かしゃ、と軽い音がして、卵は床の上で潰れた。 カリアラはそれを取り落とした格好のまま、呆然と立ちつくす。サフィギシルは台所から呆れたように声をかけた。 「あー。だから触るなって言ったのに」 近寄ると、潰れた卵を雑巾で手早く拭き取る。とろりとした生の白身がいやに細い糸を引き、サフィギシルは不機嫌に顔を曇らせた。嫌な予感はしていたのだ。カリアラに家事を手伝わせて、何も起こらなかったことはない。買ってきた卵をかごに移して運ぶというだけの作業も、カリアラの手にかかれば失敗率は嫌というほど跳ね上がる。 サフィギシルはため息をつくと雑巾を手に立ち上がり、あまりの手をカリアラに突き出した。残りを渡せと仕草で伝える。カリアラの持つかごの中には難を逃れた卵が四つ乗っていた。まだひとつだけですんだだけましだったといえるだろうか。反応のないカリアラに、サフィギシルは苛立つように声をかける。 「ほら、俺が運ぶから」 だがカリアラは動かない。左手は小さなかごを掴んだまま固まっている。 そして何も持たない右手は、失敗して卵を落とした格好のまま、頼りなく宙に浮いていた。 「……どうした?」 カリアラは呼びかけにも反応しない。ただ、卵の落ちた場所を呆然と見つめている。 もう片付けられてしまって、痕跡すらなくなった床の上を、じっと。 「卵」 カリアラは右手を宙に浮かせたまま、虚ろな声で呟いた。 「死んだのか」 その顔は、今までになく青ざめていた。 サフィギシルはその表情に寒気を覚える。無理に空気を変えるように、できるだけいつも通りに聞こえるよう意識して口を開いた。 「どうせ元々食べる物だろ。ほら、そろそろ時間だ。ここはいいからあっちに行ってろ」 カリアラはそれでもじっと床を見つめ続ける。だが部屋の方からシラに呼ばれ、青ざめた顔をゆっくりとサフィギシルに向けると、何も言わず卵のかごを手渡した。 そして、のろのろと居間の方へと歩いていく。 サフィギシルはその背が視界から完全に消えたところで、知らずうちに詰めていた息を吐いた。 あんなカリアラを見るのは初めてだった。あんなにも虚ろな表情は見たことがなかった。 いつもまっすぐに見つめてくる、透明な動物の目が濁って見えた。 まるで何も見えていないような、空洞のような、そんな弱い目をしていた。 玄関からペシフィロの呼び声がして、サフィギシルは出発の時が来たことを知る。棚の上に慎重に卵を置くと、彼は旅立つ二人を見送るために外へと向かった。 きっかけは墓を見たことだったらしい。ピィスに連れられ街に遊びに行った帰り、カリアラは小さな墓に花を供える者を見た。あれはなんだとピィスに訊くと、死者への贈りものだと言われる。人間は人が死ぬと墓を作り、そこに弔いの花を手向けるのだと教わった。 その言葉を聞いた日から、カリアラは手当たり次第にそこら中の花を摘みだした。道に咲く小さな花から、山に生えるひっそりとした野花まで。庭に植えた薬草にも手を出したのには辟易したが、一度の注意でぴたりとやめた。 それでも彼はひたすらに花を集める。毎日毎日摘み集め、着実にそれを溜めていった。 そして今、カリアラの腕には花のつまった大きな布袋がある。どこか小ぶりな旅の荷物も。 「多分、一週間ほどで戻れると思います」 陣の作成を終えたペシフィロが言った。この本来ならば王室専属であるはずの魔術師は、相も変わらずその腕をいいように使われて、またしても行き帰りの運び役となってしまった。 通常ならば一月以上かかる旅も、道程が一瞬ならば楽に済む。行き先がもっと楽な場所であれば、日帰りでも問題はないはずなのだが。 「……戻れると、いいんですけどねえ。あの辺りは術がねじ曲げられますから」 向かう場所が魔境と呼ばれる熱帯島の真中となれば、そう簡単にいくはずもない。 ペシフィロは行く前からもう疲れたような顔をしている。ピィスがそれをからかうように、笑いながら肩を叩いた。サフィギシルは玄関に背を預けたままで、ぞんざいに声をかける。 「遭難するなよー」 「しませんよ」 軽い言葉はあっさりとシラにはねのけられた。彼女は荷物を持ち直しつつ、当たり前のように言う。 「道がわからなくなったら、そのままそこで暮らしますから」 「いや、うちの親父は」 ピィスが思わず反応すると、シラは楽しそうに笑った。 「冗談ですよ」 その笑顔は久々に長年暮らした場所へと戻る喜びから来るのだろう。この帰省が決まったときから彼女の機嫌はひどく良い。カリアラと共に行けることが何よりも嬉しいようで、何日も前からそわそわと落ち着きがないほどだった。 カリアラはシラほどではないものの、やはりどこか嬉しそうな顔をしている。さっきまでの虚ろな気配はどこかに消えて、いつも通りの彼の姿に戻っていた。サフィギシルは思わず安堵の息をつく。身に伝わっていた不安が静かに薄れていった。 「では、無事に戻れることを祈ってください」 それとは逆に不安がどんどんつのるらしきペシフィロが、ため息と共に出発の準備を始める。 「生水だけは飲まない方がいいらしいよ。あと熱中症にならないように気をつけて」 「そんな怖がるなって。ワニがいたらシラに倒してもらえばいいしさー」 「解ってます。もう二度目ですし覚悟はできています。さあ行きますよ」 よけいに不安を煽りかねない留守番者の言葉を受けて、ペシフィロはどこかヤケのように二人を陣へと手招いた。シラが浮かれた足取りで入る。カリアラもまた若干遅れてそれに続いた。 ひらり、と小さな花が落ちる。カリアラはハッと振り向くと、袋からこぼれた花を拾う。そして随分大切そうに、だらしなく開いていた袋の口に詰め込んだ。 「ちゃんと縛っとけよー。転移の時に吹き飛ぶぞ」 「わかった」 ピィスの注意を受け取って、カリアラはすぐに袋を縛りなおす。サフィギシルは奇妙な違和感を感じた。だがそれが何なのか解る前に呪文の詠唱が始まる。カリアラとシラとペシフィロが入り込んだ円が緑色の光を帯びる。それはみるみるうちに濃くなって、濃密な風と音を円筒状に作り出し……発動の声と共に、跡形もなくかき消えた。 残されたのは、しばらくの間留守番をすることになった、サフィギシルとピィスだけ。 「……じゃ、しばらくお世話になりまーす。美味しいごはん作ってね」 「そこだけかわいく言うな気色悪い。料理はともかく他のことは手伝えよ、絶対に客扱いなんかしないからな」 「えー、初日ぐらいもてなしてくれよー」 ピィスは料理が絶望的にできないため、父親が長く留守をする時はこの家に泊まることになっている。もう何年も繰り返してきた慣習なので、彼女の私物は家のあちこちに残されていて、泊まりというのに持参の荷物は嘘のように少なかった。 ピィスはどこか楽しそうに、軽い荷物を小脇に抱えて家に入る。サフィギシルは無闇な疲労を肩のあたりに感じながら、さっそく居間でくつろぎ始めたピィスを無視して台所へと歩いていった。まだ食材の片付けが終わっていない。ひとまずは今日の夕食の準備をしておかなければ。 サフィギシルは頭の中で献立と調理手順を反復しながら歩いていたが、ふと足元に鮮やかな色を見つけて止まる。そしてそのまま言葉もなくそれを見つめた。 橙色の小さな花が、床の上に置かれていた。 台所近くのそこは、カリアラが卵を落としてしまった場所だ。 サフィギシルはその花の意味を察し、開いていた口をきつく結んだ。ゆっくりと目を閉じる。青ざめたカリアラの顔が、恐ろしくうつろな目が、声が、ありありと蘇った。 そうだ。卵は、彼にとって。 忘れていたのは、彼が普段その闇を表に出さないからだろう。人間として生きていくことになり、確かな幸せを得ていつも笑顔で過ごしていたためだろう。 だが過去が消えたわけではない。あまりにも重い罪の意識が拭われることはない。 サフィギシルは目を開き、また、そのぽつりと置かれた花を見つめる。そしてついと踵を返し、足早に居間へと向かった。 息すらむせぶほどに濃厚な緑が広がっている。ペシフィロは到着してから早速続いた強行軍に疲れ果て、危険な生き物がいないことを確かめると細い木々の合間に座った。 きっと、ここに足を踏み入れた人間は自分たちが初めてだろう。磁石を狂わし術の効果をねじ曲げるという、熱帯島の中心部は完全なる未開の土地だ。シラの案内がなければたどり着くことは出来なかったに違いない。 その元人魚は久々の故郷に絶えずはしゃいでいる。今も水に触れては楽しそうに笑っていた。 行き止まりのような場所だ。目の前には深い水の溜りがある。まるで池のようなそれはボウク川の細い支流と繋がっていて、絶えず新しい水が流れては過ぎ去っていた。 細く高く伸びる木々が、広い池を囲うようにびっしりと並んでいる。 カリアラはここで生まれ、育ち、そしてシラと出会ったという。暮らす場所はいつしか転々とするようになったが、一番最初に暮らした場所はこの中だったと彼は言った。 ゆるやかに続いていた風がやんだ。 カリアラはそれを待っていたかのように、ゆっくりと立ち上がる。 そして水の淵に立ち、水面をじっと見つめた。シラの顔から笑みが消える。神妙に彼を見つめる。 カリアラは抱えていた布袋の口を開け、大きなそれをひっくり返した。 摘み溜められた大量の花が、鮮やかな色のかけらが、水の上に広がっていく。 赤、青、黄、白、紫、橙。さまざまな色の花が、華やかに水面を彩った。 その様子を見届けると、カリアラは固く固く目を閉じる。 そして、まるで人が弔いの場でそうするように、そのまま小さく頭を下げた。 「なあ。これ何?」 台所で夕食の準備をしていると、ピィスがひょこりと顔を出した。サフィギシルは調理の手を休めないままそっけなく返事をかえす。 「別に」 「別にって……どう考えても作為的なものを感じるんだけど。この花なんか意味あんの? なんでわざわざ“囲い”まで作ってあるんだよ」 サフィギシルはちらりとピィスの方を見た。示された床には橙色の花。そしてそれを守るように、小さめの箱や瓶が囲いのように並んでいる。通行の邪魔にはならないように積み上げたつもりだったが、ちょっとした山のようなそれは十分に迷惑な存在のようだった。 怪訝に見下ろすピィスに軽く忠告する。 「蹴るなよ。それ、大事だから」 「だから大事って何がだよー」 不思議そうな彼女の言葉をそのまま流し、サフィギシルは置いてあった鶏の卵を手に取った。 だが割る前にふと手を止めて、一瞬の黙祷をする。目を閉じて、ほんの少し頭を下げて。 「お兄さーん。何してんのー」 「別に」 さっきと全く同じ調子で言葉をかえすと、卵を二つ同時に割る。ピィスが感嘆の声を上げた。サフィギシルは慣れた手つきでそのまま軽くときほぐす。砕けていく卵の黄身を見つめながら、里帰りしている彼らのことを考えた。 カリアラはもう故郷に到着しているだろうか。 何百と集めた花を、儚く散った同胞に捧げているのだろうか。 彼がふと見せた闇を思い出し、サフィギシルは息をついた。心から、それが少しでも軽くなることを願う。たとえ人が作り出した意味のない形でも、仕草でも、せめてもの慰めになればと思った。 たったひとり生き残ったカリアラは、何百という命をその身に抱えて生きていく。 自らの命が何で出来ているのか、何の上に成り立っているのかけして忘れることもなく、この先長い年月を、ずっと。 感情が人に近づくほどに罪の意識はつのるだろう。その闇は今よりも重くその身にのしかかるだろう。それでも過去は変えられない。罪を滅ぼすことはできない。 だから、今は、せめてもの弔いを。 意味のない形式でも、仕草でも、それでも想いの向かう場所となるのなら。 サフィギシルは卵をとく手を止める。 そして完全に混ざり合ったそれに、もう一度、一瞬の黙祷をした。 今は、せめてもの弔いを。 |