静まり返った居間の中は酒の匂いに満ちていた。サフィギシルは何度目かも解らない呆れと疲労の息をつき、酔いつぶれた仲間たちをぐるりと見わたす。 部屋の隅の観葉植物のそのまた奥ではカリアラが眠っている。彼は緑の葉に隠れるように影を潜め、寝言でも呟くようにぱくぱくと口を動かしていた。 その足元に寄り添うように、シラが床に伏している。片手には空になった酒の瓶。すぐそばには同じく空となった瓶たちがごろごろと転がっている。底なしとも思える彼女の本日の飲酒量は恐ろしくて口にできない。 そしてサフィギシルがいる食卓の隣の席では、ピィスが赤い顔でへらへらと笑っていた。 「あー、みんなつぶれてやんのー」 「……お前もそろそろ時間の問題だろ」 ピィスもまた意識こそあるものの、相当な数を呑みこなしたに違いない。底の知れないシラよりはまだ少ないだろうが、吐く息からは隠せない飲酒の証拠が漂っていた。 もっとも、部屋中を満たす酒の香りのせいで判別も難しい状態ではあるが。空となった酒瓶から、まだ底にうっすらと酒の色を残すグラスから、それだけで酔ってしまいそうな匂いが脳に響く。 ピィスは机に頬をつけ、緩みきった顔で言った。 「なーんでお前だけ酔わねーかなーあ」 「こっちが聞きたいよ。ああもういっつもこれだ」 サフィギシルは呟き飽きた愚痴をこぼす。呑んでいないわけではない。酔っ払ったシラとピィスに勧められ、ほとんど無理強いされるように何杯も飲み干しているのだ。それなのに全くといっていいほどに酔いが回る気配はない。瓶を二本近く空けても、せいぜい少し頭がぼんやりする程度なのだ。これはもう体がそういう風に作られたとしか思えないが、どういう理由でそんなことになっているのかは解らない。 「たった一口であんなになるやつもいるのにな」 サフィギシルは不満の目を隅で眠るカリアラに向ける。あの元ピラニアなどは一口どころか匂いだけで酔っ払うのだ。魚は匂いを味覚として把握してしまうためらしいが、それにしてももう少し長く耐えてくれれば、酔っ払った女性陣の矛先も分散するだろうに。 どちらにしろ眠りこけたところでおもちゃ扱いされることに違いはないが。カリアラはたちの悪い酔っ払い二人によって、顔にはらくがきをされ、髪にはリボンを飾られている。まあ彼は起きていても一向に嫌がらないので問題はないのだが。 サフィギシルは無理やりに飾られた頭の花をぞんざいに払いのけ、また何度目とも知れないため息をつく。そして相変わらず笑い続けるピィスを無視し、ゆっくりと部屋の隅まで歩いて行った。 何も言わずカリアラの頭を蹴る。彼はびくりと身を固くして、ぱちぱちと目を瞬かせた。きょとんとしてこちらを見る頬には線が渦を巻き、口や目や鼻の下にはしずくの絵が書かれているので、サフィギシルは思わず吹きだしそうになる。 「なんだ? どうした?」 カリアラは訳がわからずただ不思議そうに見つめてくるだけ。サフィギシルはどうしても笑いそうになるのを我慢しつつ、足元のシラを指さした。彼女は幸せそうな笑顔で体を投げ出し、しっかりとカリアラの足首を掴んで眠っている。 「沈没。運ぶんだろ?」 そう言うと、カリアラはこくりと頷く。まだ戻らない体の調子を直すように、あちこちの関節を動かしながら身を起こした。その途端に、漂っていた酒の匂いに酔いが回って真っ赤な顔で崩れ落ちる。 「酔うなー! 頑張れー!」 「アハハハがんばれえー」 サフィギシルはあっという間にへろへろになったカリアラの両肩を揺する。傍観していたピィスが笑いながら応援に便乗した。カリアラはろれつがうまく回らなくなった舌で、懸命に返事をする。 「らいじょうぶおれがんばる」 「目の焦点合ってないぞ……」 「よおーし、それでこそ男だあー。いけえー」 無責任なピィスの声援を浴びながら、カリアラはふらつく体で立ち上がり、倒れているシラを揺する。だが目覚めたシラが、いまだ酔いの引かない笑顔で彼に飛びついたので、カリアラはまたシラ共々ばったりと床に倒れた。 それでも彼は身を起こし、力の抜けた腕でシラの体を支える。ふにゃふにゃと頼りなく喋りながら、ゆっくりと立ち上がった。 「シラー、シラー、そんなことしたらだめだー。がんばってへやまでいくぞー」 「やー。じゃましてやるー」 そしてシラに抱きつかれ、さっきと全く同じ動きで床に倒れる。カリアラはふらふらと起き上がった。 「そんなことしたらだめらー。がんばってへやまでいくぞー」 「えへへー、じゃましてやるうー」 そしてまた、同じことの繰り返し。サフィギシルはすぐ側で心底呆れてそれを見ていた。 「運んでやろうか?」 いつまでも続きそうなので取りあえず言ってみるが、予想通りカリアラは首を振る。 「だいじょうぶだー。はこべるぞー」 「運ばれちゃうぞー」 嬉しそうにだらしなく笑うシラを支え、彼はなんとかよろよろと部屋を出て行った。 途中、思いきり転ぶ音が何回も聞こえたが、それもやがては聞こえなくなる。 そしていやに静かになった居間の中には、サフィギシルとピィスだけが残された。 サフィギシルはその場に転がる酒の瓶を拾い始める。 「そろそろ来るかな、ペシフさん」 ピィスは食卓に突っ伏したまま、よく解らないといったように小さくうなった。 もう夜も遅い。さすがに日付が変わるまでにはまだ随分と間があるが、帰ってこない娘を心配して探しに来るほどには暗くなっていた。ペシフィロが迎えにくるのもそろそろ時間の問題だろう。 サフィギシルは集めた瓶をひとまずは食卓の上に並べる。様々な大きさと色が立ち並び、改めて四人でこれだけのものを飲み干したのかと何とも言えない気持ちになる。 「これ見たら驚くよな、ペシフさん。怒られるんじゃないのか?」 「大丈夫大丈夫ー。オレに酒教えたのビジス爺さんだしさー」 「どういう理屈だ。今から無茶してると成長が偏るぞ」 サフィギシルは呆れたように喋りながらピィスの隣の席に座った。その頭をピィスが不満そうに叩く。 「かわいくなーい。昔はそんなんじゃなかったのにー」 「じゃあどんなんだったんだよ」 ピィスは口をとがらせて言う。 「成長がかたよるとか、そんな難しい言葉は使わなかったー。ああ、頭だけさっさと大人になってしまってお姉さんはとても悲しい」 「誰がお姉さんだ誰が。そんなに変わったわけでもないだろ」 いやに芝居じみた喋りに、サフィギシルも不機嫌に顔をしかめた。ピィスはそんな彼を指差して語る。 「変わったさー。覚えてないか? 自分の名前がなかなか書けなくて、それが恥ずかしいからって必死にこう、腕で囲って隠しながら練習してさ。姿勢悪いし見え見えなのに気づいてないし、そういうばかなところがかわいかったのに」 実際にその仕草を再現し、ピィスはにやりと笑みをこぼした。サフィギシルは嫌な予感に思わず身をすくませる。ピィスは弱みを暴くような愉悦を浮かべながら言った。 「でようやく自分で納得のいく字が書けたみたいでさ、自信満々で名前が書けるようになったぞーって胸張るから見てみたら『パピピギウ』って書いてあるし。ギしか合ってねーじゃねーかって話でさあ」 「わー!!」 サフィギシルは真っ赤な顔で耳をふさぐ。ピィスはそれを楽しむように更に喋る。 「まだあるぞー。オレが初めて女装姿で遊びに来た時、お前本気でびびって涙目で逃げたよな。オレが追いかけたら家中走りまわって、最終的には倉庫の奥まで逃げ込んで。怯えた目で震えてたしー」 「び、びっくりしたんだよ! いいじゃねーかそれぐらい!」 ピィスは耳まで赤くした彼を見て、にやにやと笑い続ける。 「いや別に悪いとは言ってませんよー? むしろそういうかわいげがあってこそのお前だしー」 「いらねーよそんな特徴!」 「えー、面白くなーい。つうか酔いもしないなんて遊びがいがないんだよー。呑めよほらー」 ピィスはそう言うと、残っていた酒をグラスにそそいで渡す。サフィギシルはなみなみとつがれたそれをやけのように受け取った。 「ああはいはい呑むよ呑むよ呑みますよ。ちょっとは酔いたいよ俺だって」 そしてぐいと一気に飲み干す。痺れるような辛味が喉の奥を焼いた。予想外のきつさに咳き込む。 「これっ、原液で呑むもんじゃないだろ!」 ピィスは楽しそうに笑い、用意していたもう一つのグラスを取った。 「ご名答ー。じゃ、水割りでお相伴」 そしてその中身をごくごくと飲み干していく。サフィギシルはぼんやりとそれを見ていたが、ちょうどグラスが空になってしまったあたりでハッとする。 「馬鹿っ、お前呑みすぎ……!」 だが遅ればせの警告も空しく、ピィスは全てを呑み終えるとふらりと体を横に倒した。 「ちょ、わーっ!」 サフィギシルはとっさに彼女を支えたが、呑んだばかりの酒が効いて力が入らずそのまま一緒に床に落ちる。 少々の衝撃と、いやに広く伝わる熱。 サフィギシルは思わず閉じていた目を開き、そのままぴたりと凍りつく。 自分自身の姿勢としては、床に座り込んでいる形だ。だがピィスが膝に乗っていた。くたりとした熱い体が密着している。自分の手は、彼女の体をしっかりと抱きしめている。 ふにゃふにゃとしたうわ言を呟いて、ピィスが腕をサフィギシルの首に回した。余計に二人の距離が近づく。熱を確かに伝えていく。 そして彼女はそのまま目を閉じて、静かな寝息を立て始めた。 (ま、待て待て待て待て寝るなー! そこで寝るな――!!) 混乱と困惑がまぜこぜになった頭で強く叫んでみても、言葉は口まで到達しない。凍り付いてしまったように体が動かない。暖かくやわらかな体がぴったりと密着している。すぐ近くに眠る彼女の顔がある。静かな寝息が胸元をかすかにくすぐる。 多少の酔いと、その何倍もの言いようのない感情が顔を赤く染めていく。熱い。どうしようもないほどに熱い。そのまま脳を溶かしてしまいそうだ。 こんなことには慣れていないのだ。それどころかほとんど免疫がないに等しい。毎日のようにシラの甘えを受けているカリアラならばともかく、今まで人との触れ合いが極端に少なかった彼にとっては、これは、こんな状態は。 (なんでくっつくんだよ起きろよ馬鹿起きろ起きろ起きろって) 恥ずかしさによる罵倒はやはり口を出ない。あまりにも近い距離に思わず息すらひそめてしまう。だが速まる鼓動は呼吸を求める。どうしていいか解らなくて、呼吸困難になってしまいそうだ。 (落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け。落ち着くんだ) 彼女の背に回した手がぴくりとも動かない。乗られた膝が重みによって痺れていく。 (ど、どうしよう) 頭の奥から離してしまえと答えが返る。わざわざ抱きかかえている必要はない、そんな酔っ払いは振り落としてしまえばいいと主張している。 だが、手が、動かない。しっかりと彼女の体を支えたままぴくりとも動かない。 服の下から、少し浮き出た背骨の感触まで伝わってくる。腕の中にすっぽりと収まる体は暖かく、いやに小さいように思えた。目を閉じて眠りについた顔には、いつものような騒がしさはかけらもない。 こんな、大人しいのは違うと思った。 こんなにも静かで、小さくて、女性らしいのはピィスではないと思った。 サフィギシルは別の人を見るような目で彼女を見つめる。 (ああ、駄目だ) 熱を起こす感情に、うっすらと不安が混じる。 (こういうのは、駄目なんだ) それは彼女が泣きかけている時の不安感に似ていた。いつか感じたものと同じように思えた。 ピィスと初めて顔を合わせたとき。そのとき彼女は憤りを見せる前に、泣きそうな顔をしたのだ。弱々しい表情で、呆然と呟くように、囁くような声で言った。 ――サフィ? その時はまだそれが別の人を指しているなんて知らなくて、自分が呼ばれたのだとばかり思って返事をした。そして、初めて見る相手に戸惑って、恐怖心を隠すように乱暴に言ったのだ。 誰だよ、お前。と。 ピィスはまた泣きそうな顔をして、すぐに怒りから顔を赤くした。そのあとはけんかだ。叫びあいからとっくみ合いに発展して、憎しみと苛立ちを騒がしくぶつけ合った。 そして疲れきって引き分けで終結したあとで、ピィスはまた自分を見て泣きそうな顔をした。顔を見合わせるたびに涙ぐんだ。その大きな目を悲しそうに潤ませた。同じ顔の別の人を思い出し、残酷なまでの事実を思い出し、緑の瞳に涙を乗せた。 それでも彼女は泣かなかった。 口をきつくきつく結び、耐えるように見つめたあとで、無理やりに明るく笑った。 まだ幼い自分を不安にさせないように、哀しみの意味に決して気づかないように、ピィスは無理に明るく笑った。励ますように、その場が暗く沈みこんでしまわないように笑った。誰が見ても本当の笑顔ではないと解る下手な笑みを続けた。 頬を少しつついただけで涙があふれてしまうような、そんな哀しい笑顔だった。 (ああいうのは、もう嫌だ) サフィギシルは知らずうちに支える腕に力を込める。 (もう、ああいう顔は……) 家の中から出て行くことが出来ない自分を心配する笑顔も苦手だった。なんとか明るく振舞おうとしていても、その奥にある悲しみや不安が手に取るように伝わってきて、見ている方が息苦しくて、つらくて仕方がなかったのだ。 (でも、今は) 今はピィスも絶えず明るく笑っていられる。何を心配することもなく、本心から楽しんで馬鹿な話をして笑える。他の者といるときだけではなく、自分と二人きりでいるときも。 (ああ、なんか) 口元が緩んでいくのを感じる。今更ながらに気づいた想いが暖かく胸をくすぐる。 (なんか、嬉しい) 何故か、いつか聞いたカリアラの話を思い出した。 小さな魚だったころは、ただ敵から逃げるだけしかできなくて、戦うシラを助けることができなかった。シラが悲しんでいるときも、不安に怯えているときも、ほんのすこし慰めることしかできなかった。 でも今は違う。今はシラを支えられる体がある。一緒に戦うこともできる、守ることだってできる。それが、人間になれて嬉しかったことのひとつだ。 そんな話をふとした時に彼から聞いた。それを、思い出した。 おれは今はシラを運ぶことができるんだ。カリアラは、そう言って嬉しそうに笑っていた。 (……じゃあ、俺は) サフィギシルは彼女を抱く手に力を込める。熱がぶり返してきた。頬から耳を熱いものが渡っていく。 きっと今は酔っているのだ。さっき飲み干した強い酒が頭まで回っているのだ。 いつになく大人しいピィスを見て、慣れない態度に流されてしまっているのだ。 だから、こんなにもらしくない想いに至っているに違いない。 そう言い訳のように心中で呟いて、静かに眠る彼女の体を抱きしめた。 「お前はさ」 ようやく出てきた声はかすかに震えていた。彼女の髪が頬をくすぐる。動かない頭に囁きかける。 「お前は、笑ってないと駄目なんだ」 サフィギシルはゆっくりと、穏やかな声で続けた。 「馬鹿みたいに嬉しそうに、ぎゃあぎゃあ騒いで、賑やかでうるさくてやかましくて、腹が立つぐらいに楽しくしてなきゃ駄目なんだ」 そんな風に笑っていなければ。不安を感じることもなく、幸せでいなければ。 「だから」 サフィギシルは眠る彼女に囁きかけた。 「ずっとそうしていられるように、俺が手伝ってやるよ」 ほんの少し大人になった、確かな自信が身に備わった、今だから言えること。 サフィギシルは囁いた口をきゅっと結ぶ。 だがそれはすぐに大きく崩れた。 「うん」 囁くようなピィスの声。サフィギシルは動揺して思わず彼女の体を離す。 「お、おおお前っ、起きてたのか!?」 そのまま勢いよく後じさった。今まで以上に顔が赤く染まっていく。うつむいたピィスの顔も同じように耳まで赤くなっていた。 「うん、結構前から」 「じゃ、じゃあなんか言えよ寝たふりすんなよ馬鹿! 馬鹿!」 サフィギシルが動揺しすぎて目が回りそうになっていても、ピィスは照れくさそうに笑うだけ。まだ酔いの残る、どこかゆるんだ顔で言った。 「ありがとう」 サフィギシルは途端に顔を弱くして、手をぶんぶんとしきりに振る。 「なしなしなし今のなし! 今のはなかった何もなかった! 忘れろ!」 「えー、いいじゃん別にー。手伝ってくれるんだろー?」 「言うなー! 起きてんなら離れろよ馬鹿! 変態!」 「ていうかお前が抱きしめてたから離れられなかっ」 「うわー!! 忘れてくれー!!」 解りきった続きを遮るように耳を塞いで首を振る。ピィスがふざけて何か言おうとするたびに、わあわあと騒ぎ声を上げて同じことを繰り返す。 彼に負けないぐらい顔を赤く染めつつも、ピィスは楽しそうに、嬉しそうに笑う。 玄関の呼び鈴が鳴り、ペシフィロが外から声をかけているのにも気づかずに、二人はそのまま赤い顔で賑やかに騒ぎ続けた。 彼らにとって忘れることのできない夜は、ゆっくりとふけていく。 |