はあ、と力の限りに息を吐いて、サフィギシルはまくっていた袖を下ろした。 「終ったぞー」 いかにも力なく歩きながら、カリアラの背を叩く。まだどこかぼんやりとした元ピラニアは、サフィギシルの疲労になど目もくれず首を回した。以前よりも数段と軽くなった髪がかすかな音を立てて流れる。さらさらとした感覚に慣れないのだろう、カリアラは不思議な顔で繰り返し頭に触れた。 「サフィ、なんで頭少ないんだ? おれ、食われたのか?」 「……お前なあ」 あからさまに疲れの増した顔色でにらみつける。 「ただ単に洗っただけだ。今、俺が! ついさっきのこともわからないのか」 「そうか。……そうか?」 あらうってなんだっただろうと問われる前に、サフィギシルは早々とソファに避難した。ベッドに飛び込むのと同じ姿勢で横になり、綿入りの背にしなだれかかる。シラと話していたピィスが、椅子ごと傍に移動した。 「お疲れさーん」 面白げに笑われるのが鬱陶しくて、サフィギシルはくたびれた顔でそっぽを向く。今しがたカリアラにてこずらされたばかりなのだ。これ以上の面倒は嫌だった。 カリアラはまだ背後に立っているのだろう。駆け寄ったシラが驚きの声を上げる。 「わあ、綺麗になりましたね」 「洗うだけでこんなに違うんだー。いつもやってやればいいのに」 「どうせ毎日洗ったところで、同じ数だけ汚されるんだ。きりがない」 ごく普通の細工物であれば、体の汚れを落とすのは三日に一度程度でいい。生身と違って分泌物がほとんどないのだ。食べこぼしや土ぼこりなど、外的な要素がない限りは綺麗な肌が保たれる。そのため、一日中家の中にいるサフィギシルは清拭もあまり必要ないが、この、外を愛する生き物はそういうわけにはいかなかった。カリアラは日々全身を土や草まみれにして家に戻り、その度に強制的に洗われている。 まだ納得のいかないらしきカリアラが、遠くからサフィギシルを覗いた。 「洗うのはいつもやってるぞ。でも、さっきのはわしゃわしゃして痛かった。サフィ、なんでわしゃわしゃしたんだ?」 「洗剤を使ったんだよ。お前が沼でどろっどろにしてきたからな」 普段、カリアラの髪の手入れはせいぜいが水拭きで、人間のように石けんを使うことはない。だからこそ彼の髪はいつまでも捨てられたぬいぐるみのような色なのだが、細いそれがどんなにもつれやすくても、木の枝やほこりを吸ってしばしば大きくふくれても、本人が気にしないのでサフィギシルは放置している。生身とは違い、植毛である彼らの髪は自然には生えないのだ。下手に数を減らしていくと、後々で面倒になる。 サフィギシルは悲鳴を上げたくなるほど抜けたカリアラの髪を思い、内心でため息をつく。少ないというカリアラの弁も間違いではないのだ。一応、排水溝に溜まったそれは、外見に影響するほどの量ではなかったが。 「頼むから、もうちょっと考えて遊んでくれよ。なんでわざわざ沼なんだ。いつもみたいに川で遊べばよかったのに」 「あのな、草が食べたかったんだ。水の中にはえてるやつ。昨日な、うまい水草の夢を見たからな、起きても食いたくなった。川も探したけど、草はあんまりなかったから、沼にした」 「それであんなミズゴケだらけになったのか」 洗う前の、真緑にぬめる髪が悪夢のごとくにまぶたに浮かび、サフィギシルは首を振った。お土産だと水草を握るカリアラはいつも通り状況を理解しておらず、その首根を引っぱって風呂場にぶちこみ、延々と、跳ねる頭を押し下げては繰り返し洗い流した。 「顔にもこびりついてるし……繊維の奥まで染みてるし」 また、自然とため息が出る。この口は一体どれだけの疲労を吐いているのだろうかとサフィギシルは考えるが、とても数えられる規模ではないだろう。だがそのうちの何割がカリアラによるものなのかは明らかである。九割九分に違いない。 「お兄さん疲れてますね」 「疲れるさ。疲れるとも。むしろ人生に疲れてる」 「まあまあ、そんなに悲観しないで。後ろ向きばっかりだとハゲるぞー」 笑いながら髪の毛をいじられるが、サフィギシルはされるがままにしておいた。ピィスはいつも小鳥が餌をついばむようにからかっては逃げていくのだ。悪いものに捕まったと諦めてしまえば、すぐ去るに違いない。 「俺たちが心労で禿げるわけないだろ。構造的に不可能だ」 気の済むまで調べればいい、と腕を組んで座りなおす。だがどういうわけだろうか、今日のピィスは彼女らしくもなく執拗に髪を撫でていく。初めは簡単に。だが次第に目を近づけてまでじっくりと取りついてくる。繰り返し触れる指の動きが不愉快で、サフィギシルが抗議に口を開いたとき。 「……あった」 ピィスが、どこか呆然として言った。 「はあ!?」 勢いよく振り向くと手はいったん離れるが、サフィギシルが確かめる前に今度は両手で掴まれる。 「うわ、ほんとにハゲてる! お前これ酷いぞ。どうしたんだよ!」 「ど、ええ!? そんなわけないだろ、これ植毛だぞ? 禿げるわけが……」 「本当だって! ほらここ、丸くハゲてる!」 信じがたいことに彼女の声に冗談の気配はなく、動揺するサフィギシルの頭はそのまま顔を寄せた二人に差し出される。待って待ってまず見せろと抗議をする暇もなく、カリアラが、決定的な動きを取った。 「うん。サフィ、ここなくなってるぞ。食われたのか?」 ぐるりと、頭皮を見せる憐れな場所を指先でなぞりあげ、不思議そうに首をかしげる。 同じ場所を指でたどったサフィギシルは、頭を抱えて沈み込んだ。 「嘘だ……」 嘘だ、嘘だ、嘘だ、とその言葉しか頭にない。いくら心労がかさんでいたからといって。どれだけカリアラに困らされていたとはいえ、人型細工が精神疲労で髪を落とすはずがないのだ。 「おかしいだろ! なんでここだけなくなってるんだ!」 幻であることを願いながら撫でてみても、指先はやわらかい白髪ではなくむきだしの肌を教えるばかり。サフィギシルは嘘だ、嘘だとうわ言のように呟きながら、一束分はある頭上の空き地を繰り返し触り続けた。 その位置を確認して、ピィスがわずかに目を細める。彼女は思うところのある顔で、蒼白なサフィギシルを眺めた。 「あのさ、おかしくない?」 「おかしいよ。絶対にありえない」 「そうじゃなくて。自然に抜けるわけがないんだろ? だったら、何か原因があって抜けちゃったことになる。じゃあ、なんでサフィが気づかなかったんだよ」 顔を上げたサフィギシルに、ピィスはさらに推測を告げる。 「で、さっきから気になってたんだけど、その位置」 不名誉な脱毛の地点を指さし、彼女はためらいがちに言った。 「お前ら、夜、三人で寝てるよな。んで、例えばサフィが仰向けになってたら、そのへんって……」 申し訳なさそうな目は、サフィギシルの背後に立つカリアラへと移動する。サフィギシルもまたそちらを見て固まった。ここのところはずっと、布団を並べて三人で眠っている。サフィギシルは左端に。そして中央、サフィギシルの右隣がカリアラの定位置だった。 丸く空いた抜け毛の跡は、ちょうど、サフィギシルの左側頭部にある。 サフィギシルはおそるおそる質問した。 「カリアラ。昨日、どんな夢を見たって?」 「あのな、水の中に草があってな、おれはそれを食ったんだ。うまかった」 カリアラはわけのわかっていない顔で、もしゃもしゃと草を食むまねをした。 「お前かあああ!!」 嵐もかくやという勢いでサフィギシルがカリアラの頭を掴み、力いっぱい押しつぶす。突然のことが理解できないカリアラは言葉をなくして魚のごとくに飛び跳ねた。びちびちと揺らぐその頭部を、サフィギシルが消えた髪の仇とばかりに拳で混ぜるとシラが制止の悲鳴を上げる。それでも止まらず疲れるまでいじったところで、ようやくカリアラを解放した。 「ったく。冗談じゃない! なんで俺が禿げなきゃいけないんだ!」 「じ、じんじんする……あたまあつい……」 「夢で見たからってな! それで食われちゃたまったもんじゃないんだよ!」 「サフィー、おれなんでこんなになってるんだー? なんであたまあついんだー?」 「お前が俺の髪を食ったからだ! そうなんだろ? 思い出してみろ!」 一瞬、誤解かもと考えてサフィギシルは気まずくなる。だが心配はすぐに覆された。 「うん。そういえば、なんか食ったな」 「ほーら見ろ。やっぱりお前じゃないか」 思い当たったのだろう。カリアラは口を動かしては記憶の中の草を食む。それは青緑のミズゴケではなく白色の絹糸で、サフィギシルにとって大事な頭髪の一部なのだ。サフィギシルは反芻される記憶すら憎むようにカリアラを睨み、どうしてやろうかと考えながら頭を押さえた。 「とりあえず、新しく植えてもらうしかないよなー。結構目立つぞ、それ」 「……頼まなきゃいけないのか……また、何を言われるか……」 依頼と作業のことを思うと、呟きは暗がりに消えていく。予定外労働の文句はカリアラにも向かうだろうし、最終的には長ったらしい説教になるに違いない。どうやって気安く事情を説明するかサフィギシルが悩んでいると、かふ、と息を食む音がした。 「え」 顔を上げた瞬間、左側の頭皮に急激な痛みが走る。 「いたたたた! なに、何っ!? 痛い痛い痛い! バカ、やめろ!!」 「カリアラ!」 一体何が起きたのかわからないまま髪を引かれ、みりみりと聞いたこともない音が耳のすぐ傍で鳴る。サフィギシルは身を乗り出したカリアラを突き飛ばそうとするが、体はともかく彼の口はサフィギシルの髪の毛を噛んだまま離さない。痛いというわめきよりも近くで糸の切れる音がする。初めは数本。それはやがて大量の被害となって、尋常ではない熱を残してあっという間に静かになった。 カリアラの体が仰向けに倒れていく。その噛みしめた口からは白髪が流れていて、サフィギシルは自分の頭を確認して、そのまま卒倒しそうになった。 絶叫。 怒声。 二度目の仕置き。 びくびくと揺れながら、カリアラは目を白黒させてサフィギシルの髪を食った。吐き出せとこじ開けられても頑固なまでにそれを噛む。カリアラは、ひとしきり口を動かした後で、詰めていた息を吐いて叫んだ。 「違う!」 サフィギシルの攻撃に必死に抵抗しながら言う。 「おれ、食ってない!!」 「意味がわかんねえよ! 食っただろ今! ここで!!」 「でも昨日は食ってない!」 髪を握るサフィギシルの手が、止まった。 「お前の髪、昨日の草と味が違う。たしかめてわかったんだ。おれ、昨日は食ってない。あれは違う草だった」 「……そうか」 「そうだ。まちがいだ!」 カリアラはまっすぐな眼で訴えるが、それで問題が済むわけではない。 「だからって今食わなくてもいいだろうがああ」 ぐりぐりと無抵抗な頭を抉りながら、サフィギシルは繰り返し恨みを吐いた。引き続き魚の動きで跳ねていたカリアラが、思い出したように言う。 「あっ、シラだ! おれ、昨日はシラの髪食ったんだ!」 「シラの?」 サフィギシルは、そこで初めて彼女を探した。そういえば、いつもはカリアラをいじめるとすぐに飛んでくるというのに、どういうわけか今日は静かなままである。具合でも悪いのかと見つめるが、シラは不安など何もないかのように穏やかに微笑んでいた。 「そうですね。そういえば、少しだけ食べられているかもしれません」 ゆるやかに波打つ金の髪を、指先にそっと絡める。 「でも、それは昔からよくあったことですから。川の中にいたころは、もっと食べていたものね」 「うん。だからおれ、また食ったんだ。あれはシラの味だった」 カリアラはいつも掛け布団を洞のような形にして、その中で眠っている。そして毎晩そこに寄り添うシラの髪を、口許に添えているのだ。赤ん坊がお気に入りの毛布を噛むのと同じだろうか、時おり口に入れているのをサフィギシルも目撃している。 「えー。じゃあ、結局サフィの髪は誰が食いちぎったんだよ」 「何か、別の原因があるんじゃありませんか? 内部から壊れたとか」 「そうかもな」 あっさりと答えると、ピィスが怪訝に顔を向けた。サフィギシルはそれにもかまわずただ一点を見て続ける。 「だって、普通に食いちぎってたら、さっきみたいに痛くて目が覚めたはずだもんなぁ」 視線の先で、微笑みがかすかに揺らぐ。くちびるが引きつったようにも見えた。 「それに、最初の禿げと今の穴じゃ、地肌の具合が全然違うし。最初の方は、触るとちょっと表面がヒリヒリするんだ。軽く、火傷でもしたみたいに」 ぐ、と白い喉が音を立てた。サフィギシルは距離を詰める。 「どういうことなのか、説明してくれるよな?」 逃がしはしないと肩を掴むと、シラは悪いものを食べた顔でゆっくりと彼方を向いた。 「ごめんなさい……」 観念したシラは汗をかく額を拭いて、サフィギシルに向き直る。 「寝ぼけてたんです。夜中に、カリアラさんに髪を食べられて目が覚めて。それで、ちょっと……」 「いや繋がりがわかんない。なんで食われたらサフィを食い返すの?」 「だって、あまりにも美味しそうに食べてるから。だから、ちょっと、小腹が空いて。最初はほんの少しにしておこうと思ったんです。でも、なんだか物足りなくて、少しずつ増やしていって」 「最終的に、こんなに大きくなりました。か」 サフィギシルは、これまでで最大の不機嫌に顔が歪むのを止められない。触ってみると頭の空白はあまりにも大きくて、髪型を変えたぐらいではごまかせないのだ。カリアラが広げたのも原因のひとつだが、元はといえばシラがやってしまったことだ。簡単に許せるはずがない。 「本当にごめんなさい。ねぇ、許して」 「やだよ。なんで俺がむしられなきゃいけないんだ」 「あのさ、オレさっきからわかんないんだけど」 一人取り残されたピィスが、遠慮がちに手を挙げた。 「なんで、シラが食ったら痛くないの?」 「それは……」 説明をしかけた口が止まる。この元人魚は自分の体の特徴をピィスには隠しているのだ。ここで告げてしまえば復讐にはなるだろうが、あまり平等でない気がしてとりやめた。 同時に、重大なことに気づく。シラがこの髪を溶かして切り取ったとすれば。しかも、わずかな根元も残っていない。地肌はかすかな火傷を負っている。彼女の毒は舌先から流れるのだ。 ということは、つまり……。 ぼう、と音がしそうな勢いでサフィギシルの顔に炎が立つ。彼はそのまま頭を抱えて床にしゃがみこんでしまった。うわあうわあと心の中で絶叫する。明確な想像を消そうとしても、何倍にもふくらんで熱を増やしていくばかりだ。 「サフィ、どうしたんだ!? すごく熱くなってるぞ!!」 「うわっ、なんだよお前! なになに何事!?」 思いきり騒がれるがそれにかまう状態ではなく、いいから、いいから、と手をやるだけで精一杯。サフィギシルは今すぐ溶けてなくなりそうな表情で、床を近く見つめて告げる。 「いいよ、もう……許すよ」 「ありがとうございます」 絶対に直視はできないけれど、彼女はきっと満面の笑みを浮かべているに違いない。してやったりといわんばかりに、サフィギシルの恥ずかしさなどすすにも及ばないという態度で。わかってはいるが、サフィギシルはどうしてもこれ以上彼女に立ち向かえる気がしなかった。 「なにそれ! なにが起こったんだよ、なあ!」 「大変だ、サフィが焼ける! まっくろになるぞ!!」 「いいから……大丈夫だから……」 耳元では理解できないピィスがわめき、カリアラが必死になって大騒ぎを続けている。サフィギシルは早く落ち着きますように、となかば祈るようにして、小さく小さくかがみこんだ。 |