番外編目次 / 本編目次



 どこかでこんな沼を見たことがある。そんなことを考えながら、ペシフィロは手の中にある青緑の液体を眺めていた。なみなみと注がれたそれは本当に土地の一部のようで、目を凝らせば、今にも黄色い器の縁には植物が生い茂りそうだ。じっとりとぬれた土。細やかにあたりを覆う苔の海。その、じゅくじゅくとした木々の隙間から鹿が顔を覗かせて、緑の沼に舌をつけて……。
 という想像の勢いで液体に口をつけようとするのだが、へこたれたペシフィロの精神は、どうしてもこのおぞましい色の飲み物を受け付けてはくれなかった。顔に近づけることすらできないまま、ペシフィロは頬を歪めて壁を見る。この部屋で一番寒く、明かりから最も遠いその隅では、今夜もななが怪しげな薬を調合していた。
「えー……と。わかってはいるんですよ。これが体にいいことは」
 引きつった笑みを浮かべたところで、なながペシフィロを見ることはない。彼はただ、いかにも自分がそうしたいからしているだけと言わんばかりに、無言で薬を作っている。乾いた葉をすり潰す音が響く中、ペシフィロは果敢に続けた。
「でも、この味は、ちょっと……。そりゃわたしも大抵のものは食べてきましたよ。虫とか、犬とか、カエルとかおたまじゃくしとか。でもそれはあくまでも飢えていたからなんとか食べられたわけで、しかもまだ胃腸が健康だった時期のことですから」
 だから、ね。
 そう、たくさんの思いを込めて視線を送る。それでもななはこちらを見ない。気配に鋭い彼が、ペシフィロの言いたいことに気がつかないはずがない。ななはあえてペシフィロの訴えに見えないふりをしているのだ。八方をふさがれた気分でペシフィロは息をつく。
 たしかにいろんなものを食べてきた。怪しい薬だってあった。ビジスによって様々な劇薬を喉に押し込まれたり、脅しを受けて強制的に飲まされたり……。ペシフィロの中には、泣きたくなるような思い出がいくつも眠っている。若いときはいろんな無茶をやってきた。だが、今のペシフィロはまともな固形物すら受け付けない状態で、一度病に倒れてからは流動物しか食べていない。それも、からだに優しい刺激の少ないものばかりだ。
 だが、このななが作った滋養液は、顔を遠ざけていても刺激臭が攻撃を仕掛けてくるのだ。ペシフィロは目に見えないスパイスの打撃を顔中に浴びながら、なんとか、この底の見えない青緑を片付けようと、器を持つ手に力を込めた。
 すると壁際から声が上がる。
「……蜂蜜と」
「へっ」
 思わず間抜けな返事をして、ペシフィロはななを見た。主人とその一家に忠節な使影は、あくまでも床を見つめたまま、二本の瓶を差し出している。
「蜂蜜と、炭酸水では、どちらがよろしいでしょうか」
 ようするに、割ろうというのだ。泡立つ水か、粘質の甘い蜜で。
 いつのまにか用意されていた琥珀と無色の瓶を前に、ペシフィロはなんとか答える。
「ど、どっちも火薬を足すようなものだと思うんだけど……」
「では、米は」
「粥は駄目。質量が増えるだろう」
 ふやけた米が鍋からあふれて、大変なことになるだろう。しかもそれはすべてこの刺激臭を放っているのだ。ペシフィロは思わず昔のように「だからね」「わかってるけどさ」と、暗がりに輪郭を溶かした友に語る。アーレルに来てからは、いつだって丁寧な言葉を使うくせが染み付いたと思っていたが、この旧い友人と二人きりでいると、ささいなきっかけで二十代にもどってしまうようだった。
「そういうわけで、ちょっとこれは飲めないんだ。わかる?」
 少年に語りかけるような口調で、ペシフィロはななに訴える。
 しばらくの間、使影がとどまる部屋の隅は闇の溜まりと化していたが、やがてわずかに影が揺らいだ。
「我々は、物の味をよく知りませんが」
 低く、節度を保つ大人の声。ペシフィロはたちまち今の時間に引き戻される。そうだ、もう彼はスーヴァと呼ばれる子どもではなく、様々なことを乗り越えてきた大人なのだ。自分の気楽な間違いを反省しながら、ペシフィロは彼の言葉を待つ。
 ななは、たっぷりとした間を挟みながら、ようやくのことで続けた。
「温まっているうちに、そのまま飲み干すのが一番楽な方法でした」
 また、同じだけ無音の時が訪れる。ペシフィロは手の中にある液体を見て、うつむいたままふるふると震えるななを見て、もう一度その不気味な薬を向く。
「楽、とか。作った本人も言っちゃうぐらいの味ってことか」
「色々と、試しては、みました」
 蜂蜜を混ぜてみたり、炭酸水を加えてみたり。いや、勧めるだけあってこの二つはまだまともな味だったのだろう。それ以外にも、ありとあらゆる素材を入れて、ありとあらゆる味を知った。その上での推挙なのだ。
「……栄養になります」
 うん、わかってる。ペシフィロは声にならない言葉で答える。わかってる、とてもよくわかっているんだ。
「温めて、いただけますか」
 はい、とか細い答えがして、暖炉の炎が勢いを増す。橙色に照らされながら鍋をかける後姿はあの頃の彼のものだろうか。それとも十数年を経た別人のものだろうか。
 そのどちらでもなく、今の彼は彼でしかないのだろうとペシフィロは考えている。まったく同じわけではない。まったく違うわけでもない。ただ確かなことは、ペシフィロはこれから温め直された薬を飲んで悶絶し、倒れるように枕へと頭を沈める。そして本当に眠ったことを確認すると、この不器用な使影はようやく肩の荷を降ろし、一日の仕事を終えるのだ。
 彼はそれまで一睡もせず、ペシフィロが深夜の徘徊をしないよう見張り続けなければならない。
 誰が命令したわけでもない。彼自身がそう決めているのだ。
「心配しなくても、もう図書室には行かないのに」
 ななは、受け取った薬を鍋で熱しながら訊く。
「庭は」
「庭にも行かない」
「会堂は」
「あそこは怖かったな。夜に行くものじゃないね」
 答えるうちにふつふつとおかしさが湧いてきて、ペシフィロはわざとらしい声を上げる。
「やっぱり、庭には少し出てみるかも。外の空気を吸いたいし」
 ななの姿勢が固まるのを見て笑う。
「足腰が立たなくなるまで遊びはしないよ。もう少し元気になったら、ちょっとだけ散歩に行こうか。今からの季節は星が綺麗だ。厚着をして、遠くまで行き過ぎないようにして、庭の東屋まで行こう」
 振り返らないななに向けて、ペシフィロはいたずらっぽく続けた。
「もちろん、水筒には栄養になる薬を入れてね」
 返答はない。だが、どう反応すればよいのか分からないさざなみが、夜空のような彼の背に広がっているようだった。
 はじめから答えは求めていない。ななが何を言おうが、ペシフィロはその時が来ればちいさな散歩に出るだろうし、ななもついてくるだろう。時間と場合さえ許せばピィスも連れて行けばいい。あの子はきっと安静にしろと怒るだろうが、ななと同じく、仕方なく参加してくれるはずだ。
 その時は、このおそろしく刺激的な薬を三人で呑んでみよう。
 きっと大変なことになるだろう光景を想像しながら、ペシフィロは薬が温まるのを待つ。
 暖炉の前では、なながどうするべきかわからない様子で鍋をかき回していた。




 闇の中にうっすらと白い肌が浮かんでいる。皺だらけの毛布を夜の海に例えるならば、このむき出しになった腕は、波間にたゆたう櫂だろうか。だが生憎とハクトルには詩心などなかったし、二段ベッドの上でぐーすか寝こけているのも神秘的な美女ではなく実の姉だったので、それ以上の比喩を探すことなく眠るジーナの額を小突いた。
「ねーちゃん、便所ー」
 一応は手錠で繋がれている以上、彼女についてきてもらわなければ、用一つ足せないのだ。それなのに、昼間の仕事に疲れた姉は深く夢に沈んでいる。いや、揺さぶっても寝息すら立てないので、夢など見る余裕もなく落ちているのかもしれない。
 打ち上げられた魚のように張り付いて眠る姿は、随分と老けて見えた。昔はもっと、無防備に手足を伸ばしていびきを立てていた気がする。あのころは二人とも寝相が悪くて、兄にしばしば布団を直してもらっていた。
 だが今の彼女の手足には重い枷がかけられていて、寝返りを打つことすら許されていないように見える。
「……お疲れ様でーす」
 ハクトルは指先でジーナのこめかみを撫でると、繋がれていた手錠を外してひとり部屋の外に出た。


 冬が近づいてきた証のように夜の冷え込みは厳しくなり、ただ歩いているだけで鼻の中がひりひりする。まだ、気温と同化して凍りつく手錠がないぶんましだろうか。いや、むしろ、冷ややかで容赦のない鉄の重りに拘束されるのもそれはそれで良いかもしれない。そんなことを考えながら、技師協会の廊下を歩く。
 建物の外側をぐるり半周するこの道には壁というものがなく、ただ柱と天井が伸びているだけで寒いことこのうえない。せめて一枚上着を引っかけてくるべきだったと身をすくませるハクトルの目に、不自然なほど膨らんだ丸い塊が見えた。
 肉体の輪郭も定かではないほど重ね着をした服の上に、厳重に巻かれた赤いマフラーがあり、その上にかろうじて頭のてっぺんと額と眼鏡がのぞいている。もはや一目では分かりづらいが、花壇の縁に腰かけているそれはどうやらカリアラらしい。隣にはサフィギシルもいた。こちらは、カリアラよりは、軽装だ。
「なーにやってんの、坊ちゃん方」
「あ、ハクトルだ」
 顔をわずかに動かしてカリアラがこちらを見る。サフィギシルが、あからさまに嫌な顔をした。
「……なんだよこんな時間に。手錠は?」
「外してきた。おにーさまはお花を摘みに行ってきた帰りでございますー。心配しなくても逃げたりしねえよ。お前らこそオコチャマのくせに夜更かしか?」
「オコチャマとか言うな。俺たちは会議してるんだよ」
「会議?」
 言われてみれば、彼ら二人の足元には、棒によって描かれた奇妙な図形が広がっている。潰れた円や直線が並ぶそれは、何かの設計図のようでもあり、ただの落書きにも見えた。
「祭りの内容。もう具体的に決めておかないと、細かい手配ができないだろ。いろいろ用意してもらうものもあるし、段取りも必要だから」
「それで、お前ら二人で決めてるわけか。しっかし、なにもこんなところでやらなくてもいいじゃねーか。部屋に入れよ」
 寒いのが苦手らしいカリアラは何重にも服を着込んでいるし、顔はほとんどマフラーに埋もれて見えなくなってしまっている。それでもまだ足りないのだろう、二人は温かい茶の入った器を手のひらで抱えていた。
 サフィギシルは、いつもの執務室があるあたりを目で示す。
「部屋だとシラが起きるんだ。今日はピィスもいるし、邪魔されたくない。これは、俺たちの会議なんだから」
「……へーえ」
 いやに胸を張って言うので、そのまま流すのが惜しくなる。
 ハクトルは改めてサフィギシルをうながした。
「それもっかい言ってみ?」
「“俺たちの”会議」
 唱えたあとで、サフィギシルはにへらとゆるむ。何らかの衝動に突き動かされて、ハクトルはその白い髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「な、なんだよ! やめろよ!」
「そりゃ人魚さんも腹立つわなー。うんうん、たしかにこうしてやりたい奴だよお前は」
「意味わかんない! なんでみんな最近いっつもこうなんだよー!」
 ちかごろのサフィギシルは、事あるごとに女性陣からやわらかい攻撃を受けている。唯一ピィスだけは言葉をかけるに留めているが、ジーナやシラは彼の幸福にゆるんだ顔を見るたびに、彼の髪を思いきり乱してみたり、顔をクッションに挟んでぐりぐりとしてみたり、好きな方法で衝動を消化していた。おそらく、その理由はサフィギシルには永遠に理解されないだろう。彼女たちにも論理的に説明できることではないのだから。
「ったく、話がまとまらないからあっち行っててくれよ。俺たち話し合いしてるんだから」
「昼間もずっと喋ってるだろ。夜中にお茶とお菓子でお喋りって、一体どこの乙女だお前ら」
「えっ、おかしはもう食べおわったのにな、なんでわかったんだ?」
「マフラーが粉だらけですよカリアラくーん」
「ああもう、こぼすなって言ったのに……」
 母親のような手つきでサフィギシルがマフラーを取り、焼き菓子のかすを払いのけるとまたきっちりとカリアラの首に巻く。手馴れたその行動には違和感も自問もなく、カリアラも当たり前のこととして、されるがままにしていた。
「うん。まあ、お前らがそれでいいんなら、俺は何も言わないけどな」
「……なんか最近、みんなに同じこと言われるんだけど……?」
「いいんだよ、お前が満足なら。とりあえず今はその幸せを味わっとけ」
 なんだよみんなして、とサフィギシルはぶつぶつと呟いている。そんな彼をなだめるように、カリアラが棒を手に会議の続きを喋り始めた。



「……まあ、本人にはわかんないよなぁ」
 窓際にもたれかかる姿勢で、ピィスは菓子をほおばっている。夜中に甘いものはいけません、とペシフィロがいれば怒られているだろう。しかし、部屋の中にはあとはシラがいるだけで、そのシラも窓の下で繰り広げられる「会議」をつまみに、次々と酒を飲み干している。誰にも咎められず彼女たちは夜を楽しんでいた。
 いくらカリアラたちがこっそりと部屋を抜けても、すぐ下の中庭で盛り上がればピィスたちも目覚めてしまう。だからといって割って入れる空気ではなく、彼女たちは仕方なく二人で彼らを眺めているのだ。
「つうかー、なんであんなに楽しそうなんだよ坊ちゃまは。カリアラと喋ってるときだけやたらといい笑顔なんだけど」
「腹が立ちますよねぇ。なんなんですかねあの素直な顔は」
 最近ずっとカリアラを取られているシラも、サフィギシルに対しては思うところがあるらしい。あの時もこのときも、と文句をつけてはぐいぐいと酒をあおる。
「まあいいですよ。こっちはこっちで楽しくやりましょう」
「そうそう、遊んじゃおう。どうせー、親父もななとお喋りしてるみたいだしー?」
 びく、と大きく影が揺らぐ。いつもならば、ななが微動だにせず座る場所だ。初めて気がついた様子で、シラが部屋の隅を見つめる。誰かがいるのは間違いない。だが、いつもとは明らかに違う。
「……今日は他の人なんですか?」
「うん、ななの部下の人。わかってんだよたまに入れ替わってることぐらいさー。オレがわかんないわけないじゃん。どんだけ長い間一緒にいたと思ってんだよばかー」
 酒は呑んでいないはずなのに、ピィスはぐだぐだと頼りないしぐさで壁を叩く。
「まあまあ。いっそ今夜は私と一緒に潰れます?」
「ううん、明日も忙しいからやめとく。二日酔いになるとつらいし」
「十四歳の発言じゃありませんね」
 ピィスが手にしているのはただの茶であるはずなのに、やさぐれた表情のせいでまるで強い酒のようだ。どこか凄みすら漂わせる目つきで星を見て、ピィスは濁った声を出す。
「あー、なんかこの夜空に叫びたいな。ななのばかやろーって」
「じゃあ一緒に言いましょうよ。私はサフィさんにします」
 見合わせた顔と顔が笑う。
 二人は同時に窓を開けると、夜に向かって思いきり声を上げた。
「ななのばかやろーっ!」
「サフィさんのー、ばかーっ!」
 驚いた中庭の面々はそれぞれに二人を見上げる。サフィギシルはわけがわからず「なんでだよ!」と文句を言うし、ハクトルはシラに向かって「今度は俺を罵倒して!」と両手を振る。カリアラは目を輝かせて「ななのばかー!」と乗りを合わせ、その声が大きすぎて、とうとうジーナまでもが目を覚ましてうるさいと叱りに来る。そんな彼らを眺めながら、シラとピィスはしてやったりと空の器で乾杯をして、くすくすと毛布にもぐった。

 天遇祭まであと七日。
 今ひとときの、休息の夜。

[おわり]

番外編目次 / 本編目次