番外編目次 / 本編目次


 思い出す光景はいつも畑の中だった。
 空には山が村を囲うように立ち、その下には赤茶けた土の海が広がっている。
 彼はその中にいた。柔らかい土の中に腰までをうずめられ、幼い口をぽかんと開けて、ただぼんやりと晴れた空を眺めていた。
 どこまでも続く青い空、わずかに見える薄い雲。光は眩しく体中に降りかかり、母のかけてくれた布が辛うじて日にやられるのを防いでいる。
 土の匂いが体の中まで染み込んでいる。足をわずかに動かすと、山のように積まれている湿った土がこぼれ落ちた。爪の中まで黒く染まった両手でそっとそれらを元に戻す。自分のひざを、すねを、枯れた畑にうずめるように。
 そうしていると、通りかかった近所の老婆が彼に気付いて足をとめ、小さく祈りの仕草をする。そして口の奥で何事かを呟くと、けして目を合わさないまま早足に去っていった。
 彼はつまらない気持ちで土を蹴る。すると崩れた小山の中から小さなものがころりと落ちた。幼虫だ。ぶくぶくと太った夏虫の幼虫が、まんまるく縮こまっている。呑気に寝ているのかと思い、腹が立ってぎゅうと指でつまんでみたがぴくりとも動かなかった。
 そのかわり、その体から緑色の体液がにじみ出る。思わず小さな悲鳴を上げた。ほんの少しつまんでみただけなのに、幼虫の体からはまるで雑巾をしぼったかのように大量の液が流れ出てくる。それはすぐに液体から気体へと変化して、音もなく空気の中に溶けていく。目で追うが、広がるのは透明なぬるい空気だけで消えた水のかけらすら掴めなかった。
 ふと手のひらに目をやると、何倍も小さく縮んだ幼虫がひっそりと丸まっていた。
 彼は短く刈った自らの髪に指を添える。その本来ならば黒いはずの髪も、呆けたように前髪を見やる両目も、幼虫から出てきた水と同じ緑色をしていた。




「畑を見たことがありますか」
 彼は長い緑の髪を束ね、子どもの手を引いて歩いた。まだ十になったばかりの少女は彼の指をきゅうと握り、言葉もなくうつむいている。彼は返事を期待する風でもなく、彼女の不安を和らげるように語った。
「私はいつも畑の中にいました。土の中に埋められていたんです」
 疑問を抱えた彼女の目がゆっくりと彼を見上げる。まだ緊張の残るその表情を確かめながら、彼は明るい声で続けた。
「私の髪は緑色をしているでしょう。これは魔力があまりにも多すぎて、外に外にあふれ出てしまうからなんです。私の故郷は恵まれた土地ではありませんでした。土が悪く、どうしても作物が痩せてしまう。ですが、それは大地に魔力を与えることで解消されていったそうです」
 見つめてくる彼女の瞳は彼と同じ色をしている。血の繋がりの唯一の証拠となった、二人を結ぶ確かな緑。彼はよく似た形の口元を柔らかくして、優しく彼女に微笑みかけた。
「ええ。私が畑にうずめられるようになってから、少しずつ土地に力が戻り始めて、いつしか誰も不作に悩むことがないほど豊かな土地になったそうです。私が覚えているのは、すでに問題が解消されたあとからのことですから、あまりそんな実感はないのですが」
 彼はそこで足を止め、まっすぐに前を指差した。
「畑を見たことがありますか、ピィスレーン」
 その示した先には、耕された黒土がささやかに広がっていた。
「あなたの食べている野菜たちは畑から生まれます。貧しくともそれを糧とする人々が汗を流し、土を耕し、大切に大切に育て上げた宝物です。あなたも作ってみませんか。芽が出ては伸び、葉を繁らせ、花を咲かせて実を結ぶ一つの命をその手で育ててみませんか」
 彼は彼女の手を引いて、何も植えられていない畑に足を入れる。柔らかな土が靴の形に踏み固められた。彼は足跡をつけながら、畑の中央へと歩いていく。小さな彼女の足跡が、おそるおそるといった風に戸惑いながら後を追った。
「私は魔術師と言われていますが、本当はただの農夫です。一国の主に仕えて城に出入りするような、そんな大層な人間ではない。ですがあなたのために、しばらくは立派な人のふりをします。あなたのお祖母さまに認められるよう、大きな人のふりをします」
 彼はそこで繋いでいた手を離し、真正面から彼女と向き合う。小さな背に合わせるように屈みこみ、幼い彼女をまっすぐに見つめて言った。
「その間、この畑をあなたに預けてもいいでしょうか。またいつか、私が小さな貧しい農夫に戻るときまで。その時まで、この畑を見ていてくれませんか」
 彼女は真剣な表情で、じっと父の顔を見つめる。彼が何を言っているか、その言葉が何を意味しているか、彼女は既に知っていた。
「水をやれば夏には葉が繁ります。秋になれば実がなります。その成長を見ていてください。私がまた元の姿に戻ることができるまで、この家で、ずっと」
 屈んだ彼の背後には、まだ人気のない小さな家が佇んでいる。小さな庭とささやかな畑を側に控えた誰かが暮らすための箱。彼女の目がそれと父とを交互に見つめる。
 彼は彼女の緊張をほぐすように、ゆっくりと微笑んだ。
「ここで一緒に暮らしましょう」
 彼女は少し泣きそうな顔をして弱々しく父を見つめ、その後で、たっぷりと時間をかけて、ぎこちなく頷いた。




 その村の土地はやせ細っていたという。だがある時大量の魔力を生み出す“変色者”が生まれ落ち、その子どもを畑に捧げることによって豊かさを取り戻した。
 だが十年、十五年と時が経つと過ぎた魔力は根を絶やし、葉をしなびさせ、逆に災いの元となる。
 このままでは村を危機に陥れると気づいた父は、それが他者に察し取られてしまう前に“変色者”である息子を遠く離れた都の学院へと送る。しばらくは村に近づかないよう、けして田畑に触れないように言い聞かせて。
 彼はもう二度と畑を耕すことはできず、父のような農夫として生きていくこともできない。
 制御できないほどの魔力は生き物の命を奪い、それ自身が毒となるのだから。
 彼はその力を利用され、戦いの中に置かれ、人を殺し、そして最後にはとある国に仕える魔術師として生きていくこととなった。




「はーい、我が家の家庭菜園にご到着ー」
 ピィスはどこか投げやりな口調で言って、気配の止まった背後の皆を振り返る。そしてあからさまに不機嫌な顔をして、つまらなさそうに呟いた。
「言っただろ。うちの畑はすごいって」
「すごいってお前……限度ってものがあるだろ」
 目の前に広がる景色を見つめ、サフィギシルは呆然とした言葉をもらす。
 その目を掴んで離さないのは青々と広がるピィス宅の家庭菜園。だが家庭と言うにも菜園と言いきるのにもためらうような、ふざけた規模の植物だった。くきは見るからに堅く丈夫そうで、もはや幹と言えるほどに太い。わさわさと呆れるほどに繁る葉は人の顔ほどに大きく、青々とした濃い緑色を晴れた空に晒している。
「しょうがないだろ。どこぞの誰かからだらだらと出てくる魔力が異常発達させちゃうんだからさー」
「それにしても、熱帯島と比べても遜色なく思えますが」
 シラがぼそりともらした言葉通り、それはまるで森に見えた。ただの青菜であるはずなのに、その葉はあまりに高く大きく繁りすぎて人の腰ほどまである。トマトやきゅうりの類にしても、本来ならばひょろりと伸びるはずなのに、まるで果樹であるかのように雄雄しくその場に立っている。
「すごいなー。葉っぱがいっぱいだなー」
「うわ、馬鹿入るな! 何があるか解らないぞ!」
 迷いもなく踏み込んだカリアラをサフィギシルが慌てて止める。どうやら本気で動いたらしき彼を見つめ、ピィスは呆れたように言った。
「何もあるわけねーだろ。オレんちのお庭だぞ?」
「お前の家のものだからこそ警戒心が募るんだよ」
「失礼な。第一お前のためにわざわざ見せに連れて来てやったんじゃねーか」
 サフィギシルはぐっと言葉を詰まらせる。彼が『どうして街に並ぶ野菜は、ペシフィロが持ってくるものに比べて小さいのか』と尋ねたのはつい先ほどのことだった。ピィスはそれを聞いて大いに笑い、確かな答えを告げないままに彼らを家まで連れてきたのだ。
「……そりゃあまあそうなんだけどさ。でもまさかこういうことだとは思ってなかったよ」
「こういうことって何だ?」
 話の意図を理解していないカリアラが尋ねると、シラは迷いもなく答える。
「サフィさんがあまりに物を知らないので、街のお野菜が小さいんじゃなくて、ペシフィロさんのお野菜が大きすぎることに気がつかなかったということですよ」
「そうか。サフィは知らないことがいっぱいあるな」
「お前にだけは言われたくない!」
「まあまあ。親父ー、いるのーっ」
 本気で腹を立てた様子のサフィギシルの側を抜け、ピィスは森のような菜園の奥に声をかける。少しして近くから聞きなれた声が返ってきた。続いてひょこりと緑の頭が現れる。それは言うまでもなくこの家の主であるペシフィロだった。
「ああ、みなさんお揃いで。珍しいですね、初めてじゃありませんか?」
 今日は長い髪を結い上げていて、いつもよりも涼しげに見える。だが畑仕事をしていたために、顔や体は随分と土に汚れていた。
 それでも彼はにこにこと嬉しそうに笑いながら、土の付いた里芋を掲げて見せる。
「どうですか、今掘ったばかりですよ。今日は手が空いているので煮物にしようと思ってたんです」
 その里芋も例にもれず通常の物の何倍もあり、片手に一つなんとかおさまる大きさだった。
「…………」
「どうかしましたか? ああ、大丈夫まだたくさんありますから」
 ペシフィロは黙りこんだサフィギシルに巨大な芋を一つ渡す。いつになく嬉しそうな表情で、かごいっぱいに詰め込んだ異様に大きな野菜たちを抱えてよいしょと外に出た。
「いっぱい取ったなー」
「いやあ、久しぶりに休みが取れたので、いい機会だと思いまして。おすそ分けしますよ」
 そしてまた、嬉しそうに笑いながら野菜の分別を始める。
 サフィギシルは地面に並べられていく異様な野菜をじっと見つめ、にやにやと笑うピィスを見やり、全身土にまみれているのに笑顔のままのペシフィロを見て言った。
「ペシフさんさあ、幸せ?」
「幸せですよー。今は畑にいることができますから」
 明日からまた仕事なんですけどね、と言い訳のように呟いて、ペシフィロは土に汚れた顔で笑った。



 その変色者が行き着いた国には知恵のある老人がいて、そのままでは周囲に害をもたらす彼にいくつかの技術を授けた。流れ出る魔力を国中に分散させる技、伸ばした髪に特殊な紐を巻きつけるなど体中に策を凝らし、魔力を制御する方法。
 そのため今では、彼の力はある程度までは抑えることが出来るようになったという。
 もう恵みを求められることはない。祈られることも、遠く距離を置かれることも。
 災いをもたらすこともなく、人を殺めることもなく、彼はただ、静かに土と共にいる。

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