番外編目次 / 本編目次


 額縁の中の母親はいつも気だるげに遠くを見ていて、心の中で呼びかけても決して答えることはない。それでもピィスは壁に掛けられた肖像画を見るたびに、おかあさん、と口を動かす。物置と化した屋根裏部屋は昼間でも薄暗い。上窓から兆しのように差し込む光が、かすかな埃を浮かび上がらせている。母の絵に陽は当たらない。椅子に腰掛けた彼女の姿は、常に影の中にある。
 もう随分と長い間頼み続けているというのに、ペシフィロはこの絵を階下に持ち出すことを許してはくれなかった。母の絵は何年も光を浴びず、人の足も向かわないこの部屋に静かに飾られ続けている。影の中に沈めているのは劣化を防ぐためだと言うが、嘘をつくのが下手な父は、理由を口にするたびに表情を硬くする。そのせいで口論になったことはもはや数え切れないほどだった。
 だから、ピィスはこの絵を見るたびに悔しげに眉を寄せる。母の絵は高い位置に掛けられていて常に見上げる必要がある。顎を壁に向けて眺めていると、絵の中の母親はひどく遠い人に見えた。いつも鏡で見ている顔と同じかたちをしているのに、額の中に在るそれは全く別のものだ。
 茫洋とした鳶色の目は違う世界に向けられている。彼女が何を見ているのか、ピィスには分からない。僅かに開いた唇が生気のない表情に隙を作る。膝の上に置かれた手は行儀よくまとめられて、表情の虚ろさをなんとか取り繕おうとしているようだ。ゆるやかに落ちる髪は沈みゆく陽の色をしていて、刺繍のない襟の上で力なく垂れては肩を伝い、胸へと落ち、溶けるように消えている。行くほどに色を失う母親の髪を見るたび、ピィスは自分の髪がまだ長かったころのことを思い出そうとするが、毛先の色は記憶にない。その代わりに髪を梳いてくれた指の感触を思い出して、頭に触れる。
「昔はさあ」
 絵の中の母を見上げたまま、暗がりに声をかける。
「朝になったら髪が綺麗に梳かされるのも、三つ編みにしてくれるのも、全部櫛がやってくれてるんだと思ってた」
 言葉はどこにも留まらず部屋の中に消えていくが、ピィスは虚空に語り続けた。
「服も自然に飛んできて勝手に前のを脱がしてくれて、靴下も何もかも体に纏わりつくんだって。だからさ、櫛も服も靴も全部生きてるんだと思ってたよ。庭の中を歩いてたら上のほうに必ず日傘が浮いてるのも、傘は空を飛べるからだと思ってた。というかな、水溜りを渡ろうとしたら体がひゅうって浮くからさ、オレ、小さい頃は自分が飛べると思ってたよ」
 かすかに笑う。幼い頃の無知を恥じる小さな苦笑。そうして笑う瞬間だけ、口元は母を離れて父親と同じになる。
「やけどしそうに熱いスープなんて存在しないと思ってた。湯気がいつも横に向かって流れてるのも、煙ってのはそういうもんなんだろうって。魚に骨があるなんて知らなかったし、食べ終わった食器は全部ふわふわ浮いてどこかに消えるものなんだって信じてた。……お前のことを知るまで、ずっとそう思ってたんだよ」
 ピィスは絵を見ることをやめて、足元の暗がりに話し掛ける。
「なな。ありがとう」
 雑多に置かれた物の影は微動だにしなかった。それでもピィスは笑って続ける。
「今日は育ててくれた人に感謝する日だから。どうせ物はもらえないとか言うんだろうけど、言葉ぐらいは受け取ってくれよ。ずっと世話焼いてくれて、育ててくれて。ありがとう、なな」
 照れくささから髪を掻くと頬がほのかに赤らんだ。そのまま、恥ずかしげに笑ってもう一度母を見上げる。口の動きでありがとうと囁いて、そのままくるりと踵を返した。そうして、早足で部屋を出た。



 逃げるような足音が消えたあとで、部屋の闇は音もなく起き上がる。ななは常に被っている闇色の布を外し、閉じていた目を開いた。光のない黒い瞳がピィスの消えた扉を見つめる。切り込まれたように鋭いまなじりが、小さく揺れた。
 息をつく。埃が散って光の中に舞い上がる。ななは窓から差し込む光を避けて、壁際に膝をついた。黒い袖を捲り上げて従属の証を晒す。黒服に包まれた全身も闇色の刺青も、暗がりの中に紛れて青白い腕だけが床の上に倒されている。彼は額を床に付け、ゆっくりと、顔を上げた。
「お嬢様」
 呟いて、かつての主の絵を見つめる。遠く、高く、決してこちらを見ることのない高貴な女性。光の中でその顔を見つめることなど許されない。物心ついた時から闇に棲み、影となり、一目でいいから間近にと願うことすら畏れ多く傍に仕え続けてきた。暗がりの中であれば彼女を見ることができる。彼方だけを向き続ける動かない彼女であれば。
 ななはいつものように低くから彼女を見上げ、苦しげに目を閉じる。ピィスの声が頭の中を巡り続けて思考を埋める。心臓がざわめいて、むずがゆく頬が揺れた。
 ななは戸惑いの目で絵の中の彼女を見上げる。
 人であることを禁じられた彼らは感情を持つことができない。
 今、ここで、どんな顔をするべきなのかも分からない。
 彼は口を動かすが出すべき音が見当たらず、閉じた。
 額を床に摩り付けて、また、深く礼をした。


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