番外編目次 / 本編目次


「だからね、スーヴァ」
 その呼びかけの後にどんな言葉が続けられるか、スーヴァは正確に理解していた。足を止めない彼を追いかけながら、ペシフィロは予想通りのことを言う。
「思うことが大事なんだよ。気を確かに持って、忘れたくないのなら忘れたくないって、ずっと願い続けるんだ。そうすれば、きっと少しは何かの足しになるはずだよ」
 もう、何十回と続けられた説得だ。スーヴァが故郷に戻されると知って以来、ペシフィロはことあるごとに同じ台詞を繰り返した。今もまた、反応のないスーヴァに向けて、ゆっくりと言い聞かせる。
「願っていれば神様が叶えてくれるとか、そういう問題じゃなくて、ようは意志の問題なんだ。そうなりたいと強く思う。諦めずにずっとそれを続けていれば、いつか目の前に希望が出たとき、すぐ捕まえられるから」
 スーヴァが暗記してしまうほど反復しているというのに、それを語るペシフィロの声には変わらない熱がこもっていて、一語としてなおざりにされることはなかった。もしその相手にまっとうな顔があれば、じっと目を見ていただろう。だがスーヴァの肌は光を殺す魔術の黒に覆われていて、白目すら隠れたそれは、ペシフィロに面を教えなかった。
 反応がないことも気にせず、ペシフィロはさらに続ける。
「だからね、諦めないで。もし記憶を失くしても、できるだけ憶えておいて」
 言った後で、恥ずかしげに頭を掻いた。
「……変なこと言ってるよね。ごめん。でも、僕はそう願ってるんだ。ずっとね」
 そこで、敷地の終わりに着いた。ペシフィロは、まだ追いたそうな顔をしたが、スーヴァがしぐさでそれを止める。これ以上送ってもらうわけには行かない。目的地は人に知れてはいけないのだから。
 スーヴァは、使影として定められた、地につくほどの礼をした。ペシフィロはそれを受け取らず、まだ何か言いたそうな顔をしている。口を開いたところで、出てくるのは同じ言葉ばかりだろう。スーヴァを案じ、きっとここに帰ってこいと願う台詞。懇願にも似たそれに応える術を知らず、スーヴァは無言で外に向かった。
「忘れないから! 君に何があっても、僕らはずっと憶えてるから!」
 ペシフィロはいっぱいに手を振っている。
 スーヴァはそれを見ないまま、早足にその場を去った。


 ペシフィロは今生の別れのような顔をしていたが、何も、二度と会えないわけではない。レナイアの従僕として働くため、スーヴァは数日もすれば屋敷へと戻される。だが、それがペシフィロの知るスーヴァなのかはまだ誰にもわからなかった。もちろん、スーヴァ本人にも。
 近づきすぎたのだ、と、道の影を歩きながらスーヴァは反省を続けている。いかにペシフィロが構ってくるとはいえ、ごく普通の人間のように彼らと共に過ごすなど、してはならなかったのだ。主人以外の者に声をかけられて反応し、食事を出され、共に掃除や庭の整備をし、いつも笑顔を向けられる。それどころか身を塵にして仕えるべきレナイアにまで、親しげに話しかけられたり、労われたりしてしまう。それは使影としてあってはならない事態だったし、スーヴァにとっては特にそうだった。
 故郷へと急ぎながらも、スーヴァはペシフィロのことが気になっていた。一応言い聞かせはしたが、あの男が納得したかはやはり怪しい。スーヴァの代わりとして送られる使影に、彼は話しかけたりなどしていないだろうか。手紙を書いてはいないだろうか。姿を見せないスーヴァにまで毎日それを続けていたのだ。一応は顔かたちをあらわにする代理の影には、どんなに親しくするだろう。ペシフィロが、他の使影を受け入れているところを想像して、スーヴァは奇妙に急かされる思いがした。なぜなのかは、考えない。
 今はそんなことを案じている暇はない。頭首が待つ、使影の集落に戻らなければ。そこに足を踏み入れれば、今のようにあれこれと考えることもなくなるだろうか。呼び出しを受けた理由は明らかだった。スーヴァは感情を持ってしまった。隠そうとしても広がり行くそれを抑えることは到底できず、このままでは、生まれた瞬間から定められた役目をまっとうすることができない。たとえ他の使影がどうであれ、スーヴァだけは心を持たず何も感じない生き物として存在しなければいけなかった。それが、適合者として生まれた彼のさだめである。
 芽生えた想いは潰してしまわなければいけない。何も感じず、何も考えない、意志を持たない頭になるよう徹底的に整備される。今までの記憶はなくなる。温かく感じていた人の好意を怖ろしく感じるよう、反射として植えつけられる。
 屋敷に戻るころにはもう、今のスーヴァとは別のものになっているだろう。そう考えると、スーヴァの頭には何度でもペシフィロの声がよみがえった。

 ――だからね、スーヴァ。

 そう、いつも通りに呼びかける。

 ――思うことが大事なんだよ。気を確かに持って、忘れたくないのなら忘れたくないって、ずっと願い続けるんだ。そうすれば、きっと少しは何かの足しになるはずだよ。願っていれば神様が叶えてくれるとか、そういう問題じゃなくて、ようは意志の問題なんだ。そうなりたいと強く思う。諦めずにずっとそれを続けていれば、いつか目の前に希望が出たとき、すぐ捕まえられるから。

 気がつけば思い出すだけではなく、口は、勝手に彼の言葉をたどっている。一言一句間違えずに諳んじることができた。何度でも繰り返す。ペシフィロが語りかけたよりも多く、故郷に到着するまでの間、そればかりを延々と。
 なぜ、そうしたのかは考えないようにしている。これから起きることが怖ろしくて仕方がないから。使影は願いなど持ってはいけない。だからスーヴァはペシフィロの提案を実行はしなかった。その代わり、一晩中彼の言葉を繰り返す。だからね、スーヴァ……。



 どう堪えようとしても震えが止まらず、スーヴァは絶望的な足取りで頭首の後をついて歩いた。この道はいつか閉じ込められた地下室へと続いている。そこで何をされたか、考えるだけで歩けなくなりそうで、スーヴァはただ意味もなくペシフィロの言葉を繰り返した。だからね、スーヴァ。思うことが大事なんだよ。気を確かに持って、
「お前の子が生まれた」
 唐突に、頭首が言った。困惑するスーヴァを見ることはなく、彼は静かに話を続ける。
「変色者だ。力を受ける者として育てることができるだろう」
 それが何を意味するか、わからないはずがなかった。受け皿として選ばれた女たちのどれかに、適合となる者がいたのだ。
「また一人か二人、生ませる。それでいい」
 もう、用はないのだと彼はスーヴァに告げている。スーヴァ自身が力を操ることはできず、後は、生まれたばかりの次代へと一族の念を伝えるのみ。スーヴァはただその女に子を産ませるだけでよかった。他にすることはない。記憶を失くす必要も。感情を壊す意味も。
 頭首は足を止めている。目の前には悪夢への入り口が待っている。今すぐスーヴァをここに閉じ込め、施術する方法もあった。十年以上先を見るより、目の前にいる子を使う方が確実だろう。だが頭首は動かない。
「……あれに攫われたときから、お前は諦めるしかなかった」
 地下室の扉に触れず、彼は誰に言うでもなく呟く。スーヴァは手の甲が熱くなるのを感じた。幾度となく刻まれた「鬼除け」のまじない。
「お前は屋敷でレナイア様のために働く。最後まで、役目をまっとうする」
 命令を事実として伝える使影独自の話し方で、頭首はそこに終点を打つ。彼は踵を返し、地下室から遠ざかった。スーヴァは力の抜けていく足で、なんとかその後を追った。


 それは生きてきた意味を否定されることでもあった。
 後はただ子を成すための種として使われるしかない。
 一族の望みを彼は叶えることができず、その代わり、大きな何かを手に入れた。
 それをなんというのか、スーヴァにはまだわからない。形も、色も、感触でさえ。
 ただ、それが何かを考えると、スーヴァの頭には、どういうわけかペシフィロの声が響くのだった。


 レナイアの屋敷に戻る道でも、スーヴァは同じ言葉を頭で繰り返している。だからね、スーヴァ。慣れ親しんだペシフィロの声は、いつもスーヴァの内側を震わせた。鳥肌が立っているのを彼は目視で確認する。全身を闇色に染めていた魔力は、彫られたばかりの刺青に閉じ込められ、正常な状態としては生まれて初めて肌の色を晒していた。病人のように青ざめた、生白い腕に、顔。これらを見てペシフィロは何と言うだろうか。
 駆ける足は行きよりも速くなった。もうすぐ、敷地の端に着く。柵の傍には郵便受けがあり、その先にはゆるやかな丘と、レナイアの屋敷がある。スーヴァはそこに急ごうと身を乗り出し、驚いて転びかけた。
 ペシフィロが、いたのだ。郵便受けの横に椅子を置き、ゆったりと腰を下ろしている。膝には豆を山盛りにしたかごがあった。彼は暖かい陽を浴びながら、眠たげに目を細めつつ、豆のさやをむいている。ふと、確かめるように顔を上げて……スーヴァを、見つけた。
 足が根を張ったようにスーヴァは動くことができない。ペシフィロは見開いた緑の目で彼を確かめ、まずそのあらわとなった顔かたちに驚いた。そして、これが自分の知るスーヴァかどうか、彼の奥深くまでを探るようにじっと見つめ、おもむろに、呼ぶ。
「……スーヴァ」
「は、い」
 ぎこちなく答えた瞬間、ペシフィロは顔面が跳び上がるような笑顔となる。
「スーヴァだ!!」
 叫ばれると、目の前で火花が弾けた気分になってスーヴァはその場を逃げ出した。ほとんど反射的に地面を蹴っている。ペシフィロが豆を投げてすぐさま後を追ってくる。逃げなければ逃げなければ。スーヴァは混乱に目を回しながら、わけもわからず駆けていた。
「スーヴァ、右!」
 指示されて足がそちらに行く。追うものに従ってどうするかと気づく前に、奇妙な箱の塊が現れる。これは一体なんだろうか、大きな穴が開いている。背後にペシフィロの気配を感じて、スーヴァはそこに逃げ込んだ。
 心から落ち着く暗がりに包まれる。どうやら木箱を筒状になるまでしつこく積み上げているらしい。入り口でペシフィロの声がする。スーヴァ、スーヴァ。出て行くわけにはいかないと、スーヴァはほとんど反射として奥へ奥へと足を速めた。だがペシフィロも外側から追ってくる。脆い壁を叩いたりもする。スーヴァは、意味不明に長いトンネルをひた走った。しばらくすると素材が代わり、包み込む壁や天井は布団の塊になる。それが重ねたシーツに代わり、漂う空気がひやりとして、もはや天幕となった出口をくぐり抜けると、そこは屋敷の食堂だった。
 長い食卓の端に、レナイアが、座っていた。
「おかえりなさい」
 レナイアが嬉しそうに微笑む。スーヴァは全身が痺れて動けない。呼吸すらまともにできない視界で、レナイアはくすくすと楽しそうに笑っている。食卓には花があった。皿が並べられていた。三人分。同じように笑いながらペシフィロが椅子を引き、手招きをする。
「スーヴァ、おいで」
 だが、動けない。どちらにせよそんなことは許されない。主人と同じ机で食事を取るなど。それなのに、固まった肩をペシフィロが抱きかかえ、無理やりに椅子に座らせた。
「逃げては駄目よ。これはあなたのお祝いなのだから」
「そうだよ。ちょっと待ってて、すぐに用意するから」
 何を言っているのかわからない。わかってはいけないと理性が叫ぶ。それなのにレナイアもペシフィロも、心から楽しそうにスーヴァに笑いかけるのだ。彼らは、スーヴァがこれ以上動揺してしまわないよう、きわめて自然に二人で会話を進めていた。まるで、緊張して言葉を失う客人に気を遣い、相手が落ち着くまで空気を温めるかのように。
「はい、これでよし。遠慮せずに好きなだけ食べてね。何が好きかわからなかったから、とりあえず色々作ってみたんだ。食べられないものがあったら、我慢せずに言ってね」
「本当においしいのよ。毎日、あなたのために練習したんだから。最初はちょっと失敗したけど」
 共通の思い出を確かめて二人が笑う。スーヴァは、次々と並べられる料理を見た。なみなみと湛えられたスープ。改めて焼き色をつけられたパンにはこぼれるほどのバターが添えられ、山盛りとなった皿の表面を見えなくしている。どっさりと切り分けられた肉。見たこともないソースであえられた魚料理。野菜の盛り合わせは、生のものと温められたものがあり、奥にはまだまだこれでもかと追加の皿が増えていく。
 料理人が作ったものとは違い、ペシフィロが手をかけたそれらはどこか見た目が粗雑だった。盛りすぎて皿からこぼれそうになっているし、彩りよりも食を優先するらしい。添え物を置くことなどせず、料理そのものを丸のまま並べていた。内容も、貴族階級のそれには遠く及ばず、どこかの村で庶民がかぶりついていそうなものばかりだ。並ぶ食器や部屋の空気にことごとく合っていない。
 だが、とにかく数が多かった。ペシフィロが知る料理をすべて作ったのではないかいうほど、ありとあらゆるものがあった。スーヴァは先ほどの言葉を思い出す。――何が好きかわからなかったから、とりあえず色々作ってみたんだ。
「スーヴァ、生還おめでとう!」
 拍手をされてびくりとする。顔を上げると、ペシフィロだけでなくレナイアまでもが笑顔で手を叩いていた。さあさあ食べて、とペシフィロが席にもつかず料理を取り分けていく。手前の皿が次々と食べ物に埋められていくのを、スーヴァはただ呆然と眺めた。
「君が無事に戻ってきたから、今日はお祝いだよ。そのために準備したんだ」
「でも、もし記憶を失くしていても、こうやっていろんなものを食べさせて、無理やり元に戻そうとしていたのよね」
「あったかいのが嫌なら、意地でも押しつけて思い出させてやろうってね。だけどそんなのよりも、やっぱりスーヴァがそのまま戻ってきてくれる方がいい。君が戻ってきてくれて、よかった」
 微笑んでも笑っても、まだ喜びを表わすには足りないのだろう。ペシフィロは飽きもせずにこにこと嬉しそうにしていたし、レナイアもまた同じだった。二人の熱に囲まれて、スーヴァは小さく身を縮める。あらわにした肌が、照らされて熱かった。
「どれがいい? わからなかったら、とりあえずこのへんから行ってみようか」
「私はこれが美味しかったわ。食べてみたらどうかしら」
 降り積もる二人の声が重みとしてのしかかる。応えられない暖かさは消化を知らず、胸へ胃へ澱として溜まっていく。スーヴァは、うつむいた。皿と、手前の料理だけを見つめる。ペシフィロが作ってくれたもの。きっと、スーヴァがいなくなった日から練習していたのだろう。彼はそういう人間だった。帰るはずのスーヴァのために布を張り、箱を積み、入り口に椅子を置いて一日中待ちわびる。言われなくても容易に想像できるほど、ペシフィロという男はわかりやすい。スーヴァ自身よりもよほどよく理解できる。こんな、どうしても目の前の食事に手を出せない、スーヴァニヒタードゥという使影よりも。
 スーヴァは、なぜこんなにも苦しいのかわからなかった。レナイアもペシフィロも優しく話しかけてくれているのに、顔を上げることができない。フォークを握ると、震えるそれは皿の端を叩くばかりでちっとも料理に触れなかった。こんな、食器を使って食事をしたことなどない。それどころか席について、まっとうな形のあるものを食べるのも初めてだ。
 だが、食べられないのは作法を知らないせいではない。たとえ口の中に料理を押し込まれても、今のスーヴァは噛むことすらできなかっただろう。体が動かない。みるみると小さく、そして焼けるほどに熱く燃えていく。視界が赤いのは、顔が火照っているせいだろうか。ペシフィロたちはそんなスーヴァを見て楽しそうにしていたが、やがて、気遣って話をそらした。あえて、スーヴァを見ないようにしてくれているとわかる。その優しさが体をさらにおかしくさせる。食べなければ。スーヴァは必死に手を伸ばした。だが震えるそれは料理にまでたどりつかない。ペシフィロが作ってくれたもの。レナイアが用意してくれた場所。それを思うほどに体は小さく重くなって、熱はどんどん増していく。目の端が赤く光り、きゅう、と絞られるように視界が暗くなった途端、スーヴァは意識を失ってことりと椅子から転げ落ちた。



 目が覚めるとそこはいつもの小屋で、スーヴァはペシフィロの寝床にいた。額には冷やした布があり、替えたばかりらしいそれは、目を閉じるほどに心地よい。確かめると、随分と熱があった。病に冒されたはずはない。追い詰められて、窮したせいか。
 自分が起こしてしまったことを考えて、スーヴァはまた気絶しそうになる。その場で殺されても文句は言えないほどのことだった。それなのに、ペシフィロはスーヴァをここまで運び、看病をしていたのだろう。疲れて眠りこける頭が、寝床の端に乗っていた。
 もう、夜になっている。ろうそくの明かりに照らされた彼の寝顔は、どこまでも穏やかで、いっそ間抜けですらあった。迷惑をかけられたというのに、かすかな寝息を立てるそれは、はしゃぎすぎてくたくたになり、満足に眠る子どものようだ。
 ペシフィロさん。と、声には出さず彼を呼ぶ。なぜだかはわからなかった。だが、これからは理解していかなければならない。選ばれた者としての役目は終わった。感情から逃げる必要はなく、スーヴァはこれから得体の知れないそれに立ち向かわなければいけない。
 感情を失くしているのは楽だった。だからこそ、ペシフィロの熱を怖れていた。また、あの鬼に連れ去られていた頃のように、些細なことで世界が変わる日々を送るのが恐ろしかった。
 だから、こんなことをされては困るのだ。体が震えてしまうから。その名前を呼ばずにはいられなくなってしまうから。
「ペシ、フィロ、さん」
 か細く、起こさないように呼ぶ。それでも足らず三度続けた。指が震える。触れようとしているのだ。そんなことをしては、いけないのに。
 スーヴァは自分の膝に荷物を見つけ、その塊を手に取った。束ねられた、様々な色の封筒。一番上には折りたたまれた便箋があり、封じられていないそれを開くと、慣れ親しんだ文字がある。
 そこにはいつも通りのペシフィロの字で、こう書かれていた。


  スーヴァへ。

  無理をさせてしまってごめんなさい。
  いきなり、いっぺんに色んなことをしすぎたね。
  これからは、少しずつやっていきます。

  これは、君が留守にしている間に書いた手紙です。
  記憶を消されていた時のために残したので、文章が所々おかしいかもしれません。
  でも、よかったら読んでください。

   ペシフィロ


 封筒にはそれぞれ日付があり、どれも中には五枚前後の便箋が詰まっていた。怯えながらもそれを読む。書置きにあった通り、内容はどれも「記憶を失くしたスーヴァ」に宛てたもので、随分と大げさな箇所があったり、今さら言うまでもない説明が延々と続いていたりする。そして、必ずあちこちに執拗な繰り返しがあった。

  もう憶えていないかもしれないけれど、君はとてもいい子で、僕たちは今でも君のことを何よりも大切に思っています。

 スーヴァは震える手でそれを数えた、三、四、五、六。飽きることもなくペシフィロは何度でも語りかける。君はとてもいい子で、僕たちは、今でも君のことを何よりも。文字をたどる度にそれがペシフィロの声で聞こえて、スーヴァはまたみるみると体が熱くなるのを感じた。
 どうして自分はこの人の好意に応えられないのだろうと、頭を壊しそうなほどに考えている。使影として生きているのがいけないのだろうか。だが他の道は怖ろしくてあまりにも険しいのだ。人を捨て、影として生きるしか、この身には。
 諦める思いで封を開ける。最後の手紙には、あの言葉が記されていた。故郷に戻るスーヴァが繰り返し諳んじた、願いを持てという台詞。記憶したそれよりも丁寧に連ねた後で、ペシフィロは続けている。


  そういえば、僕の願いを言っていなかったね。
  人に強要する前に、まずは自分のことを伝えるべきだった。

  僕の願いは、君と一緒に毎日ご飯を食べることです。
  僕と、君と、レナイアさんと、三人でいろんな話をしながら、楽しく食事ができればいいな。それが、僕の諦めない願いです。

  スーヴァ、君の願いは何?


 震える指で手紙を置く。ペシフィロは穏やかに眠っている。スーヴァは紙を探した。ペンを欲した。そうしなければならなかった。まともな道具などなく、伝えるにはあまりにも言葉を知らない。それでも湧き起こる衝動に、スーヴァは書くものを求めた。
 記さなければ、このまま想いが弾けてしまい、酷いことになる気がした。
 ペンなどなく、拾ってきた木の枝を裂いた。泥や薬を混ぜてなんとか黒に近づけて、インクとした。手が震えるのも構わずに、ろくに文字を記した覚えがないことも忘れ、スーヴァは突き動かされるがままにそれを書いた。押さえきれない想いを託し、木の枝を動かした。




 目を覚ましたペシフィロは、自分がどうして寝床にいるのかすぐには理解できなかった。もう、朝になっている。スーヴァが場所を譲ったのか。だが探しても彼の姿はなく、一抹の不安に胸を冷やす。慌てて起きようとしたところで、かさりと落ちるものに気づいた。便箋だ。昨日、スーヴァの上に置いたそれの一枚だけが、どうしてか残されていた。他のものは手にとってもらえたのだろうか。そう考えながら、文面を確かめる。最後の一枚。目を、見開く。
 終わりの一行、君の願いは何と尋ねた後の空白に、引き攣れた大きな文字が記されていた。


  にんげんに なりたいです。


「スーヴァ!!」
 ペシフィロは手紙を掲げて庭へと飛び出す。隠れてしまった友人は見つからず、呼びかけはすぐに変化してレナイアへと駆けていった。
 ペシフィロは喜びが弾けるがままに叫ぶ。
「ナイアさん! スーヴァが手紙をくれたよ!!」


※ ※ ※


 国王とピィスが騒ぎながら部屋を出て、お休みなさいと言ったところでペシフィロは息をつく。病室を城の中に移して以来、二人はどちらがよりペシフィロの役に立つか、賑やかに競い合った。まるで、仔猫がじゃれあっているようで、見ている分にはかわいらしい。だが、さすがにその最中に仕事をするわけにはいかず、ペシフィロはこれでようやく落ち着いて、と隠した書類に手を伸ばした。
 だが、見つからない。確かにこの引き出しにしまったはずなのに。頭を入れる勢いで探していると、かさ、と紙の気配がした。振り向けば、いつの間にか現れたななが一枚ずつめくっている。
「あ! それ、今から……」
 言いかけて、失敗に気がついた、
「今から、少しだけ、本当にちょっとだけ、確認して寝ようかなー……と」
 ななは顔色ひとつ変えず、書類の束を袋に入れた。同じ動きで枕元に置いたペン、インク、印鑑、まだ何も書いていない紙に本まで、徹底的に収めてしまう。最後には、読書灯の油まで抜こうとしたので、ペシフィロは弱り果てた。
「なにも、そこまでしなくても……」
「時計をご覧下さい」
 冷静な声。温かみのないそれに導かれて、ペシフィロは壁を見る。
「まだ、寝るには早いんじゃないかな、と」
「昨夜は明け方まで起きておられました。昼も、あまり休んでいない。今が丁度の頃合です」
 何も言えず、ペシフィロはベッドに戻った。ななは、ペシフィロが倒れて以来、ずっと健康に気を遣ってくれている。おせっかいではないかと言いたくなるほど生活に口を出し、薬の飲み忘れに注意をし、ペシフィロが仕事をしないよう、無言で邪魔をしてくれる。昔はこんなにも堂々としていなかったのに、と、不思議な思いがした。
「じゃあ、わかりました。今日はもう終わりにします」
「ごゆっくりお休み下さい」
 使影らしい深々とした礼をして、ななは部屋を出ようとする。
 扉に手をかけたところで、声をかけた。
「スーヴァ」
 ペシフィロは彼に微笑みかける。
「だいぶ、人間らしくなりましたね」
 ななは袋を落としそうになり、ようやくのことでそれを堪えた。晒した肌には鳥肌が立っている。気持ち悪そうに青ざめた顔は今にも逃げかねなかったが、彼はぐっとそれを堪え、なんとかペシフィロに向き直る。一、二、三、と十まで数え終わったところで意を決し、
「まだまだ、です」
 と、絞り出す声で答えた。
 すごいですねと誉めたいのをペシフィロは堪えている。人の熱を怖れるようになった彼は、それでも、少しずつ呼びかけに応えられるようになった。ペシフィロは顔が笑うのを止められない。
「うちの、食事用の席。あのうちのひとつは、最初からずっとあなたのためにとってあるんですよ」
 ななはびくりとしたが、ペシフィロは構わず続ける。
「あなたが人間になったら、その時は改めてお祝いをしますから、それまでに好きな食べものを考えておいてください。ピィスも入れて、三人で食事をしましょう」
「……はい」
 やっとのことで答えると、ななは「失礼致します」と呟いて跳ぶように逃げていく。ペシフィロはくすくすと笑いながら、願い続ける夢を見つめた。
「まだ、遠いなあ」



 立ち上がる嫌悪感を鎮めるため、ななは必死に呼吸を整えている。以前は、戸惑いながらも喜びしかなかったのに、今のこの体では拒絶しか残らない。それでも見つめる目標は変わらないままだった。
 ペシフィロの言葉を繰り返す。ペシフィロと、彼女の娘と、三人で今度こそ。
 またペシフィロは料理を作ってくれるだろう。ピィスは彼女のように幸せに笑うのだろう。
 そのときは、ありがとうと言えるだろうか。
 ななは、深く息をした。もう拒絶はどこにもない。落ち着いた頭で、幾度となく繰り返した言葉をたどった。
 必要なのは、そうなりたいと強く思う、諦めずに続ける願い。
 うなずくと、ななは回収した袋を握り直し、ペシフィロの薬を作るためにその場を去った。


 願いにはいまだ遠く、だが、それでも路を外れてはいない。



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