番外編目次 / 本編目次


 気がつけばそこら中で哀しげな音がしている。ペシフィロは眠りかけていた頭を起こし、暗い部屋を見回した。どうやらかねてから懸念していた嵐がやってきたらしい。ぴい、ひゅう、とか細い音が天井から壁の隅から騒がしく聞こえては消えている。
 何十年と歳を重ねた石壁に触れ、わずかな隙間に指を当てると風の音はひとつ止んだ。だがその代わりにどこからかまた新しい音が立つ。粗末な小屋は冷たい風に晒されてまるで楽器のようだった。
「スーヴァ。いる?」
 凍える体に破れた毛布を巻きつけながら呼びかける。部屋の隅、夜よりもまだ暗い漆黒の塊がわずかに揺らいだ。名を持たず、生年月日の略で呼ばれる若い使影は被っていた布を上げて、目の端をペシフィロに向ける。人の顔を直視することはなく、ただ同居人の座る藁の寝床の角を見つめた。
「何か」
「そこ、寒いだろう。風邪を引くよ」
「慣れております」
 だが告げる声は震えていた。場の気温を下げるように、冷ややかな風の音。ペシフィロは困った様子であちこちに空く穴を見上げ、またもや影に隠れていくスーヴァを見る。今のペシフィロは怪我を負っているとはいえ迷惑な居候だ。瀕死の体で戦場から転がり込んで約半年。始めは意識もなかったが、今ではもう歩けるほどに回復している。これも治療を続けてくれた彼のおかげだというのに、相手に風邪を引かせるわけにはいかないだろう。
「震えてるじゃないか。吹雪くかもしれないし、とにかくこれからもっと寒くなる。ここは元は君の部屋なんだから、そんな隅にいちゃいけない。僕がそっちに行くよ」
「貴方の体はまだ癒えておりません。我々は粗末な身でございます。主が迎えた客人を寒風に晒すわけには……」
「僕の故郷じゃ医者先生は親兄弟の次に大事にしろって言われてるんだ。ほら、代わるのが嫌なら一緒に寝よう。おいで」
 古い臭いの染みついた掛け布を上げて手を招く。狭い上に安定の悪い寝場所は寝台と呼べるものではなく、単に、木の箱を積み上げた上に藁を敷いてあるだけだ。それでもまだ風の吹き込む石床よりは暖かい。だがスーヴァは全身を隠す影ごと拒否するように後ろへ退いた。
「……ええと。人と一緒に眠るのは、嫌、かな?」
 ペシフィロは招いていた手で誤魔化すように頭を掻く。暗がりに潜むスーヴァは気持ち悪そうな顔をしているはずだ。彼はペシフィロが近寄ろうとするだけでも表情を曇らせる。目を合わすことも嫌がるのだ。彼はいつも極端に人との関わりあいを避けている。
 この半年で耳に掛かるほどに伸びてしまった髪をつまみ、ペシフィロは目を泳がせた。あまりじろじろと見つめると部屋を出てしまうので、深追いは禁物だ。ペシフィロは数えるほどしか見たことのないスーヴァの顔を頭に浮かべ、そちらに向かって話しかける。まだ十五のはずなのに、三十にも、十にも見える年頃の知れない顔。想像の中でも感情を見せることはなく、目も口もただ虚ろに並ぶだけ。
「……田舎にいる弟も君と同じ歳なんだ」
 四年前に見たきりの弟の顔を思い出す。普段からよく泣き、よく笑う賑やかな子ども。騒がしかった彼のことを考えて、懐かしい家族たちの声や仕草が蘇る。
「我侭な子で、兄弟の一番下で。体が丈夫じゃないからよく風邪を引くんだよ。だから寒い夜は家族みんなでその子を真ん中に集めて、みんなで暖めながら眠るんだ。どんなに隙間風が寒い時でも、兄は弟を庇わなくちゃいけない。僕はずっとそういう風に教えられて来たんだよ。だから、君がそこで寒い思いをしていると、どうしても気になって眠れないんだ。わかる? 言葉はちゃんと伝わってる?」
 長々と喋った後で気になって尋ねると、スーヴァは小声で肯定した。鳴る風よりもかすかな気配。ペシフィロはそちらに向けてやわらかく申し出る。
「ここに来るのが嫌ならせめて毛布を使ってくれないか。僕はこれで十分だから」
 ぼろ布と化した汚い毛布を抜き取って、彼に投げた。特に狙ったわけではないのに頭に被ってしまったらしい。スーヴァは引きつるように毛布を剥ぎ取り、つまんだ手を長く伸ばした。動揺が過ぎたのか顔を覆う布は外れ、白い顔と黒髪を久方ぶりに見せている。ペシフィロの視線に気づいて慌てて隠そうとするが、被ったのは黒い布ではなく毛布だった。先ほど以上に慌てた様子でもう一度毛布を剥がし、出来るだけ直接に触れないよう服越しに爪で持つ。
 そこまで拒絶されるのか、と知らずうちに情けない顔をすると、スーヴァは取り繕うように言った。
「……暖かい物は、いけません」
 顔つきは戸惑いに揺れている。スーヴァは珍しくも困惑に言葉を詰まらせながら語った。
「人の熱は精神を乱します。我々はそのような物に触れてはいけない。しきたりなのです。貴方が弟君を守るよう言いつけられてきたのと同じく、我々も、安らぎや喜びを得てはならない決まりなのです」
 痛ましげに弱るペシフィロの顔を見て、だから、と口早に継ぎ足す。
「外に出て、これを、冷やしてきても良いでしょうか。……その後で、有り難く頂きます」
 走り去るような喋りが聞き取れなくて、ペシフィロは間抜けな顔で聞き返す。
「え?」
「こ、これを、外で冷やして……」
 そこでようやく言葉の意味を理解して、ああ、と了承した。スーヴァは居たたまれないのかしきりに顔をあちこちに向けている。冷めていく毛布をつまむ腕は遠目にもわかるほどに震えていた。ぶら下がる布の端が落ち着きなく揺れている。しきりに鳴る風の合間に、彼が鳴らす歯の音が確かに聞こえたような気がした。
「でも、外はもう随分寒いよ。そんなことをしなくても、ここで十分なんじゃ」
「試練ですから」
 言葉づかいだけは冷静な大人のものだが、ほのかに浮かぶ横顔は少年のものだった。珍しくてまじまじと見つめるペシフィロから逃れるように、スーヴァは素早く礼をして小屋の外に出ようとする。だが調子が狂ったのか扉の端に顔をぶつけてうずくまった。ペシフィロは助けようと手を伸ばすが、さらにそれを避けるがごとくにスーヴァは地面を転がって嵐の中へと去っていく。彼らしくもなく乱暴に閉ざされた扉が壊れそうな音を立てた。
 ペシフィロは呆気に取られてただ扉を見つめていたが、なんだかやけに可笑しくなってくすくすと笑い始めた。出て行く前にちらりと見えた彼の顔を思い出す。いつもならば不健康に青ざめた頬も、耳も、火のように赤く映えていた。
 まだ完全ではない体を藁の寝床に沈め、ペシフィロは目を閉じる。スーヴァはきっとこちらが寝付くまで中に入らないだろう。戻ってきた彼の顔を見ないように、何も気づかなかったふりをして大人しく眠ることにする。鳴る風の音は止まない。か細く響くその音色が、どこか愉快に聞こえはじめた。





「なな。なな、いますか?」
 ペシフィロは梯子を伝って呼びかけた。屋根裏部屋に顔を出すと、ほこりと湿気の臭いがする。抱えていた塊を屋根裏の床に置いて、中に上がった。夜の闇に沈むのは雑多な物や家具の類。物置と化した室内を見回すが、なながどこにいるのかはわからなかった。ペシフィロは仕方がなく適当な物陰に声をかける。
「今日は随分と寒くなるようですから、湯たんぽを持ってきました」
 袋に包んだ該当の物を掲げて、また床に戻す。反応は返らないがペシフィロは構わず続ける。
「ですが湯は抜いてあります」
 部屋の隅で、何かがかさりと音を立てた。
「水はありません。しばらく歩けば川があります。そこで汲んで、火を焚いて自分で沸かすというのはどうでしょう」
 物音がした場所を見つめるが暗闇は動かない。ペシフィロは一通り部屋の中を見渡して、正面奥に飾られた恋人の肖像に一礼すると、何も言わず部屋を去った。一階の居間まで下りるとピィスが寒そうに震えている。もう眠る時間だが、冷え込みの激しさにここまで下りてきたのだろう。すぐに湯を入れますね、と告げながら沸かしておいた湯を取りに行く。湯たんぽの中に詰めて、火傷をしないよう二重の袋に包んだ上でピィスに渡した。
「ありがと。ほんっと寒いなー」
「毛布を増やしましょうか。それとも今日は一緒に寝ますか?」
「やだよこの歳にもなって」
 あっけなく切り捨てられて落ち込みが顔に出る。ペシフィロは情けなく呟いた。
「うちの故郷では二十を過ぎても兄弟みんなで雑魚寝していたんですけどねえ」
「えー。オレ物心ついた時にはもう一人で寝かされてたぞ」
 これもまた国民性の違いだろうか、と異国で育てられた我が子を見ると、家の壁がかすかに揺らぐ気配がした。揃って天井を見て、親子で顔を見合わせる。すぐ上にあるのは二階であり屋根裏ではないのだが、これが二人の恒例だった。どちらともなくしたり顔で笑うのも。
「今日は早いな。やっぱかなり寒いからなー」
「試練を増やしておきましたから。湯は台所で沸かすのでは簡単すぎるようですよ」
 彼に課した試練を告げるとピィスは呆れた顔で笑う。
「素直にもらっとけばいいのにさー。難しい性質だよな」
「それが使影というものですよ」
 冷え込む部屋で眠る彼に、布団や毛布を与えるのにどれだけ時間がかかっただろう。ただ渡すだけでは受け取ろうとしないので、その度にペシフィロはななにとっての“試練”を付加するはめになる。毛布は庭の奥に放置して風の中を取りに行かせる。食事は屋根の端に引っかけてようやく口にしてもらえる。今も彼は中身のない湯たんぽを人の熱ごと夜気に冷やし、水を探し、火を起こしているのだろう。帰ってきた彼と目をあわせてはいけない。どんな顔をしているのか、決して見ようとしてはいけない。
「難しいよな、影と一緒に暮らすのって」
「ええ。本当に」
 ペシフィロは彼の部屋に住まわせてもらっていた時のことを思い出す。結局、あの頃と何ひとつ変わっていない。十年以上の時を経ても、互いの立場が変わっても、繰り広げるのはいつも同じ。
「いつか、ななもこっちで過ごせるようになったらいいな。隠れてないで普通に話してさ、飯だって一緒に食べて。その時はオレみんなで一緒に寝ていいよ。二十越えてても、もっとおばさんになってても、そん時は親父もななも同じ布団でみんなで寝よう」
 同意を求めるピィスの顔に、ペシフィロはすぐに応えられない。簡単に行くはずがないとつい口にしそうになる。何しろ二年間同じ部屋で暮らしたのに、結局は最後まで床で眠り続けた男だ。場所を代わると申し出ても彼は決して応じなかった。
「……そうですね」
 だが希望に笑うピィスを見てペシフィロもまた笑みを浮かべた。
 簡単にはいかないかもしれないけれど、重ねていけば、いつか、きっと。
「じゃあその時が来るまで長生きしなくちゃいけませんね」
「なんだよー。どんだけ先の話だよ」
 あながち冗談でもないのだがピィスは可笑しそうに笑う。ペシフィロもつられるように笑いながら湯たんぽの袋を抱え、空いた手でピィスの手のひらを取る。小さなそれは恥ずかしげに笑いながらそっと握り返してきた。ペシフィロは頬をゆるめて歩きだす。伝わる温度は心を乱してしまうほどにやわらかい。
 ペシフィロは人の熱を伝えるそれを、今は彼の代わりに掴んだ。いつか彼もこの熱を受け入れることができるようにと願いながら、握る手に力を込めた。


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