番外編目次 / 本編目次


 水が止まっている。カリアラがそう感じたのは真夜中のことだった。
 苦しくて苦しくてどうにも息ができなくて、わざと大きな音を立てて、ひゅう、ぜえ、と喉を鳴らせばみしみしと肺から軋む音がする。見えないものに身体を押さえつけられているようで、いつのまに砂の奥に潜り込んでしまったのか。いや、もしかすると泥かもしれない。あの熱帯の川底の粘土と化した泥がうろこを覆っているのだろう。曖昧な意識でそこまで考えて、はたと今自分が寝ている場所は陸の上の家の中の自分の部屋のベッドの上だ。そう思い出して目をあけた。
 カリアラは走りすぎた犬のような音を立てて、不自然な呼吸をしながら重たすぎる体を起こす。正確な時間はわからないが、まだ夜であることは確かだ。カーテンを閉めた部屋の中は暗く塗りつぶされていて、手を伸ばせばそこらに漂う闇の黒に触れることができそうだった。
 目を瞬かせるがその動きですら重くたるい。部屋一杯に詰められた黒い闇がもやもやと肌に寄り添っては纏わりついて離れなかった。水の流れが止まっていると考えて異変に肌がざわめくが、今いるここは地上なのだと思い出して安堵する。静止しているのは河の水ではなく、空気だ。そして体がやけに重いのは。
 ああ、暑いのか。
 カリアラは、こほ、とひとつ息をついた。沫を吐くのと同じ音だが空気の粒は目に見えない。
 暑い、というのがどういうものかはっきりと自覚したのは陸に上がってからだった。ピラニアだったころは今よりも温度の変化に敏感だったがその分退避も早かった。少しでも熱いと感じた瞬間体は自然と冷ややかな水を求めて泳ぐのだから、真っ当に暑くて暑くて仕方がないと嘆くようなことはない。だが臥していれば、まず起きて床に下りた上で歩かなくてはいけないのだから、人間というものは動作が多くて面倒である。
 手のひらでシーツを探ると、ぴんと張られていたはずの布は皺だらけになっていた。眠りながら魚の時の要領で移動しようとしていたらしい。さすがにそれが無駄なことだとわかっているので、カリアラはベッドを降りた。
 床に耳を押しつけるが音はなく、真下の部屋のサフィギシルはどうやら眠っているらしい。手探りでドアにたどり着き、廊下に出るが床板が軋む音すらしなかった。歩く気配も視界を埋める闇に取られていくようだ。シラの部屋に耳をつけたがこちらにも起きている気配はない。カリアラは短い廊下を見回した。
 薄い、水で溶かしたようなねずみ色が窓から流れ落ちている。
 差し込んだ淡い淡い夜のひかりは床板の上を流れ、壁を照らし、カリアラにたどり着いていた。
 カリアラは窓に誘われるように歩きだした。足音はない。呼吸の気配もどこかに消えて、耳をかすかに鳴らすのはきぃんという不思議な高音。切れ間のないそれに感情を奪われながら、カリアラは廊下を進んだ。音はない。ただ耳がほのかに鳴るだけ。
 暑い。重い。どうして陸に流れる水はしばしば止まってしまうのだろう。カリアラはせめて自分が水の流れを作ろうと、歩く足をいくらか速めた。そのまま、窓の外の明るさに誘われて階段を下り、廊下を行き、居間を抜けて台所の裏口から外に出る。
 空の水が動く音。かすかだが風がぬるく肌を撫でた。ひやりとしたものを感じるが呼吸はまだ重いままで、胸のあたりは闇の手に押さえられているようだ。カリアラは、あつい、とあえて口にした。静寂に音が生まれたことが面白くてしかし同時に恐ろしく、静けさに呑まれるようにそれきり口を閉ざしてしまう。ほのかな光に照らされた裏庭は、まるで音が存在してはいけない場所のように見えた。
 奥にある井戸に近づき、場違いな音を立てて水を汲む。いっぱいに水の溜まった桶を見るとたまらずそこに飛び込みたい気分になって、頭から水を被った。冷たさに全身の皮が縮れる。ばたばたと音を立てて水が下へ落ちていく。屈んだ視界に透明な粒が雨垂れのようにこぼれた。
 カリアラはやめられなくて繰り返し水を被る。冷たいのは苦手だが今の肌には心地よい。澄んだ水を被るたびに呼吸の量が増えていく。思う存分息を吸って吐き出すと、体の重みも途端に消えた。
 全身をびしょ濡れにして、ふと何気なく空を見る。カリアラはびくりと震えた。
 まん丸い黄色の明かりが夜空にぽっかり浮いている。火を入れて照らす明かりにとてもよく似た明るい丸。以前古物屋で見せてもらった紙張りの照明器具が吊るされているかのようで、誰かが空に提灯と呼ばれるそれを引っかけていったのかとまじまじと目を凝らした。
 だが、月だ。
 あまりにもくっきりと丸いけれど、あれは多分、月なのだ。
 カリアラは今まで見てきた月の姿を思い出し、空に浮かぶ提灯のようなそれを見ては首をかしげた。
 どうしてだろう。月が何か言っている。こちらに話しかけている。
 黄色い月が何かを訴えかけているように感じて腹の底がびりりと震えた。
 目を丸くして月を見る。月は丸くカリアラを見る。ふたつの丸はまっすぐに結ばれてカリアラは身動きができなくなった。月が話しかけている。音はない。ただ耳がほのかに鳴るだけ。
 手を伸ばす。だが簡単にもぎ取れそうに見えた月には届かずに指はぬるい空気を掻いた。肌に張り付く水のおかげでひやりとした風を感じて、カリアラはそのまま腕を振ってみる。そうしていると動かないときよりも数段涼しいことに気づいた。風を求めて頭を動かす。屋根の端が、目に入った。


 梯子から身を乗り出すと風がひやりと肌を撫でた。高ければ高いほど空気は動いているのだと考えて、カリアラは屋根に上る。靴の底で瓦が乾いた音を立てる。歩くほどに服からこぼれおちた雫が屋根に暗い点をつける。屋根瓦は所々に塗料の粒が散っていて、錆赤に黒に緑色に、とささやかな彩りを見せていた。それらを平らに照らすのは、ねずみ色の月の光。カリアラはいまだこちらに呼びかけているように見える黄色の円に手を振った。
 だが月は答えない。カリアラは魚の声を出した。だが月は答えない。
 煙突の隣に座り、今度は大きく呼びかけた。人の言葉でいくつかの挨拶を試みる。だが月は答えない。
 何と言って欲しいのだろう。何を言っているのだろう。手を伸ばせば今度こそ触れられそうな位置にあるのにもがいてみても爪は空をかするだけ。カリアラは何も言わずこちらを見つめる月のことが段々と恐ろしくなってきて、虚勢を張って朗々とおらび上げた。
 突然猫の鳴き声がして、カリアラは驚いて煙突にしがみ付く。だが続いて屋根に上ってきたのは楽しげな人の笑い声。丸い目で凝視する先に、白い頭がひょっこりと現れた。
「何やってんだよ」
 サフィギシルは笑いながらも目の奥に心配と小言をちらりちらりと見せながら、カリアラの隣に座った。カリアラはサフィギシルが猫を隠しているのだろうかと目で探るが相手はただ笑うばかり。
「あのな、さっき猫がいたんだ。見なかったか?」
「にゃーん」
 ごく近くからした声色にびくりとして夜を見回す。だがどうしても猫の体が見つからなくて、カリアラは困り顔をした。サフィギシルが珍しく軽く声を立てて笑う。にゃあん、とまた声がしてカリアラは再び怯えた。
「ここ、猫がいるぞ。危ない」
「本当に気づいてないのか?」
 とん、と喉に指を立ててサフィギシルが口を開く。聞こえてきたのは間違いのない猫の声。カリアラは目を丸くした。
「お前ねこ食べたのか!?」
「なんでそうなる」
 この中に入っているのか、とサフィギシルの喉や胃のあたりに顔を近づけると、ぱん、と明るい破裂音。驚いたカリアラが飛び退いて煙突にぶつかるのを見て、サフィギシルは手のひらを合わせた姿勢のままで笑う。いたずらをする子どもの顔でカリアラに近づいて、目の前でもう一度、ぱん、と手のひらを合わせた。ぎょっとして退いた頭が煙突に激突して、カリアラはくらくらと体を揺らす。わけがわからなくなっているところにまたしても猫の声。猫だまし。猫の声。猫だまし……と続けられて逃げたくとも逃げ場がなくて追いつめられていると、響きかけた猫の声は大声に断ち切られた。
「こらあ!」
 カリアラもサフィギシルも揃ってびくりと肩を上げる。
「何やってるんですかっ!」
 飛びかかる勢いで現れたのは寝間着姿のままのシラで、カリアラはほっとするがサフィギシルは逃げようとする。カリアラの後ろに回りこんで無理やりに虚勢を張った。
「何もしてねーよ。遊んでただけだって!」
「嘘。苛めてたじゃない。どうしていつもそうなんですかっ」
 カリアラは自分の背後に隠れたがるサフィギシルと、屋根を踏みしめて立つシラとを交互に見つめていたが、これはなんとか止めなければと気がついて口を開く。
「あのな、サフィは腹の中に猫がいるからおれに見せにきたんだ。体の中で猫が手を動かしてるんだよな? サフィ」
「なんだそのかわいい話」
「少しはこのひとを疑ってください。もう、だから調子に乗られるのよ……」
「誰が調子に乗ったって? 一番調子に乗ってるのはそっちじゃないか」
「いいえあなたには敵いません。寝ぐせついてるわよ、格好悪い」
 サフィギシルは乱れた髪を直しながら次なる口戦の糸口を探す。シラは満足げにカリアラの隣に腰掛けた。二人の間に挟まれて、カリアラはどこを見ていればいいのか分からなくて月を見る。
「あれ」
 口にすると、二人が訊いた。
「どうした?」「どうしたの?」
 まったく同時にカリアラを向いた視線は忌々しげに重なりあって、再びの争いになりかけたのでカリアラは声を張り上げる。
「あのな! 月が喋らなくなった!」
「は?」
「なんですかそれ」
「さっきまで月がなんか言ってたんだ。でも今は言わなくなった。なんでだ?」
 心の底から不思議に思って訊いているのに、二人は一体何をと言わんばかりに互いに顔を見合わせる。カリアラは自分ひとりだけが違うところにいることに気づき、困り果てて月を見た。まん丸い黄色の明かりは何も言わず星のまばらな空に浮かぶ。手を振っても答えない。
 大丈夫かしら。やっぱこれだけ暑いから……などと密やかな会話を交わす二人は心配そうにカリアラを見て、月を見て、首を傾げる勢いでカリアラに目を戻す。カリアラはさっきまでの月の声はただの気のせいだったのだろうか、夢でも見ていたのだろうかと困り果てて顔を歪めた。
「しかし今日は暑いなー。苦しくて寝た気がしない」
「本当。何回も目が覚めます」
「あ、お前水被っただろ。あーあーこんなびしょぬれで……ちゃんと拭いとけよ」
「なんだ、今気づいたの? 鈍いわねぇ」
「うるさいな、わかってたけど言うの忘れてただけだよ」
「どうかしら」
 ふたりはそこまで言葉を交わしてもう一度カリアラを見る。丸い目が見つめているのはひたすらに丸い月。もう今は遠ざかってしまったそれを、カリアラはぼんやりと見上げていた。シラは月を映す彼の瞳を、サフィギシルはぽかんと開いた口を覗くがカリアラに反応はなく、なんとも言えずに互いの顔を見合わせる。
「……じゃあ、寝ましょうか」
「そうだな。なんとなく涼しくなったし」
 諦めにも似た息をついてどちらともなく立ち上がり、屋根を下りようとした。
 だがその足が止まる。不思議そうにカリアラを見る。
 カリアラは不安な顔をして、二人の足を掴んでいた。問いたげなシラとサフィギシルの視線を受けて、口を開く。
「あのな、」
 だがそれ以上言葉にならなくて、ぱくぱくと口を動かした。
 頭の中から喋る単語がなくなってしまったようで、考えても考えてもふわふわとしていくばかりで何も言えない。ただ、二人を引き止める。踵を掴み、服の端を握りしめて固まっていると背を向けたはずの丸い月が頭の中にぽかりと浮かんだ。
 ああ、そうか。お前も。
「……そういえばさあ、明日の朝ごはん何食べたい?」
「うーん、卵がいいですね。目玉焼き。ハムもつけて」
 二人はそれぞれ元の位置に座り直す。シラはカリアラの手を握り、暖かな熱を彼に伝えた。サフィギシルはカリアラの頭を叩く。その丸い後頭部は今この手に叩かれるためにあるのだと言わんばかりに、ぽす、ぽす、と軽やかな音を立てて叩いた後で、一度だけくしゃりと撫でた。気恥ずかしいのか伸ばした足でぽかぽかと瓦を蹴って、その後は月を見上げる。シラもサフィギシルもカリアラも、同じようにまん丸い月を見つめた。
「……しりとりでもするか。つきー」
「なんですかそれ。……き? 木の実」
「み? み、み、み……み? みってなんかあるか? み?」
 カリアラはみの付く言葉が思い出せず、仔猫のようにみいみいと繰り返す。
「み、みるかばす」
「言葉を作るな。なんだよミルカバスって」
「すごく強い」
「知るかよ」
「魚も百匹ぐらい食う」
「設定を作っても駄目」
「ほら、あるでしょう。み……と言えば?」
 みー、みー、と苦しげなカリアラに二人は笑う。カリアラはみのつく言葉を月に問うが答えはない。
「み、ミヌフィート」
「お前わざとやってないか?」
「どこから出てくるんですかその言葉。なんなんですかミヌなんとかって」
「ものすごく強い。猫も食う」
「何科だそれは」
 楽しげな笑い声が月に向かって伸びていく。
 屋根の上は風が吹いてひんやりと心地よい。三人は平たく並んだ高い席で、さらに高い月を眺めて戯れた。明け方の光が差すまで、月と共に夜を過ごした。


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