「大丈夫? 苦しいところはある?」 カリアラはぽかんと口を開けて言った。 「のどが渇いた」 単純な返答はいやにかすれた声で響く。 「のど、すごく渇いた」 弱々しく呟くと、カリアラはふらりと体を前に倒した。草を生やした額を壁に強くぶつけ、痛々しい音がする。そのまま壁に草だらけの体を預け、ぐったりと目を閉じた。 体はすでに乾きによって色を薄め、木の肌はかさかさとした感触と共にわずかにたわむ。 耳元でざわざわと草が揺れる。体中の見えない場所で、繊毛にも似た緑の葉が蠢いている。 カリアラは弱々しく頭を動かし、三人の顔を順に見つめた。 「水が欲しい。水、いっぱい欲しい」 「でも、それで余計に成長したらもっと大変なことになるぞ」 「とりあえず、ある程度引き抜いてからにした方が……」 解決策を見つけられない彼らの言葉を遮るように口を開いた。 「大丈夫だ」 三人の目が不安そうに集まってくる。 カリアラはそれをまっすぐに見つめ返し、当たり前のように言った。 「水があればいいんだろ?」 ※ ※ ※ 「理屈としては正しいのかもしれないけどさ、後の処理がどれだけ大変だと思ってるんだよ」 冷たさを伴い始めた風が吹く。サフィギシルはカリアラの肌に適度な隙間を作り終えると、ゆっくりと立ち上がった。 足元でざくりと砂利が音を立てる。初秋の河原は場所と時間を選んだためか、他に人はいなかった。こんな苗床のような状態を人目に晒すのは不都合ということで、シラとピィスは念のために土手の上で見張りをしている。二人とも心配そうにこちらを窺っているのが見えた。 目の前には大きな川。幅は広く、両端のあたりは浅いが中央はかなり深い。ちょうど雨の多い時期ということで、水の量が大きく減ることもなく潜るにはちょうどいい。ひとがた細工は呼吸がなくても平気なので、長い時間水の中に滞在することができる。 カリアラは砂利の上に座り込み、脱いだ服をぐしゃぐしゃにまとめていた。草を生やした全身は人工皮を剥がされていて、節々には細い隙間を作られている。そこからは当然のごとく草の芽がにょろりと飛び出していた。その先には緑色の小さなつぼみ。 サフィギシルはカリアラから服の塊を取り上げると、手早くたたみ直しながら不満を吐いた。 「ああ面倒くさい。いいか、草が離れたらすぐに上がるんだぞ。そのまま調子に乗って泳ぐなよ! 水に浸かる時間が長引けば長引くほどその後の修理と調整が大変なんだからな! ただでさえ普段からバカな怪我が多いんだから、これ以上手を煩わせたら……」 「おーこーごーとーでーすーかーっ」 背後に位置する土手の上からシラが嫌味な声を出した。サフィギシルは即座にそちらに言い返す。 「小言男で悪かったなーっ!」 そこまでは言ってないだろ、というピィスの声がかすかに聞こえる。サフィギシルは不機嫌そうにカリアラの肩を叩いた。 「ほら、行ってこい。すぐに帰ってくるんだぞ」 「わかった」 カリアラは頷くと力強く立ち上がる。目から鼻から口から耳から飛び出た芽がひょろりと揺れた。風を受けて空中をたゆたうように身を揺らす。カリアラは緑色の植物たちを引き連れて、騒がしい音を立てつつ川の中へと入っていった。 水の中に素足を差し入れた途端、痺れるような感覚が肌を覆った。水、水だ。間違いのない大量の水がすぐそこに待っている。カリアラはあせる気持ちを押さえきれず急いで川の奥へと進む。水のかさがみるみると増していく。膝下、膝上、腰、胴。そこまで来ると川の浮力にふわりと体を持ち上げられた。流れる水が胸の奥を騒がせる。水が、水が、たくさんの水がそこに。 カリアラは頭から水の中へと飛び込んだ。 とぷ、と軽い音がして全身が水に包まれる。地上に去った小さな魚を大きな手で迎え入れてくれる。 あまりにも心地よい感覚が脳の奥を痺れさせた。体中の正気を揺さぶる。 陸に上がって以降の枯渇が急激に満たされていく。これが正しい状態なのだと体中が主張した。ここが本来あるべき場所だと全身が訴えた。 耳の奥がみしみしと鳴る。体中に棲みついた植物が蠢きはじめる。みしみし、みしみし。 腕の中で腹の中で足の中で顔の中で、繊毛のような細やかな葉は翻るように開き、細い茎は水に揺れて硬く尖った先端で体の内側を叩く。 カリアラは川の流れに逆らうように奥へ奥へと泳ぎ進み、この草たちをあるべき場所へと導いていく。深い場所では全身がすっぽりと水に包まれた。水面は頭の上だ。 カリアラは頃合を見て緑の生えた両腕を振る。水の抵抗を受けて人の腕がゆっくり動けば、そこから飛び出た細い草も同じようにのろく揺れた。 それが、離れる。音もなく、はらはらと身を剥がれていく。 緑色の植物たちはカリアラの肌を去ると、水の動きに流されてあっという間に下流へと姿を消した。 次々と去っていく。耳から、目から、鼻から、口から。関節のあたりに開いた隙間を指で広げると、待ちきれなくなったようにそこから更に緑が飛び出た。植物たちは久方ぶりの水にまみれて喜ぶように流れていく。次々と体の中から去っていく。 草が体を去るたびに内部を冷たいものが満たした。 密集していた植物が消えたあとに川の水が入り込む。肌の内も外も全て水に浸されていく。 草たちはゆるやかな水の流れに乗って嬉しそうに下流に向かう。 カリアラはそれを追った。流れていく草たちを。ようやく水に逢うことができた、水棲の生き物を。 それらは手ごろな石を見つけ、早くも根を纏わせていた。あちらこちらで草が根付いていくのが見える。本来の住処に戻り、植物たちは透明な水の中でやおら身を高く伸ばす。今までひょろりとしていた茎が見る間に強くしなやかに変化した。薄汚れていた藻のような葉も、鮮やかにつやを帯びて両手を広げる。 ぽ、とかすかな音がした。 見ると茎の先にぽつりとあった小さな緑の塊が、かわいらしい音を立てて開いている。ぽ、ぽ、ぽ。 沫のような音と共に現れたのは、小さな白い花だった。 単純な形のそれは次々に咲いていく。ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、ぽ。 カリアラはぐるりとあたりを見回した。その川底を水にまみれながら見つめた。 石に根付く数百の草。同数の、白い花。 透明な川の底は、まるで雪を敷いたようにまっ白に染まっていた。 花開く沢山の水石花。 それはまるで焦がれ続けた水との逢瀬を喜ぶように。無事にここに戻れたことを全身で味わうように。 カリアラは、ただじっとその花を見つめた。流れる水をその身に受けた。 全身が水の流れを喜びと共に受け入れている。土を、陸を、悲しいまでに否定している。 ――水棲の生き物が、本当にあるべき場所は。 思い至った感情に首を振る。離れなければ。いますぐここを去らなければ。 だが慌てるように動かそうとした足が、くい、と軽く止められる。カリアラは驚いて足を見た。 花が。すぐ足元の石に根付いた花の葉が足に絡みついている。まるで一時の恩人を引き止めるかのように。 ――おれは。 カリアラはその花を見つめた。川底に広がる白い花の群れを見つめた。 水を感じ、味わい、飲み込み、全身を水に包まれる喜びを実感した。 でも。 でも、ここには、誰も。 カリアラはがらんとした静かな川の中を見つめた。 そしてもう一度足元の花を見るとその葉を静かに引きちぎり、陸を目指してまっすぐに泳ぎはじめた。 陸にあがると水を含んだ体は重く、吹き叩く風は冷たい。カリアラは砂利の上にひざをついた。冷たい、寒い。がたがたと震えているのは気温のためだけではなく、喪失感からでもあった。水が体を去っていく。体中の隙間から、土へと染み落ちていく。 乾いた空気が肌を包む。喉がひやりと風を受ける。今は水に濡れた肌もすぐに乾いてしまうのだろう。そうしてまたやるせない渇きを訴えはじめるのだ。 カリアラはゆっくりとへたり込み、こほ、と小さく息を吐いた。 「あ、いた!」 その途端に高くから聞きなれた声が降ってくる。ぽかんとして顔を上げると、土手の上をピィスが走っているのが見えた。その後にいくらか遅れて、シラとサフィギシルが必死に続いていることも。 「カリアラ、大丈夫か!?」 「痛い所は!? どこか壊れてない!?」 ピィスとシラはすぐにこちらに駆け下りた。心配して覗き込んでくる顔はひどく青い。 ぽかんとして二人を交互に見つめていると、暖かい布の塊を顔面に押し付けられた。 「馬鹿、どこまで流されてんだよ! ほら早く体拭け!」 サフィギシルは怒鳴るとすぐに続けてタオルを投げつける。疲労からくる荒い息に言葉を途切れさせつつも、早口でまくし立てた。 「だからあれほど流されるなって言っただろ! こんな下流まで泳ぐなよ! もうずっと探してたんだぞ! 見つからずにそのまま放置されたらどうするつもりだったんだ!!」 気がつけば水の中に入ってから随分経っていたのだろうか。そういえば目に見える景色はすっかり下流のものへと変わり、あちらこちらに民家の影が見えるようになっている。 見つめてくる三人の顔も始めのものとは違っていた。カリアラは受け取ったタオルを被ったまま、きょとんとしてみんなを見つめる。 ピィスがやけに楽しそうにサフィギシルを指差した。 「こいつめちゃくちゃ心配してたんだぞー。もうシラと張るぐらい青ざめてて」 「べ、別にいいだろ! なんだよ何か悪いのかよ」 サフィギシルが恥ずかしさを誤魔化すように、乱暴にカリアラの頭を拭き始める。シラもまたそれに続いた。ピィスが後ろから大きな布をかけてくれる。そのまま労をねぎらうようにぽんぽんと背を軽く叩かれた。 「疲れただろー。帰ったらサフィに旨いもん作ってもらえー」 「そうですね。ここぞとばかりに美味しいものをお願いしましょう」 「また勝手に……俺だって疲れてるんだ。修理が終わってからだぞ!」 心配そうに覗き込んでは口々に声をかけられる。暖かい言葉と手に包まれる。 ふっ、と息が口をついた。くつくつと喉を震わせて暖かい笑みを生み出す。 「どうしたの?」 「あれ、どうしたー?」 「なんだよ、なに笑ってんだよ」 三人が不思議そうに見つめてくることすら楽しい。みんながいるのが嬉しくて仕方がない。 カリアラは笑った。不器用な声を立てて、嬉しそうに、楽しそうに、とても幸せそうに笑った。 それはまるで水を受けて咲いた花のように。望みを得て開いた水石花のように。 「だって、嬉しいんだ」 カリアラは楽しそうに笑って言う。 「おれ、すごく嬉しいんだ」 その笑顔を見て三人もそれぞれに笑みをつくった。 「ほら、さっさと修理済ませるぞ」 呆れたように笑いながら、サフィギシルはカリアラの肩を叩いて歩きだす。 「そんでその後朝ごはんと昼ごはんなー」 ピィスが明るく笑いながらカリアラの背を押した。 「結局うちで食うのかよ」 「いいじゃないですか、お料理ぐらいしか生きがいがないんですし」 シラがくすくすと笑いながらカリアラの腕を取って歩き始めた。 カリアラはそれぞれに手を引かれ、支えられ、ゆっくりと歩きだす。 止まらない笑みがふつふつと口をつく。楽しい気持ちがあふれだしてとまらない。 くだらない話をしながら、楽しそうに笑いながら、四人は土手をのぼっていった。 水を求める花は川へ、彼らは彼らの家へと帰る。 [終わり] |