番外編目次 / 本編目次


 日が照りつける中、木陰には黒い滲みが貼りついている。目を霞ませるそれは闇色の陽炎とでも言えばいいのだろうか、漂う空気にどろりと墨を溶かしたような、輪郭のおぼろな闇。広がる景色は平凡な家の庭であるというのに、建物に添って空へと伸びる大木の根元だけが、奇妙な不安を落としている。ただし、それの正体を知らない人間にとってのみではあるが。
「ななー。お前そろそろ家入んないと死ぬぞー」
 麦わら帽子を頭に乗せてピィスが木陰に声をかける。黒色に滲む影はそこで初めて気づいたようにぴくりと動き、ゆっくりと身じろぎをした。いつもならば完全に姿を隠しているというのに、今日は黒い塊をなんとか目で確認できる。わかりやすい側近の不調を前にして、ピィスは抱えた野菜を持ち直した。やたらに巨大なきゅうりのトゲが騒がしく肌を刺す。
「心配しなくてもただの野菜収穫だから。護衛とかいいから先に家に入ってろって。なんかあったら親父が助けてくれるしさー」
 だが忠義を貫く古式の使影は今度は動きもしなかった。それでも姿を消しきることはできないのか、細かな葉型に縁取られた木陰には、低く丸めた彼の体がぼんやりと見えている。景色に滲んだ黒い染み。ピィスは見るほどにまぶたが下りてくるのを感じて目をこする。日に当てられて赤らんだ腕はほのかな熱を持っていた。
 帽子に日よけの薄布に、と完全防護の体制を取っていてもこんなに暑くなるのだから、全身を布で包んだ彼などはどれほどの熱となるのだろう。何よりもあの執拗なまでの黒色は光と熱を集めすぎる。このままでは彼の服に火がつくのではないだろうかと考えて、ピィスは太陽を仰いだ。遠慮のかけらも見せない天は、火に当てられているかのような激しい熱を休みなく降り下ろしている。歩いても腕を振っても逃げることのできない陽射しに嫌気がさして、ピィスは木陰に飛び込んだ。黒い染みがぼわりと膨らむ。幻覚かと目を瞬かせた途端に染みは人の形となって、木の陰から飛び出してまばゆい光に照らされた。
「ご、ごめん」
 ななは守るべき相手に場所を譲って熱い芝生に転がった。鮮やかな緑色に闇色の滲みが被る。ピィスが慌てて陰から出ようかやめようかと悩んでいると、完全に暑さにやられた使影は見るからによろけた動きで家の陰へと回りこんだ。今度こそ完全に姿が見えなくなる。だがそれでもピィスが外にいる限り中には入らないのだろう。ピィスはかたくなな彼の意志を思うと無性に腹が立ってくる。今もまた苛立たしげに木の下に座り込んだ。店で売っているものの三倍はあるトマトがこぼれ落ちて転がっていく。あ、と目で追ったところで赤い実に手が伸びて、トマトは拾い上げられた。
「大丈夫ですか?」
 ペシフィロはピィスと揃いの麦わら帽子を軽く直し、トマトを自分のかごに入れた。隣に腰掛けて、半分がきゅうりで埋まった大きなかごを差し向ける。ピィスは腕の中の野菜を一息に流し込んだ。腕の中が軽くなって、寂しいような心地になる。ペシフィロは収穫物を木陰に置くと首に流れる汗を拭いた。
「時々は休憩しないと。喉が乾いたら水を飲んでおきなさい。いや、しかし暑いですね」
「ななはさあ。水飲まなくても平気なのかな」
 父の前で拗ねる時はどうしても背が曲る。汗ばんだ腕で膝を抱いて、ピィスは目を低くした。さっきまで彼が涼んでいた場所を、こうして占領していることがなんとも言えず腹立たしい。胸の中に、奇妙な熱が粘りつく。
「大丈夫。辛ければ自分で飲みますよ」
「でもさあ。オレがここにいたら動かないし」
 そういう問題ではないのだと言いたくなって言葉を重ねた。
「真っ黒だし。熱集めるし。あいつまだこっちの夏に慣れてないだろ。去年までは暑いと来なかったのにさー、今年からはオレにぴったり貼りつくように言われたからって毎日居なきゃいけないしさー……」
 ひとつ口にするたびにやるせない疲れを覚える。ピィスは今すぐにでもななの元に駆け寄って水を被せたい気分になった。この木陰に座り込んでいることがひどく罪なことに思える。抱きしめた自分の足が騒ぐのを腕で感じた。触れあう肌に生まれた汗が、その度に空気に冷える。
 ふと隣の父を見上げると、彼は微笑んでいた。わけもなく悔しくなって低い位置からにらみつける。
「……なんだよ」
「いえ」
 ペシフィロは何か言おうと口を開くが、そのままさらに笑ってしまう。言いたいことが顔の中で絡まってしまったように、微笑みと困り顔をまぜこぜにした。
「もー。なんだよー」
「すみません。ええと、難しいんですけど」
 ペシフィロは自分の中にあるものをほどいては吐き出すように、ひとつずつ口にする。
「主人側の人間が、そういう風に彼を大切にするのは、あまり良くないことなんです。何よりも使影本人が嫌がる。特に彼は優しくされることを嫌いますから、あなたがそうして悩んでいることは彼にとって苦痛かもしれない」
 ピィスは叱られた気分になって哀しげに父を見上げた。
 ペシフィロは、口元をゆるめて言う。
「でも、嬉しいんです。あなたが彼を思いやれる子に育ったことが。……いけませんね」
 波立つそこを手で隠しても、楽しげな雰囲気は隠しきれない。彼の感情表現はいつだってわかりやすいのだ。大人気ない表情を見てピィスは小さく苦笑した。そのまま、嬉しくなって素直に笑った。体の中に貼りついていた粘り気のある感情は、いつの間にかどこかに消えて胸が軽くなっている。問題が解決したわけでもないのにいやに明るい気持ちになった。
「だめだなあ。こんなんじゃ」
「すみません」
 自虐の台詞を非難と取って、ペシフィロが謝罪する。弁明よりも早く立ち上がり、彼はかごを腕に抱えた。
「でもね、駄目な父親なりにできることはあるんですよ」
 野菜の数を指先で確認しながら言う。不思議がるピィスに向かってペシフィロはにこりと笑った。
「すいかを食べましょうか」




「ななー」
 物陰にぽつりと滲む黒い染み。声をかけると、どろりとした塊は重たげに頭を上げた。どちらにしろ布と術に隠されてどこが顔かはわからないがそんなことには構いもせずに、ピィスは抱えていた巨大なすいかを彼に向けて放り投げる。
 起こされた黒い頭がぎょっと揺れたような気がした。
「取って!」
 命令すると染みから黒い腕が伸びて、地面に落ちる寸前ですいかは命を取りとめる。だがあまりにも重いために重心を誤って、黒い男は市販品より二割は大きいすいかを抱きしめて転がった。ピィスは思わず吹きだして、笑いに声を揺らして言う。
「それさ、取れたてだから冷えてないんだ。川で冷やしてきてくれよ」
 慌てて取り繕う影に向かって頼み込む。正式な主人ではないために、ピィスには絶対的な権限がない。断られてしまう前に早口で言い立てる。
「大きいからちょうど縛れる縄がないんだって。流されたら大変だから、お前、川の中でそれ持っててくれないかなあ」
 反抗的な視線を感じてしまうのはただの思い過ごしだろうか。目視の限り、ななは大人しくすいかを抱えて座っている。だが隠された表情は愉快なものであるはずがない。ピィスはなんとか彼を宥めようと媚びに満ちた笑みを浮かべた。
「よく熟れてるから絶対甘くておいしいよ。オレ、早く食べたいなー」
 ね。と甘く念を押すと黒い滲みはぼわりと膨らむ。すいかがそれについていく。ななはピィスの隣を抜けると素早くその場を去っていった。行く先は近くを流れる川のはずだ。結構な急流なので、すいかなどを冷やすには向いていないが誰かが中で浸かりながら保持していてくれるなら、きっとよく冷えるだろう。その光景を想像するとピィスはつい笑ってしまう。ななの移動を知った父も、きっと同じ顔をしているはずだ。珍しくも父親に尊敬を覚えながら、ピィスは帽子を被りなおす。収穫が終わる頃にはよく冷えた甘いすいかが来るだろう。それをどうやってななにも食べさせようかと考えながら、菜園へと足を向けた。


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