耳がいい、とよく誉められた。 それは父や弟にしても同じことで、魔力を判別するのに長けた血筋なのだと教えられた。 父は魂の発する声を聞き分けることができる。弟は魔力の変化を音として聴くことができる。 彼女が彼らと違うのは、耳だけではなく全身で聞き分けができるところだった。 その肌で。舌で。眼で。指で。彼女は石の声を聴く。 だがそれでも響きわたる彼らの言葉に応える術は知らなかった。 そんなものの必要性など知りもせずに生きてきた。 目が覚めたのは朝が来たからではなく眠りつかれたせいだった。ジーナは別人のもののように重くなった身体を仰向けにする。天井は見慣れた自宅の物ではなく、家出して長らく過ごした下宿の物とも違っていた。ビジスの私室。ビジスのベッド。ジーナは淡い煤色の布団を握り、顔半分をほわりと埋める。ビジスの匂い。それは残り香というにはあまりにもかすかで、早くも染みた自分のにおいと判別がつかなかった。 目頭に涙が滲む。頭を働かせるのが嫌でもう一度眠ろうかと思う。だが既に丸一日を寝潰してしまったせいで、目を閉じても頭は思考を動かし始める。薄い掛け布団すら重苦しく感じられて、乱暴に蹴り上げた。苛立ちの音を立ててくすんだ色の布団が剥がれる。さして乱れてもいないシーツの上に丸まるのは、彼女の想い人ではなく、そもそも生き物ですらない大きなガラスの球体だった。 「……石っころー。起きるぞー」 抱え込めばすっぽりと腕の中に収まるほどの丸。透明な外殻は小窓から差し込む夕日を浴びて、てらてらと赤らんでいる。空洞となった内部にはいくつもの光の粒がくるくると絡んでは離れ、絡んでは離れ、と遊ぶように舞っていた。楽しげなそれを見て、ジーナは思わず頬をゆるめる。だがすぐに我に返り、馬鹿らしく息をついた。 お前が育てろ、とだけ言って彼は行方をくらました。 残されたのは、未熟ないのちを詰められた透明なガラスの球体。 そしていまだ路頭に迷う、無気力な娘だけ。 「お前みたいなのが人間になるなんてなぁ」 起きた時間に食すのが朝食と決めてから何日が経っただろう。それは同時にこの魔石との生活期間を教えてくれるが、現実を見ようとしない彼女の脳は計算を拒絶した。何も感じない。何も考えない。繰り返し頭の中で呟いて、買い置きのパンをかじる。調理をして新しく品目を加える気力はなかった。何もせずに食べられる物はこれしかないので、彼女は三食レーズン入りの湿ったパンを口にする。 視界が薄暗いのは陽が暮れているせいだろうか。それとも、重苦しい心境がそう見せているだけなのか。ジーナはもう何日も伸ばしていない背筋をさらに曲げ、食卓に頬をつけた。開ききらない瞳の先には放置された丸い石。白い光がちかちかと不安そうに揺れている。 「ほら」 口に入れかけたパンのかけらをガラスの上に押しつけた。無数の光はぎょっとしたように収縮し、まばゆいひとつのかたまりとなる。それは上下に揺れながら、ガラス越しにそっと確かめるかのごとく、パンに顔を近づけた。白い光のかたまりはパンに向かって突進し、ガラスの内側にぶつかって勢いよく四散する。ジーナは声をもらして笑った。 「ばぁか」 光の粒は困惑してしまったようにくるくると回りながらパンの傍を巡り始める。ジーナはこれみよがしに押しつけていたパンを食べ、わざとらしい音を立てて咀嚼して飲み込んだ。光の動きがぴたりと止まる。ひゅん、と音を立てて飛び跳ねる。 「そう。こうやって食べるんだ。人間はな」 いたずらめいた笑みを浮かべて指先をガラスに当てる。光の粒がそちらに集まる。 「お前はまだ食べられないよ。悔しかったら大きくなれ」 音を立てて爪で弾くと、命のかけらは驚いたのか勢いよく飛び散った。 退屈な時は歌を歌った。光は共にまたたいた。 気が向けば昔話をした。光は声に合わせて揺れた。 つまらなかった毎日は次第に楽しくなってきて、彼女はガラスの球を連れて山に登り海に行き、へたくそな歌を歌った。光はまるで楽しむように共鳴してまたたいた。 「……聞いてますか?」 心配そうな顔しかできなくなってしまったペシフィロが、相も変わらず困ったような哀しそうな目をして言う。ジーナは初めての客人に接待することもなく、ただソファの上に丸まってガラスの球を抱きしめた。 「ジーナ。だからですね、」 「聞こえてるけど」 続きかけた説教を呟きで打ち消した。ジーナは彼を見ずに言う。 「でも、どうでもいい」 ペシフィロはため息をついたようだった。多分、いつもと同じ顔をしている。ジーナがサフィギシルの足跡を追う旅に出てからずっと、ペシフィロは、彼女にどう触れるべきなのか戸惑うような顔をしている。たしか大暴れしてふてくされたあとの母親も似たような態度だったと思い出し、ペシフィロが優しくもどこか情けなく思えてきて口元だけでかすかに笑った。 「触るか? これ」 抱いていたガラスの球を差し向けるとびくりとされる。緊張していることがわかって申し訳ない気持ちになる。ジーナはソファの背にもたれかかり、両手で球を差し出した。 「……大丈夫なんですか」 「別に死ぬことはない」 伸ばしかけたペシフィロの手が熱に触れたように跳ねる。ああ、と取り繕う言葉をもらした彼の顔はあからさまに失敗を悔いていた。そんなに気にしないでいいのに。ジーナは彼を見て想う。そんなにも敏感に気遣われるほど落ち込んでいるつもりはないのに。 こわばったペシフィロの手がガラスに触れる。光の粒が、驚いて飛び上がる。 ジーナはけらけらと笑いながら彼の手からガラスを奪った。 「だめだ、恐がってる。知らない人は嫌いなのか?」 笑う口で尋ねると、白い光はうなずくようにくるりくるりと上下に回る。 そうかと言って表面を撫でてやると、慌てていた光たちはゆっくりと纏まった。 ふと、ペシフィロが変な顔をしていることに気付く。不思議に思って問いかける。 「どうした?」 「……それ、何か喋っているんですか?」 見返した顔がきょとんと呆けてしまうのは仕方がないことだろうか。ジーナはガラスを抱きしめる。 「そうだ。まあ、慣れないうちは分かりづらいかもしれないな。この光がわあわあと騒いでいたら怯えているという合図。大人しくひとつに纏まっている時は……」 「あのっ。……さっきから、光とか言ってますが」 駆け込むような彼の声は戸惑いに揺れていた。ペシフィロはひどく気まずい調子で言う。 「その中に何かあるんですか。私には、ただの透明なガラスにしか見えないんですが」 ああ、なるほど。 それは心配されるはずだ、と妙にするりと納得した。 その小さな家の中には、 彼が消えて、 彼も消えて、 彼女ひとりが残るだけ。 「石っころー」 眠たい目で呼びかけると白い光はぴくりと跳ねる。くるりとした回転がこちらを向いたように思えて、ジーナは正面からいのちのかけらと向かい合う気分になる。それでもだらりととろける口で、やる気なく問いかけた。 「お前、いるよなー?」 白い光はその場で跳ねる。一所に集結したそれはすでに無数の粒などではなく、手のひらにあまるほどのやわらかい光の球。鞠にも似たそれは上下に弾んだ。ぼんやりとした輪郭がわんわんと目にまぶしい。ジーナは目を細めて言う。 「お前は、いるよなー?」 光の玉はさらに弾んだ。ジーナは酒の瓶を掴み、葡萄酒をガラスに注ぐ。 赤い水を浴びる中で、白い光がうろたえて回転しているのが見えた。 笑う。 さらに笑う。 もっと笑う。 ジーナは呼吸が難しいほど力いっぱい笑い転げた。 「お前も酔っぱらえばいい!」 残りの酒を飲みほして、けたけたと激しく笑う。酒にまみれたガラスの球を力いっぱいなでくった。 「楽しいぞー。なあ酔おう。一緒に呑もう。そうすれば楽になる」 笑みが止む。なでる手が静かになる。ジーナは球の中を見つめ、ゆっくりとガラスをなでた。 「何も考えなくて済む。なあ、このまま、一緒に」 無言の目が向かう先でガラスの球は血を浴びたようにてらてらと光を揺らしている。 舌を出す。酒に濡れたガラスを舐める。くちづけ。音を立てて吸う。前髪を掻き分けるように指の腹で酒を退けて、また、くちびるをそっと当てる。 口の中に広がるのは呑み飽きた酒の味。 そして確かに舌に感じる爽やかな「それ」の味。 やわらかなくちびるがぴりぴりと痺れるのは「それ」が怒っているせいだ。 なぜこんなことをするのかと、問いかけているためだ。 ジーナは笑った。声を上げて、腹を抱えて、苦しいほどに笑い転げた。 「ごめん」 あきらかに拗ねてしまった光の背に向けて言う。 「ごめんね。お前」 まだ名もない光の球はゆっくりと彼女を向いた。 楽しいときは歌をうたった。光は共にまたたいた。 ひまさえあれば話しかけた。光は応えるように弾んだ。 酒を呑んではそれに浴びせた。川に行っては泳がせた。屋根の上で夕日を見ては、肌とガラスを重ね合わせた。 そのうちに光は力となって魂に変化する。 そうしてふたりはしばしの間、重ねた肌を離してしまう。 「おーい石っころー。呑んでるかー」 「……誰が石だ」 完全に酔っぱらいとなったジーナにぺたぺたと頭を叩かれ、サフィギシルは口を歪める。恒例となった月に一度の呑み会は、毎度のごとくに全員が酔いつぶれる結果となった。いつもならば最後まで残っているペシフィロは、今日も仕事で帰りが遅い。そのため自然とサフィギシルが全員の世話を焼くはめになる。他の皆は眠った。食卓に残るのは、酒に酔えないサフィギシルと泥酔したジーナだけ。 「はくじょーだよなー。あんなにかわいがってやったのに、ぜーんぶ忘れちゃうなんてー」 「しょうがないだろ、人間で言えば胎児どころか精子以前なんだから。覚えてたら恐ろしいよ」 食卓上を片付ける彼の首に腕を回し、ジーナはだらりともたれかかった。 「かわいくないなー。もー、お前は呑め。いっぱい呑めー」 「はいはい呑んでますよ。何、これ? 次はこれ呑むの?」 もはや相手をすることに慣れてしまったサフィギシルは、ジーナの出した瓶を受け取る。請われるがままに飲み込んで、不可解そうに眉を寄せた。 「どうしたー?」 「……なんかこれ、呑んだことあるような気がする。おかしいな、始めて見る瓶なのに……」 サフィギシルは怪訝な顔で瓶のラベルを確認するが、どうしても分からないのかしきりに首をかしげている。赤い酒。高級とは言えない葡萄酒。ジーナはにやりと笑みを浮かべた。 「えーいっ」 そしてかけ声と共にその酒を彼の頭にぶちまける。サフィギシルはたまらず叫んだ。 「えいじゃねー! 染まる染まる髪の毛染まる! って撫でるなー!」 ぎゃあぎゃあと喚きながらジーナの手を振り払うが、彼女は今度は彼の身体に飛びついて、抱きついて、全身をなではじめる。サフィギシルはさらに叫ぶがジーナはひたすら笑うだけ。手におえない酔っ払いはけたけたと笑いながらかつての光をなでくった。再びの重なりを喜びながら、彼の身体を抱きしめた。 |