「さて、飯を作るか」 そう言ってビジスは袖をまくり上げた。 王城から家へと帰り、二人分の修理を終えて、更にサフィギシルについての話を長く交わした後のことだ。日はもう既にとっぷりと暮れ落ちて、夜の闇と涼やかな秋の空気が窓から部屋へと吹き込んでいた。ビジスは呪文を唱えて照明を灯らせる。天井の板が全面的に白く柔らかい光をたたえた。 ビジスはソファに座って落ち着いていたシラに言う。 「シラ、窓を閉めてくれ。風が強い」 彼女は思わず不満そうに顔を歪めた。家中の窓という窓は王城から戻った時にビジスによって開け放されている。まだ修理が終わったばかりの足で、全ての部屋や廊下の窓を閉めて歩くのは労力のかかることだった。 「頼んだぞ。カリアラはこっちを手伝ってくれ」 シラの反論が形となる前に、ビジスはカリアラを促して台所へと足を進める。 カリアラはあからさまに不機嫌なシラをちらちらと見つめながら、足早に進むビジスの後を追った。 「おれは閉めなくていいのか?」 「お前には料理の方を手伝ってもらう。心配するな、少しは無理に歩かせた方がいいんだ。……さて、何があるかな」 ビジスは台所の手前にある食糧庫の入り口を覗き込み、床に直に置かれていた大きな木箱を引きずり出した。中には五・六種類の野菜といくつかの果実が転がっている。しなびかけた青菜の類に土のついた根菜類。 それを見て、ビジスはふむと口の端を指で叩く。 「上手く使っているな。ま、あれが過保護なせいもあるが」 食材はどれも三つ四つずつはあり、箱の底が見えないほどにはまだ沢山残っていた。サフィギシルの使い方が優れているのか、ペシフィロが気を遣って贈りすぎるだけなのか。どちらにせよこのまま上手く使っていけばしばらくはもつだろう。 「だがあれは数日戻らない、と」 ペシフィロには他国への私用を頼んでいる。生真面目なあの友人のことだ、すぐにでも出発するに違いない。少なくともその間、ペシフィロによって食糧が追加されることはないということになる。 ビジスは屈んでいた姿勢を正し、あっさりと言い切った。 「ならば兵糧攻めだな」 そしてそのままスタスタと台所へと歩きだす。彼は入り口前で振り返り、きょとんとして突っ立っているカリアラに向けて言った。 「それをそのまま運んでくれ。それと、奥にある肉や魚や……とにかく食べられるものは全部だ」 「わかった」 カリアラは頷いてビジスの言葉通りに従う。彼は重くて大きな荷物をなんとか抱え上げ、見ているものを不安にさせる雑な動きで食材を運び出した。 それを何往復も続ける。古くなりかけた生肉や生魚、棚の隅に追いやられていた保存用の干物類。ジャムや漬物など、口に出来そうなものは一つ一つ片っ端から台所へと運び込んだ。 黒土を固め敷いた床に最後となった荷物を下ろし、ふとビジスを窺うと、彼は何やら瓶の詰まった小さな箱を抱えていた。調理台の上に置き、がちゃがちゃと音を立てて一つ一つを外に出す。 「それなんだ?」 「調味料だよ。いろんな味のするものだ。これがなければ料理にならん」 「料理、なに作るんだ?」 「雑炊だよ。ま、料理というより兵糧攻めだな」 ビジスは瓶を全て台の上に並べて答えた。カリアラは不思議そうに首をかしげる。 「ひょう、ってなんだ?」 「血が沸き立つほどに楽しいことだよ」 ビジスはにやりと口元を笑みに歪める。道具棚から取り出した包丁を握って言った。 「最初はまあ退屈なんだがな、効果が出始めてからが面白い。食糧が尽きて何日か経つとなァ、単純な攻撃に面白いほど取り乱すようになるのだよ」 包丁を置くと今度は鍋を火口に乗せる。腕いっぱいに抱える程のやけに巨大な寸胴鍋だ。ビジスはその中に汲み置きの水を注ぎ込みながら続けた。 「わしは昔からその中に潜入して流言を広めるのが好きでなァ。まあ追い詰められた人間の浅ましさと頭の悪さは何度見ても面白い。一つ二つ囁くだけで簡単に操ることができる」 ビジスは黒い笑みを浮かべて語る。巨大な鍋に水がどんどん溜まっていく。 カリアラは感心したように言った。 「そうか。すごいんだなひょうろうぜめって」 「そうさ。最後の最後に相手側が降伏するのも面白い。一人一人が両手を挙げて死にそうな顔で出てくるのさ。そこに術で強風を送るとなァ、踊るようにくるくると転がっていくんだ。あれは愉快な光景だぞ」 「そうか。面白いんだなひょうろうぜめって」 「そうさ」 疑いもなく納得しているカリアラに向け、ビジスは優しい笑顔で告げた。 「お前も体験してしっかりと覚えるんだぞ。これは基本中の基本だからな」 「そうか。わかった」 「わかったつもりなんだろうなァ」 カリアラは言葉の意味を理解することもなく素直に頷く。ビジスは笑顔のまま食材を一つ一つ取り出し始めた。 調理法はいたって単純なものだった。カリアラが見つめる先で、ビジスは野菜を片っ端から細かく切り刻んでいく。玉ねぎ、人参、じゃがいも、山いも、青菜、生姜、唐辛子……さまざまな種類の食材があっと言うまにみじんへと変化していった。 「すごいな。早いな」 「野菜は抵抗しないからな」 ビジスは手を休めることもなく続ける。ある程度切り終えた端から鍋の中へと投入していた。巨大な寸胴鍋の中では、既に骨付きの肉がだしとあくを生み続けている。中には干物の類もあった。刻まれずに丸ごと投入された幾つかの野菜なども。 ビジスは刻んだものを全て鍋の中に入れ、ぶくぶくとわく泡と熱を確認するとすぐにあくを取り始めた。その動きに迷いはなく、一瞬の無駄もなくやるべきことを確実にこなしていく。 カリアラはやや離れた後方でそれを見つめていたが、ふと不思議そうに問いかけた。 「おれ、何を手伝えばいいんだ?」 「味見だよ」 ビジスはあくを取りながら答える。 「お前はまだ人の味覚をあまりよくは知らんだろう。だから一つ一つ体に覚えさせるのさ」 「そうか」 カリアラは味見というのがどういうものかは解らないが、なんとなく悪いものではないような気がして頷いた。ビジスは鍋の中身を巨大な杓子で混ぜていたが、その手を止めて調味料の瓶を取った。 「出番だぞ。味見してくれ」 手招かれてカリアラは素直にビジスのもとへと歩み寄る。ビジスは瓶のふたを開け、自分自身のてのひらに真っ赤な粉を山と盛った。にやりと悪い笑みを見せる。 そして空いた手でカリアラの頭を掴み、もう一方の手で赤い粉を彼の口に押し込んだ。 カリアラは射抜かれたように硬直してばたりと倒れた。まるで釣り上げられた魚のようにびくびくと暴れ始める。ビジスは顔色一つ変えず、床の上で跳ねつづけるカリアラの首を強く踏んだ。 カリアラは一度びくりと震えてそのままいやに静かになる。ビジスは動かなくなったカリアラの体を起こさせた。呆然と丸まった魚の目を見つめて言う。 「これが“からい”だ」 カリアラは丸くなったままの目で、ただ呆けたようにビジスを見つめた。 ビジスは彼の肩を掴んで言う。 「覚えたか」 カリアラは瞬きも忘れてただただひたすら頷いた。 「からい。これが、からい……」 カリアラは床にへたり込み、まだ呆然が抜けきらないままぶつぶつと呟いている。ビジスはそんな彼から離れ、瓶に入った辛い粉を残らず鍋の中に入れた。 濁っていた鍋の中身が恐ろしく真っ赤に染まる。カリアラがそれに気づいて慌てて言った。 「あっ! だめだ、それ“からい”ぞ!」 「まあそう焦るな、これからが本番だ。ちょっとこれを食べてみろ」 ビジスは紙袋から白い粉をひとつまみ取り出して、カリアラの手に乗せる。カリアラはびくびくと怯えた様子で慎重に匂いなどをかいでいたが、意を決したようにぱくりと口の中に入れた。 「あ」 カリアラはきょとんとしてビジスを見る。 「これ知ってるぞ。“甘い”だ」 「そうだ。これは砂糖といってなァ、基本的な甘味料だ。さて、いまお前の口の中はどうだ? 辛いか?」 カリアラはハッと気がついて答えた。 「あっ、からくない! からくなくなってるぞ!」 「そうだろうそうだろう。この砂糖を食べれば辛くなくなる」 「そうか、じゃあ砂糖を鍋に入れればいいんだな!」 「そうさ」 ビジスは笑みを浮かべると、一抱えはある大きな砂糖の紙袋を鍋に向けてひっくり返した。大量の白い粉があふれんばかりに投入される。もはや水分すら場所を失いそうな鍋の中を楽しそうにかき混ぜた。どろりとした甘いかおりが不思議な気配で部屋に広がる。 「でも、これ多すぎないか? 甘すぎたりしないか?」 カリアラは鍋を見つめて尋ねる。ビジスは当たり前のように言った。 「そうさ。だから今度はこれを入れるんだ」 そして今度は塩の袋を取り出す。同じようにひとつまみ分をカリアラに食べさせた。 「なんだこれ! へんだ! へんだ!」 「それが“塩辛い”というものだ。さて、お前の今の口の中はどうだ。甘いか?」 「あっ、甘くない! 甘くなくなってるぞ!」 「そうだろうそうだろう。この塩を食べれば甘くなくなる」 「そうか、じゃあ塩を鍋に入れればいいんだな!」 「そうさ」 ビジスはさっきと同じように、大量の塩を鍋の中に流し込んだ。 カリアラは心配そうに言う。 「でも、今度はしおからくなりすぎるんじゃないか?」 「心配するな。ほら、これを食ってみろ」 「なんだこれ! なんだ、なんだ!?」 「それは“にがい”だ。さて、お前の今の口の中は……」 「あっ、しおからくない! しおからくなくなってるぞ!」 そうしてまた同じことを調味料の数だけくりかえし、くりかえし、くりかえし。 カリアラは“酸っぱい”を“しぶい”を“甘ったるい”を“くどい”を覚えた。 鍋の中はだんだんと煮詰まっては透明から濁色へ、濁色から黒色へと変化していく。 中身も既に液体からどろりとした物体へと進化して、かき混ぜる杓子の動きが線となって刻まれてしまうほどだった。鍋の中身はとてつもなく重く、黒い。あちこちで大きな泡がゆっくりと膨らんではぷくりとはじけた。 カリアラはヘドロのようなそれを見つめてビジスに尋ねる。 「肉の骨、どこに行ったんだ?」 一番最初にたくさん入っていたはずの肉の形は影も見えない。 ビジスは顔色一つ変えず、平然と言い切った。 「溶けたのさ」 「そうか」 カリアラもまたすんなりと受け入れる。ビジスはそんな彼に訊いた。 「この中身は今どんな味になっているか解るか?」 「最初が“からい”で、次に“あまい”になって、ええと……」 カリアラは考えるように眉を寄せ、かき混ぜられる闇色のヘドロを見つめる。それでもやはり解らないのか、降参して視線をビジスの方へと戻した。 「わかんねえ。どんな味になったんだ?」 ビジスはにやりと口元を笑みに歪める。 「“凄い”味だよ」 そして鍋をかき混ぜていた手を止めた。 「よし、完成だ。シラに食卓を片付けるよう言ってくれ。それと、決して窓や扉を開けないようにな」 「なんでだ?」 ビジスは皿を用意しながら当たり前のように言う。 「臭いがもれると鳥が落ちてしまうからだよ」 「そうか」 カリアラもすんなりと頷いて、居間にいるシラのところに歩いていった。 鍋から放たれては部屋を満たす不気味な臭いにも、修理の際にビジスによって嗅覚を制限されていることにも、気が付かないまま。 シラは出てきた料理を見て何も言わず飛びすさった。胸にへばりつくような、甘ったるく不愉快な刺激臭を避けるように涙目で鼻をつまむ。 「なんですかこれたべものですかどくですか」 混乱をあらわにした早口で言うが、カリアラは碗につがれた真っ黒な料理を前に、きょとんとして不思議そうにシラを見るだけ。 「どうしたんだ?」 「あなたがどうしたんですかっ。尋常じゃない気配がしますよそれ!」 「なんだ、心外だなァ」 ビジスはにやにやと笑いながら、カリアラのななめ向かいの席についた。もう一つの碗をシラに差し出して言う。 「てっきり驚きのあまりに気絶してくれるかと思ったんだが」 「寄せないで下さいそんなもの! やっぱり毒じゃありませんかっ!」 「生ぬるいな。猛毒と言ってくれ」 部屋の隅で言葉を失うシラを見てまた笑い、ビジスはカリアラに匙を渡した。 「さ、食べてみろ。凄い味がするぞ」 「…………」 カリアラは遠くからやめろやめろと仕草で伝えるシラを見つめ、楽しそうに笑っているビジスを上目遣いに見つめ、手近に置かれた真っ黒なヘドロ状のものを見つめた。 「これ、なんていう食べものなんだ?」 「暗黒雑炊だよ」 今更ながらの質問に、ビジスは爽やかな笑顔で答える。カリアラはそれを見ておそるおそる尋ねた。 「食っても大丈夫なのか」 「大丈夫、死にはしないよ。ただ“凄い”だけだ」 「そうか」 「早く食べた方がいいぞ。冷えると固形物になる」 試しにビジスが匙を入れて混ぜてみると、中身は既に固まりかけて粘り気をともなっている。ビジスは大きめの匙いっぱいに真っ黒な雑炊を乗せ、カリアラの口の前へと差し出した。 カリアラは遠くで青ざめているシラをちらりと見つめ、こほ、と小さく息を吐く。 そしてぱくりと食いついた。 ぶわ、と一瞬にして全身をうろこが覆う。 両目はまるで魚眼のように丸く丸く見開かれる。 耳からなにか透明な液体がぶしゅうと吹き出た。 「きゃ――!!」 シラが悲鳴を上げつつこちらに駆け寄る。匙を口にふくんだまま硬直しているカリアラの体を揺すった。 「カリアラさん! 大丈夫ですかカリアラさん!!」 そのすぐそばでビジスがげらげら腹を抱えて笑いだす。シラは彼を涙目で睨みつけた。 「何するんですかっ! 耳から変なものが出てきてるじゃないですか! ねえ生きてるの大丈夫なの返事して!」 カリアラは石になってしまったかのようにぴくりとも動かない。ただまんまるく目を見開いている。 だが、それがぴくりと反応した。カリアラはよろよろとした頼りない動きで揺するシラの手を払い、ゆっくりと椅子を下りる。 そしてのろのろとした動きで食卓の下に潜り込み、椅子を引いてその陰に隠れた。 「すごいな」 カリアラはどこか遠くを見つめて言う。 「これ、すごいな」 そしてゆっくりと俯いて、小さく小さく丸まった。 「とてつもなく挫折した表情になってるじゃないですかー! 一体どんな毒を盛ったんですか!」 シラはカリアラが隠れている椅子をガタガタと揺らしながら批難を叫ぶ。カリアラカルスを含む一部のピラニアには、物の陰に隠れたがる習性がある。それが思わず出てしまうほどの衝撃だったということなのか。 ビジスは床に座り込み、椅子の足の隙間から茫洋としたカリアラの顔を見つめて訊く。 「カリアラ、食べた時にお前の体はどうなった?」 カリアラは随分と青ざめた、弱々しい表情のままそれに答えた。 「……最初に、目の前が、ぐわって、まっしろになって……それで、きゅうううって真っ黒に下がっていって……それで、ちかちかって小さな光がいっぱい見えた」 ビジスは小さく頷くと、カリアラの目をまっすぐに見つめて説明を始める。 「そうだろう。いいか、よく覚えておけ。もしそれがもう一度起こったら――光が見えたあとにまた視界が白くなり、真っ暗になったとしたら」 そしてきっぱりと言い切った。 「その瞬間にお前はもう死んでいる」 「臨死体験じゃないですか――!!」 シラの叫びに答える者は残念ながらここにはいない。カリアラはどことも知れない虚空を見つめ、弱々しく呟いた。 「そうか。凄いな雑炊……」 「そうさ。甘いとからいと塩辛いと酸っぱいとしぶいと甘ったるいとくどいとその他のものを全て足すと“凄い”になる。覚えておけ」 カリアラはビジス流の足し算を復唱する。 「甘いとからいとしおからいと酸っぱいとしぶいと甘ったるいとくどいとそのほかのものをすべてたすと“凄い”になる」 「よし。この感覚を忘れるな」 ビジスは真剣な顔で更に続ける。 「いいかカリアラ。お前はいつか必ず、とてつもなく不味い女の手料理を食べさせられる時が来る……」 「それは一体誰のことですか」 やはりシラの問いに答えるものは一人もいない。ビジスは真面目な顔で続けた。 「その時はこの味を思い出すんだ。そうすればそこらの素人がこしらえた料理など恐ろしく感じなくなる。お前の人生にはそれが必要だ。よく覚えておくんだな」 「そうか……人生って大変なんだな」 カリアラは随分と遠くを見つめて呟く。ビジスは頷きながら言った。 「ああ。お前は頭が悪いから特に大変だろうな」 「そうか……人生って、大変なんだな……」 カリアラはさっきよりも力ない声で言う。ビジスはカリアラを見つめて答える。 「そうだ。特にこれから何日かが山場だ。その時はこのつらさを思い出して耐えるんだぞ」 そう言うと、ビジスはひどく意味ありげにその顔を笑みに歪めた。 翌日、ビジス流の兵糧攻めによってまずシラに泣きが入るのだが、カリアラ達はまだそれを知らない。 |