番外編目次 / 本編目次


 空は快晴、陸は無風。穏やかな春の日差しが入り口広場を照らしている。
 細やかな水を吹き上げる噴水の中央には馬に乗った男の像。カリアラはぽかんと口を開いたまま、身じろぎもせずにそれを見ていた。
「すごいな、水が出てるな。これ誰だ?」
 傍らに立つ本日の相方に尋ねても反応は返ってこない。カリアラは像を見上げることをやめて、改めて隣にいるサフィギシルに目を向けた。彼はいつも以上に不機嫌な顔をして大きな鞄を提げている。角がいかにも硬そうなそれは、体力のない彼が持つにはいささか重すぎるようだ。すでに幾度となく煉瓦敷きの足元に下ろされている。今もまた重量を伝える音を立てて地に落とされた。
「言ってもいいのか?」
 サフィギシルはカリアラを睨みつける。
「ここで言っていいことなのか? いいんだな発言するぞ。ナポレオンだ!」
「そうか」
 だが発言が世界観を飛び越えたことにも気づかずに、カリアラは真面目な顔で頷くのみ。サフィギシルは鞄の中から一通の手紙を取り出すと、苛立たしげに読みあげた。
「『本日は遠方よりお越しいただきまして誠にありがとうございます。お二方にはコンビ投票一位記念として当地《現代日本》の平行世界、《閉館したはずなのに何故か作者の記憶によって中途半端に再現されてしまった呉ポートピアランド》にて一日を楽しんで頂きます』……って作者とか言ってるし! なんだよこのふざけた話! どこだよ呉って!」

 それは肉じゃが発生の地として京都舞鶴と争いや同盟を繰り返す街。
 海上自衛隊を抱えるために、街中でごく普通に白い制服の隊員さんを見かける街……。

「地の文がなんか喋ったー!」
 サフィギシルは虚空を見つめて青ざめるが、カリアラは動じもせずに彼の荷物を持ち上げる。重たそうに体を揺らしてひょこひょこと歩き始めた。
「どうせおふざけ話だから気楽に遊んでこいって言ってたぞ。みんなが」
「そんな次元で完了できる話なのか!? ここはスペインをモデルにした地中海風のテーマパークで、絶叫マシーンや観覧車、3D映像を体感できるライドを乗せた客船などが用意されて……って俺もなんか言わされてるー!」
「すごいな。いっぱいあるんだな。よし、行こう」
「頼むから少しは動揺してくれよ……」
 サフィギシルは相変わらずの魚の様子に肩を落とし、改めて周囲の景色を見回す。明るい色の敷石を歩いていけば、緑色の柵を持つ入場ゲートが待っている。まだ足を踏み入れていないこの場からでも、近くには急流下りの人工岩、遠くには観覧車を確認することができた。傍には海。ゆるやかに凪ぐ瀬戸内の潮の香りがぬるく肌をくすぐっていく。
 カリアラは薄ぼけた色で広がる海を見て、不満げに眉を寄せた。
「海は水がいっぱいあるのに、なんで塩からいんだろうな」
「……そりゃ海だからだろ」
 元々が淡水の生き物であるためにカリアラは塩気を嫌う。そのため彼はアーレルでも海で泳ぐことはなかった。そもそも木と石と鉄でできた人型細工の体にとって水分は敵なのだ。海が淡水だったとしても、修理をするはめになるサフィギシルがそれを許すはずがない。
 カリアラは遊園地の門に向かってまっすぐに歩いていく。サフィギシルがそれに追いついた。
「ほら、荷物よこせ。自分で持つ」
「大丈夫か? これすごく重いぞ」
「重くてもお前なんかに任せられるか。ったく、さっさと終わらせるぞ」
 言い捨ててもカリアラは気にもせずにそうかと言って頷くだけ。海辺の小さなテーマパークは二人が来るのを待っている。カリアラがポケットから小さな紙を取り出して、何事かを確認した。
「入場券はおれが買えって書いてあるぞ。行ってくる」
「ええ? お前買い物でき……おい、金は!?」
 言い終える前にカリアラは身軽な体で販売口へと走っていった。荷の重いサフィギシルが戸惑う間に窓口に辿り着き、大きな声で元気に注文。
「大人一枚、子ども一枚ください!」
「どっちがどっちだー!!」
 遠くからの叫びにも反応せずに、カリアラは預かっていた千円札を一枚ずつ投げ出した。
「サフィは大人に見えるけど本当はこどもだから、安いほうのやつをください!」
「俺かよ! しかも日本円だし!」
 背後から届く抗議にも構わずに、カリアラは表情に気合を込めて真剣に券を受け取る。穴が開くほどじっと見つめて二枚あるのを確かめると、途端に明るい笑顔になった。
「サフィー。買えたぞー」
 カリアラははじめてのおつかいに大成功した子どもの顔で、嬉しそうに券を振る。サフィギシルはどうしてこいつに子ども扱いされなきゃいけないんだ、とでも言いたそうに彼を眺めた。
「おれ、字もだいぶ読めるようになったぞ。みんなに言われたこともちゃんとできた!」
「はいはいそうですか」
 と言った後で、サフィギシルは不審気に眉を寄せる。
「……みんなに言われたこと?」
「うん。シラと、ピィスと、ジーナだ。いろいろ頼まれたんだ。それでな、ピィスがサフィのぶんは子ども用のを買ってくれって言ってたんだ。ちゃんと買えたぞ。すごいか? ……どうしたんだ? 痛いのか?」
「……今ちょっと話しかけるな。色々葛藤してるから」
「そうか。あっ、すごいぞ、なんか水がいっぱいある!!」
「少しは気ィ遣ってくれよー! 置いて行くなよー!」
 泣きたい調子で叫んでみても、カリアラは背を向けて一心に駆けていく。サフィギシルは投げ出された券を拾い、従業員に手渡すと急いで入場ゲートを抜けた。目に飛び込んだのは整備された平らな広場と数々の乗り物たち。人工の岩場からは丸太を模した乗り物が水しぶきを上げて落ち、どこか楽しげな悲鳴が水音にかき消される。また一方ではそびえ立つ岩の中からコースターが飛び出して、轟音と共に絶叫が横切った。サフィギシルは恐ろしげなそれらを見てみるみると青ざめる。遊園地というものを初めて目にした彼にとって、危なげな乗り物たちはすべて狂気の沙汰に見えた。
「…………」
 帰りたくとも夜になるまで戻る術は用意されない。彼は竦む足を抱えて呆然と園内を見回した。すぐ目の前には浅い池が広がっている。整備された縁を持つそれは、池というより人工のプールに近いだろうか。目を凝らせば噴水の管らしきものや、今はまだ動いていない照明器具が水中に設置されているのが見えた。そしてその縁の前に立つカリアラも。
 彼は周囲の環境や絶叫など気にもせずに、透明な水面を見つめてはそわそわと体を揺らす。
「……入るなよ?」
 慎重に声をかけると、カリアラはびくりとして首を振った。
「はっ、入らないぞ!? 入ったらいけないよな、壊れるから。わかってる。入らないぞ!?」
「そうかそうかそれならよろしい。じゃあその踏み出しかけた右足を元に戻してもらおうか」
 指さすと、カリアラはぎくりとしてわざとらしく目を逸らす。
「み、右ってどっちかわかんねえ」
「お前はいつからそんな小癪なことを言うようになったんだ? ああ?」
「ご、ごめんなさいもうしません」
 思いきり頭を叩くと、水を愛する元ピラニアはしょんぼりとうなだれた。不機嫌に髪を掻くサフィギシルに言い返す。
「お前今ジーナに似てたぞ」
 サフィギシルは動かしていた手を止めて、気まずそうに口を歪めた。
「そんなのどうでもいいだろ。ほら、行くぞ。ええと……最初は」
 言いかけたところで唸るような音を立ててコースターが横切った。客たちの悲鳴もまた同じように過ぎていく。カリアラがびくりとして見開いた目をそちらに向けた。サフィギシルは血の気が引くのを感じながら、なんとかしてコースターを避けようと逆方向に目を向ける。逃げる視線が見つけたのは、園内の隅にたたずむ小ぢんまりとしたコーヒーカップ。
「…………」
 サフィギシルは穏やかに回転するコーヒーカップを遠く見つめた。
 カリアラも、彼に合わせてそちらを眺めた。

          ※ ※ ※

「大変だ! おれたち小さくなってるぞ!」
「どこからどう見てもカップがでかいだけだろ……」
 定番の乗り物であるコーヒーカップは、辺境の地のごとくに人気がない。カリアラは丸くした目で巨大なカップを見回した。だが、入り口に従業員がいることに気づいて元気良く声を張り上げる。
「大人一枚、子ども一枚ください!」
「すみません聞き流してください。はい乗り物券」
 サフィギシルは彼の動きを手で制し、買っておいたチケットを手渡した。カリアラは並ぶカップを隅々まで観察しながら感嘆の息をついている。そんな彼の襟を掴み、サフィギシルはすぐ手前のカップの中に自分共々引きずり込んだ。
「なんだ、これ座れるのか。なんか丸いな」
 きょときょとと観察していたカリアラの目が、突然ハッと見開いた。
「もしかして上からお茶が落ちてくるのか!? だめだ、熱いぞ!」
「それはどんな拷問器具だ。ほら、動くぞ」
 慣れた調子で流しながら、サフィギシルはカップの縁にもたれかかる。さすがに大人が二人入るには少々広さが足りないようだ。狭苦しさから逃れるように首を伸ばすと、ささやかな機械音を立ててカップたちが動き始めた。
 びくりと固まるカリアラを見て笑う。そわそわと挙動不審に動く彼に、サフィギシルは中央に据えられた円盤を指し示した。回してみろと教えてみる。カリアラは怯えながらも慎重に円盤を動かした。
「ああっ!? なんか回ってるぞ!」
「そうだ。これがコーヒーカップの特徴だ」
 意味もなく偉そうに宣言すると、カリアラは感動の顔でサフィギシルを見る。
「すごいな、どんどん回るぞ!」
「そうだ、回せば回すほどどんどん速く……って」
 気がついた時にはもう遅い。カリアラは嬉しそうに円盤を動かし続ける。当然カップの回転速度も比例して上がっていく。サフィギシルは周囲のものの何倍も回転しているカップの縁にしがみついた。
「ば、馬鹿! 回しすぎだ!」
「そうか? まだまだ回るぞ。おおっ、すごいなこれ」
 カリアラは自分の手と円盤だけを熱く見つめ、さらに強く円を回す。カップ自体の回転もそれに合わせて速くなる。サフィギシルは非難を叫ぶ余裕も消えて、ただ縁にしがみついた。周囲の景色は色を交えて速さの中に消えていく。園内の景色も行き交う客も素早く去っては消えていくのに、カリアラが真剣に回転を強める姿だけはどこまでもついてくる。
 悪夢のような光景から逃れるために目を閉じて、全身で風を感じていると音楽が静かに絶えた。明るい係員のアナウンスが響く中、ゆるやかな音を立てて周囲のカップは動きを止める。だがカリアラたちのものだけは、スピードが収まりきらずに長い間回転していた。
「大丈夫ですか?」
 明らかに笑いを堪える従業員の声色に、顔が赤く染まっていく。だが酔いのために起き上がることはできず、サフィギシルは俯いたまま小刻みに震えていた。今すぐこの場を去りたいがカップから出ることすらできない。恨みがましくカリアラを横目で睨めば、彼は涼しい顔をしてサフィギシルをきょとんと見つめた。
「どうしたんだ? 痛いのか?」
「お前はなんで平気なんだよ……」
 吐きそうになりながらも堪えて歯を食いしばる。視界がまだまだ回転していて目を開けていられない。
「あっ。大丈夫か、泣いてるぞ!」
「泣いてない! 勝手に水が出てきただけだっ」
 サフィギシルは飛び出た涙を拭いながら、悔しげに鼻をすすった。
「遠心力が悪いんだ。回転で水分が飛び出したんだ」
「そうか。えんしんりょくってすごいな」
 明らかに分かっていないカリアラの目に涙などあるはずがない。先に下りてろ、と告げるとカリアラは首をかしげた。
「でもまだぐるぐる回ってるぞ?」
 不思議そうなその顔に、サフィギシルはようやく気づく。
「……ちょっと立ってみろ」
 カリアラは素直に席から立ち上がり、その途端にぐらりと傾いでカップの外に頭から転落した。木組みの体が壊れたような音を立てる。続けざまにふにゃふにゃとした情けのない声がもれる。
「たいへんだー。ぐるぐるしてるぞ、すごくいっぱいまわってるぞー」
「ああ、俺もだよ……」
 お互いの喋る声は酔いのままに揺れていく。彼らはカップの中と外でそれぞれに頭を抱えた。


 物理的にも精神的にも回転はなんとか収まり、サフィギシルはよろけながらもコーヒーカップの外に出る。同じく復活したらしきカリアラが、その腕を軽く引いた。訝し気に見下ろすとカリアラはサフィギシルの頭を撫でる。
「……何のつもりだ」
 髪の毛が逆立つほどに撫でられながら尋ねると、カリアラは真顔で答えた。
「うん。あのな、サフィをなでてやってくれって言われたから。WEB拍手で」
「WEB拍手で!?」
 いろんなものを飛び越えた発言に悲鳴をあげるがカリアラは動じもしない。彼はサフィギシルの頭をぽんぽんと叩きながら続けた。
「あとな、お前告白されてたからちゃんと答えたほうがいいぞ。シンガポールの方に向かって」
「ど、どこの話だー! ここはお便りコーナーか!?」
 世界観どころか小説という媒体すら離れかけた状況に青ざめてみたところで、カリアラは思い出したように叫ぶ。
「あっ。そうだおれ写真とらなきゃいけないんだ!」
「頼むから人の話を聞いてくれよ呆気なく逸らすなよ掘り下げろよ状況を」
 呪詛のごとくに呟きながら肩を揺するが、カリアラは鞄の中からカメラを取り出しサフィギシルに向けて構える。
「サフィ、笑ってくれー」
「笑えるか――ッ!」
 全力で声を上げるとかしゃりと軽い音がした。カリアラは困った顔でカメラを見つめる。
「あー、だめだぞサフィ。笑わないとジーナとシラに喰われるぞ?」
「だから笑え……喰われる!? なんで写真ごときで!」
「おれみんなに頼まれたんだ。サフィがゆうえんちでむじゃきに笑ってるはずかしいひょうじょうをここぞとばかりにげきしゃしてこいって。そういうはずかしいしゃしんを集めてはずかしいサフィギシルしゃしんしゅうを作って遊ぶって……どうしたんだ? まだぐるぐるしてるのか?」
 あくまでも真面目な顔で語られる事情に、サフィギシルは頭を抱えて呟いた。
「なんかもう……小型カメラとか写真集とかうちの世界の技術的にありえないし」

 そう、ハヴリア世界の中では決してありえない状況……すなわちこれはパラレルと言えた。
 しかし、だからこそここぞとばかりに楽しめるのではないだろうか――!

「地の文うるせえ――! 無闇にダッシュ表記飛ばすな――!」
「お前もいっぱい伸ばしてるぞ」

 サフィギシルは深淵の闇にも似た絶望に身を慄かせる。
 まさか、この男に、ツッコミを入れられるとは――!

「だからな、ちゃんと笑ったとこを撮らなきゃ後でみんなが怖いんだ。喰われるぞ」
「さらりと流したー!」
「じゃあ、次はあれに乗るぞ。乗れってみんなに言われたんだ」
 カリアラは平然と大きめの一眼レフを首から提げると、指先を遠くに向けた。つられて目をやるサフィギシルが見つけたのは、華やいだ雰囲気をあたりに振りまく回転木馬。二階に設置されたために、池の奥に浮かんでいるように見える華麗なメリーゴウランドだった。
 サフィギシルはおそるおそるカリアラの顔を見る。冗談を言わない元ピラニアは、真剣な目でカメラの調子を確かめていた。昨今ではあまり見ない、古風なまでの厳ついフォルムが手の中に納まっている。使いこなせるのかどうかは不明だが、彼のやる気に嘘はない。
「……あれに乗るのか? 俺が」
「そうだ。あの馬に乗って笑いながら手を振るところをとらないと、お前はシラに喰われるんだ」
「なんで俺ばっかり……」

 しおれゆく花の如くに垂れた頭には憂愁の鐘が鳴り響いていた。
 何故。どうして、このような惨(むご)いことを――!

「それはもういいから黙れー!」
「じゃああの馬のところに行くぞ。ちゃんと笑わないとだめだぞー」
 相変わらず動揺しないカリアラがサフィギシルの腕を引いて行く。サフィギシルはもはや何をどう抵抗していいのかも分からずに、力なくそれに従った。

            ※ ※ ※

 メリーゴウランドは二階に設置されている。一階の遊具で遊ぶ子供の声が響く中、サフィギシルは憂鬱な足取りで鉄の階段を上る。目の前に広がるのはいかにも俗世を離れたような、華々しい金の装飾。乳白色のつるりとした馬たちが不気味な笑顔で彼を迎えた。茶色の馬や馬車の胴部も無言でその場に整列している。サフィギシルはうろんにそれらを検分するが、馬たちの輝く瞳はひたすら虚を見つめるばかり。白馬の睫毛を撫でながら、外縁に立つカリアラを窺う。彼は見学に並ぶ保護者に混じって真顔でカメラを宙に掲げた。
「その馬は一番大きいから狙いやすいぞ」
「何を狙うつもりだ。ああもう、乗ればいいんだろ乗れば……」
 やさぐれた気持ちで跨ると、カリアラはいやに熱く声をかける。
「よし、噛め! 腹の方が食うところがいっぱいある。暴れたらすぐに逃げろ!」
「お前は平和な夢の世界に一体何を持ち込むつもりだー!」
 完全に勘違いしている元ピラニアはきょとんとして首をかしげる。
「これは食ったり食われたりしないのか? 食って、旨いから笑うんだろ?」
「お前が馬鹿なのは十分分かった。大人しく写真撮れ」
 呆れ返っていると開始の放送があり、音楽が流れだす。うなるような機械音がしたかと思うと、その場に並ぶ馬たちはゆっくりと上下し始めた。サフィギシルの乗った馬も上へ下へと揺れながら前へ前へと進んでいく。カリアラが青い顔でそれを追いかける。
「さ、サフィー! 大変だ、サフィが巣に連れていかれたー!」
 サフィギシルの乗った馬は見学者が立ち入れない箇所をぐるりと廻って元の位置に帰還した。
「戻ってきた!? あっまた連れて行かれる!」
「タイヘンダー、タベラレルー」
 死んだ目でわざとらしく声を上げると、カリアラは今にも卒倒しそうな表情で叫ぶ。
「サフィー! 首だ、首に噛みつくんだー! できないならおれがやる!」
「写真撮れよ」
 サフィギシルは馬の首にもたれた姿勢で素っ気なく手を振った。
「この馬は大人しくて安全だから、お前はとにかく適当に写真撮れ。食われないから」
 言い終わらないうちにカリアラの姿は遠ざかって見えなくなるが、わかった、と返事が届いた。その後で何やら階段を駆け下りる音がして、鉄板の揺れる響きに怪訝に眉を寄せつつも元の位置まで戻ってくるとカリアラの姿がない。何事かと悩む間もなく白い馬は前進し、サフィギシルは飛び込んできた光景に思わず目を疑った。
 目下に広がる池の中にカリアラが立っている。笑顔で、カメラをこちらに向けている。彼は入場してすぐに狙っていた水の中にまんまと入り、これほどなく嬉しそうな顔で手を振っていた。
「サフィー。いちたすいちは、にー」
 お前が言ってどうするよ、と頭の中で呟いて、サフィギシルは馬の首から天へと伸びる金の棒にもたれかかる。怒る以前に脱力してしまうのは不可抗力と言えるだろうか。カリアラが遠ざかる。一周して、またその笑顔が目に映る。
「サフィー。にー。にー」
「……にー……」
 口にするが顔が笑うはずもなかった。カリアラはひたすらに「にー。にー」と繰り返しながらシャッターを押している。一周してまた元に戻ってみても、ひたすら「にー」と笑うだけ。
 フイルムがなくなるんじゃないかと言いたいぐらいに連写する彼の傍で、突然に水が弾けた。
 驚いて飛びすさるその足元から細い水が力強く上へと昇り、霧雨のような飛沫をもたらす。一本、また一本と水の線は増えては伸びて一列に整列し、それぞれに交差して緩やかな曲線を描いた。
 噴水だ。多分、決められた時間にのみ開演されるショーなのだろう。あちこちで派手に水が吹き上げてはカラフルな光に染められている。
 カリアラはそのど真ん中でカメラを抱え、右に逃げては水に叩かれ、左に逃げては水に打たれる。泡を食ってばしゃばしゃと水を蹴って騒いでいたが、それでも必死にカメラを構えて「にー。にー」と唱え続けた。カリアラは噴水ショーのど真ん中で水びたしになりながら、そればかりを繰り返す。
「サフィー。にー。にー」
「……にー……」
 必死な様子がとてつもなく憐れに見えて、サフィギシルは愛想を浮かべた。どちらにしろあの水量ではカメラは故障しているだろう。現像しようにも使い物にならないはずだ。そう考えて、わざとらしいまでに爽やかな笑みを作る。そのうちに笑顔が自然になったのは、言うまでもなく写真から解放されたためだ。壊れたのならしょうがないよな、と今はいない女性陣に呼びかける。サフィギシルは開放感にあふれる笑顔でカリアラに手を振った。カリアラも、噴き出す水にその姿を半分以上覆われながら、力いっぱい手を振った。

            ※ ※ ※

「……で、俺が修理するんだよな」
 ショーの終わった池の縁でサフィギシルは息をつく。水浸しのカリアラはそんな彼にカメラを向けた。シャッターを押すが、音はしない。その代わりにぽたぽたと水のしずくが垂れ落ちた。サフィギシルは壊れてしまったカメラごとカリアラをタオルで包む。
「着替え持ってきてて良かったよ。ほら、ちゃんと頭も拭くんだぞ」
 重すぎた鞄から取り出したのはタオルが二枚と着替え一式。カリアラが顔を拭いているうちに、サフィギシルは残りのタオルで髪や体を拭いてやった。何もかも雑な元ピラニアはいつもどこかを拭きこぼす。着替えにしても手伝わなければろくな着方をしてくれない。
「体の中の水出して、乾かして……ったく、絶対何か起こすと思ったんだよな」
 そう言いながらサフィギシルは修理道具を取り出した。こんなこともあろうかと一式用意していたのだ。鉄の工具が多いために重量はひどくなるが、旅先で怪我でもしたら大事なのであれもこれもと詰めてきた。とりあえず人目につかない場所で、とトイレの個室で修理と着替えを終わらせると疲れがどっと肩に来る。
「ちょっと休もう。なんか色々疲れすぎだ」
「お前体力ないからなー」
「誰のせいだと……あ、座るところがある。あそこで休憩しよう」
 と座った席がよりにもよってフラメンコショーの真ん前で、真っ赤なドレスの女性たちが情熱的に踊りながらカスタネットを叩き始めてサフィギシルはテーブルに頭を落とした。
「大丈夫か? そんなに疲れたのか?」
「現在進行形で精神力が吸い取られていく……」
「オゥレィ! さあ皆さんご一緒にー!」
 テンポの速い生演奏に激しいステップ。派手な化粧の踊り子たちは鮮やかな笑顔でスペイン語講座を始める。テーブルから顔を上げないサフィギシルとは対照的に、カリアラは真剣に聞いていた。
「ここで乗せられて一緒に踊ってカスタネットを叩かされる人もいるらしいぞ。作者の母とか」
「そんな実話ネタいらねえ」
 その後家に帰ってもしばらくは「オゥレィ!」が口癖でさらに唐突に踊りだすので大変でした。
「黙れ地の文」
 既に叫ぶ気力もなく、サフィギシルはぐったりとテーブルに貼りついた。すぐ傍では地中海を模した建物を背景に熱く踊る女たちと、楽しげに楽器を鳴らす男たち。カリアラだけがその音楽に乗せられながらここで引きます。次回、地獄のジェットコースター編。
「そうか。続くんだな」
「ていうかもうこれ小説じゃねえー!」
 異常な事態にも関わらずフラメンコは情熱的に続いていく。
 ふたりの旅もまだまだ続く。続くったら、続く。
「パクって締めた――!」
 もはや収拾のつかなくなった状況に、サフィギシルは頭を抱えた。
 カリアラが真似をして、全く同じ仕草をした。


 カリアラは目的の店を見つけて駆け寄った。ガラス越しに見えるのはずらりと並ぶアイスクリーム。バニラに苺、チョコレートや抹茶味などさまざまな種類が揃い、ショーケースをカラフルに彩っている。カリアラは預かった千円札をレジに放り、元気良く注文した。
「大人ひとつ子どもひとつください!」
 店員は困惑に眉を寄せたがすぐに笑顔で取り繕う。
「二つですね。種類の方はお決まりでしょうか」
 カリアラは悩む気配もなく店員だけを見つめて言う。
「からくないやつをください!」
 あくまでも真顔で続ける外見だけは大人の客に、まだ若い店員は再び眉を大きく寄せた。

            ※ ※ ※

 そういえばコインロッカーという便利なものがあったのだ、と思い出したのはカリアラが買出しに出たあとのことだった。サフィギシルは絞ってもまだ重く水を含むカリアラの服だとか、作業に使う鉄の工具や針や糸や人工皮の替えだとか塗料だとか薬草の束だとか食べられるものがないと困るからと早起きして作った弁当だとか非常用の携帯食だとか濃水を詰めた水筒だとか日本語のガイドブックだとか地図だとかるるぶだとかまっぷるだとかくれえばんだとか海軍さんのコーヒーだとかメロンパンという名前のパン屋のメロンパンだとか油ぎったフライケーキだとかを改めて鞄の中に詰めなおした。
「明らかに増えてるー!」
 呉市にお越しの際は以上の名物をぜひお求め下さい。
「ああっ、フライケーキの油があちこちに移ってるし!」
 胸焼けするけどおいしいよ?
「知るか!」
 もう二人旅なのか三人旅なのかさえ分からなくなりながら、サフィギシルは重みを増した鞄を抱えて園内を歩きはじめた。舗装された道を行き、立てられた道しるべを確かめてまた進む。地中海を模した街並みには小さな家がいくつかあった。白壁に囲まれた窓から覗いてみると、室内は土産物を売る店であったり、非日常的な格好で写真を撮ることができる写真館だったりする。さらに進むと作られた偽の神殿。占い機を兼ねた「真実の口」の横を抜けるとそこは船への入り口だった。穏やかな波の海に据えつけられた出航しない観光船。乗り込めば立体映像のアトラクションやゲームセンター、航海の歴史展示や売店などで楽しめるが、今はそんなことをしている場合ではない。どうして海に出たのだろう。入場ゲート近くのコインロッカーを目指して歩いていたはずなのに。
 手のひらを痛める鞄を下ろして海辺の道を眺めていると、頭上から機械を通した声がした。
『迷子のお知らせをいたします。白い髪にすわっとした服、まっすぐのズボンにぬわっとした靴を履いた、身長175センチ前後の二歳のお子さま。異世界からお越しのサフィギシル・ガートンくん。お心当たりのある方は係員もしくは入場ゲート隣の迷子センターまでご連絡ください』
 放送は始まりと同じく唐突に掻き消える。サフィギシルは静まり返ったスピーカーを見上げたまま固まった。周辺の客たちがそんな彼を示しながら何事か囁いているのが聞こえた。

            ※ ※ ※

「あ、サフィ! よかった、見つかったな!」
「何ひとつ良くない!」
 サフィギシルは苛立ちもあらわに怒鳴る。迷子センターの場所がわからず、園内を長時間さまよい続けてくたくただった。しかも放送は何度も繰り返されて、恥ずかしさから駆け足で動いたために足の疲れが限界だ。最終的には諦めて、顔どころか耳までを赤くして道を尋ねたところやはり場所が理解できず、結局は、優しい女性スタッフに連れられてカリアラの元にやってきた。サフィギシルは燃えそうに熱い顔を所在なく迷わせる。迷子センターのスタッフたちが、一様に優しい苦笑を浮かべているので恥ずかしすぎて泣きたくなる。カリアラだけは純粋に嬉しそうに笑いながら、「にー」と壊れたシャッターを押す。
「ジーナに言われたんだ。サフィが迷子になったら放送して探してもらえって」
「迷子じゃないし、すわっとした服とかぬわっとした靴ってなんだ一体」
「だってそれすわっとしてまっすぐでぬわっとしてるだろ」
「してない」
 もう直視すらできないスタッフたちに頭を下げて、カリアラと共に部屋を出る。逃げるように早足で進み始めたところで、カリアラに肩を引かれた。振り返ると彼は奇妙な塊をサフィギシルに突き出す。
「アイス」
 くたりとよろけたコーンの先から、クリーム色の液体がぽたぽたと落ちていた。数十分前まではアイスクリームだった食べ物は、いまや雨ざらしにでもしたのかと言うぐらい別物に変わり果てている。
「お前の分」
「…………」
 喋ることも受け取ることもできなくて、ひたすら無言でアイスクリームの残骸を見た。カリアラは甘い液で手をべたべたにして、しみじみと語り始める。
「おれのはな、食ったんだけどな、冷たいからびっくりした。アイスは寒いな。こわいな」
「そうか。アイスは怖いか」
「うん。あれは冷たいからな。寒いのは死ぬからだめだ」
「へー……」
 サフィギシルはゆっくりと視線をとある場所へと移す。
 目の先には「氷の館」と記された氷山の塊があった。
 サフィギシルが、カリアラの肩をがしりと掴んだ。

            ※ ※ ※

「――――!!」
 足を踏み入れたとたんに氷点下の風に包まれて、カリアラは無音で叫んだ。
 サフィギシルは心の底から嬉しそうに彼の背を押していく。寒さに弱い元熱帯魚はばたばたと跳ねた。
「さ、ささささ寒いぞ!? なんだこれ!!」
「そりゃ寒いよな。北極だか南極だかと同じ気温なんだから」
 サフィギシルは魚の動きで暴れる彼をはがいじめにして奥に連れ込む。水色の室内ではあちこちに作り物の氷山が頭を出して演出に務めていた。ここは北極。もしくは南極。そうでなければオホーツク。とにかく寒い氷の世界を体感できる建物だった。
「お前なんで押すんだ!? だめだ、ここにいたら死ぬ! 逃げろ!!」
「いやあ悪いね。俺だってこんなことはしたくないんだけど、ジーナさんがここに入らなきゃバラバラにしてやるって脅すからさ。ここはどうしてもお前と一緒に体験しなくちゃいけないんだ。そうしなきゃ、ジーナさんに殺されるからな」
 もちろんそんな約束をしたことも命令をされた覚えもない。だがカリアラは逃げようともがくのをぴたりとやめて、迷う目でサフィギシルに訴えかける。
「で、ででででもここも死ぬぞ! 寒いぞ!!」
「頑張って耐えてくれ。百数えたら出てもいいって話だから」
 サフィギシルは崩れ落ちそうなほどに震えるカリアラの肩を叩き、満面の笑みを浮かべた。迷子放送の件で散々恥をかかされた仕返しなのだが、カリアラがそれに気づくはずがない。楽しそうなサフィギシルを見て口を結び、吐息のごとくにかすかな声で、一、二、三、と数え始めた。
「四、五、六、七、八、九……」
「一二三、の二の四の五。三一二の四の二の四の五っと」
「に、二、四、五……あれ八? 六? ……なんで邪魔するんだ!?」
「ごめん急に数え歌で遊びたくなったんだ。何しろ二歳のお子さまだから」
「そ、そうか」
 根に持った発言であることにも気づかずに、カリアラは納得してまた一から数え始める。
「二十一、二十二、二十三……」
「そういえばお前なんで俺の背丈が言えたんだ? しかも日本の単位で」
 カリアラは震える手で自分よりも若干低いあたりを指して説明する。
「しゃ、しゃべるひとがな、背はどのぐらいだって言うからな、こ、このぐらいだって。そしたらひゃくななじゅうごぐらいかなって。え、ええと、百七十…………」
 絶望に凍る顔で、カリアラはサフィギシルの肩をゆすった。
「なんで邪魔するんだああああ!?」
「あー、シロクマの剥製がある」
 サフィギシルはにやにやと笑いながら呑気に話を逸らすだけ。満足そうに展示された剥製を眺める彼の傍で、カリアラはいつ死ぬか、今死ぬか、と追いつめられた表情で震えながら数を数えた。

            ※ ※ ※

 暖かな午後の光が園内を照らしている。カリアラはぬくもりを持つ店の壁やアスファルトに貼りついて、呆然と目を丸くしていた。あまりの寒さと衝撃に我を忘れてしまったらしい。呼びかけても返事はなく、ただ見開いた目を虚空に向ける。
「すごいな」
 ようやくわずかに開いた口から戦慄した声が出た。
「ここ、すごいな」
「ここまで氷の館を過大評価した客は多分お前が初めてだろうな」
 サフィギシルは壁に這うカリアラの手を濡れタオルで拭いてやる。溶けてしまったアイスクリームを拭うためだが、ひやりとした感覚にカリアラはびくりと怯えた。構わず素早く作業を終える。
「こんなことで怖がってたら、ジェットコースターなんか……」
 言いかけて、いいことを思いついた。サフィギシルは濡れタオルをしまいながらわざとらしい嘘をつく。
「そういえば、ジーナさんに言われてたんだった。ジェットコースターには絶対乗れよって。乗らなきゃ、具合が悪くなっても診てやらないって」
「ええっ。じゃあ乗らなきゃだめだ」
「そうだよな。でも、あんなものにひとりで乗るのは怖くてできそうにないんだ……」
 ふう、とわざとらしいため息。心配するカリアラに、サフィギシルは演技全開で助けを求める。
「お前、一緒に乗ってくれないか?」
「うん。ひとりじゃないから怖くないぞ、大丈夫だ」
 力強く了承する相手を見て、サフィギシルはひどく悪い笑みを浮かべた。

            ※ ※ ※

 単なる悪ノリだったのだ。もしくは調子に乗っただけか。しかし今さら自覚などしてみても、口にした嘘が取り消せるわけではない。サフィギシルは後悔に身を浸しながら、ジェットコースター乗り場に向かう。前を行くカリアラは今から乗るアトラクションが一体どんな物なのかまるで知らないのだろう。平然とした魚らしい表情で目的地へと歩いていく。時おり不安げに振り返っては、サフィギシルがそこにいるのを確認していた。
「サフィ、迷ったら危ないぞ。ちゃんとついてこなきゃだめだ」
「何があってももう二度と迷うもんか」
 忌々しく吐き捨てても相手は真面目にうなずくだけ。カリアラは手を差し出した。
「つなぐか?」
 サフィギシルは皺だらけになるほど顔を歪めて思うところを長く吐き出す。
「お前は何も考えてないだろうけどそれは色々とまずいというか拍車をかけるというか正直気持ち悪いから嫌だ」
「嫌なのか? でも人間のお父さんは子どもの手をつないでるぞ」
 きょとんとした動物の目がサフィギシルを見返した。
 遠くを歩く家族連れの楽しそうな声が聞こえる。乗り物を前にしてはしゃぎながら手を引く子ども、父親はそれに引きずられて早足になる。繋いだ手は、離さない。
「おれはお前のお父さんじゃないけど、お前は子どもで、おれは子どもが欲しかった。“お父さん”は券を買う。写真もとる。アイスも買ってくるし、迷子になったら迷子センターでおとなしく待ってる。おれ、今日は“お父さん”をしてもいいって言われたんだ。やりたいってみんなに言ったら、じゃあこうしろっていろんなことを教えてくれた。おれ、ちゃんとできてるか?」
 サフィギシルは、呆けた顔でカリアラを見た。首から提げた大きなカメラは壊れて使えなくなっている。噴水に濡れた髪はまだ完全には乾いていない。アイスクリームを買ったおつりは、両手をふさいだ無茶な姿勢で道端に落としてしまった。買ってきた品物は溶けるのも構わずにずっと握りしめていた。
 サフィギシルに渡すために。今日だけの我が子に差し出すために。
「……うん。ちゃんとできてるよ」
 うなずくと、カリアラは途端にぱっと笑みを浮かべた。
「よかった。怖いのがあったら言うんだぞ。“お父さん”は敵から子どもを守るんだ」
「はいはい。せいぜいしっかり守ってくれよ」
 呆れたように言いながらも口元はゆるんでいく。カリアラが喜んでいることが、なんだかやけに嬉しかった。サフィギシルはさっきまでの憂鬱を忘れて足取り軽く道を行く。今まで恐れていたことも、よく考えれば大したことではないように思えてきた。ジェットコースターと言っても、この遊園地のものは恐ろしさで有名というわけでもない。ぐるりと宙を一回でもするのならともかく、ただ高速で突き進むだけで……。
 楽観的な考えは、目の前に突然現れた巨大なレールを見て止まる。
 薄ぼけた色の空と海を背景に立つアクロバティックな形のコース。先ほどまでは確かになかったはずのもの。

 どういうわけだか唐突に、今は亡き広島ナタリーのジェットコースターが出現していた。

「どこだそれ――!」
 数年前に閉鎖した海辺のテーマパークです。
 現在は住宅展示場になっています。

 広島県、遊園地、潰れすぎ。

「知るかそんなローカル事情! 極端に人を選ぶネタを出すなー!」
「なんだあれぐるっとしてるぞ!」
 驚いたカリアラの指が示した先で、客を乗せたコースターがぐるりと一気に回転する。ここまで届くどこか楽しそうな悲鳴。青ざめた二人はおろおろと顔を見合わせる。
「ど、どうなってるんだ!? 回ってるぞ、落ちるだろ!?」
「い、いや落ちないようになってるはず……」
「だってぐるって回るんだぞ! 逆さまになるんだぞ! それは死ぬだろ!?」
「いやとにかく死にはしない。絶対。多分。きっと……なあ地の文!?」
 サフィギシルは希望を胸に力強く歩き始めた。――大丈夫。俺たちに明日はある!
「言ってねえ――! 考えてもないことを語るな! ああっ本当に足が動いてる!」
 頑張って、お兄ちゃん! のり子は小さく拳を固めた。この試合が終わったら、私――!
「誰だよのり子!」
「あっいた! サフィ、あそこで見てるのがのり子だ。ちゃんと手を固めてるぞ!」
 大変遠くにちらりと影だけ見える少女にサフィギシルは大きく叫んだ。
「お前と血液で繋がれた覚えはねえ――!」
 そこはそれ義理の兄妹で禁断の告白ですよ。
「物語となんら関係のないネタを仕込むな!」
 そんなどたばたとした寸劇を繰り広げているうちに、コースターの乗り場に着いた。
 乗る席は最前列。二人並んで座ったところで、安全ガードが下りてくる。目の前には古びたレール。
 ここまで来ては、もう逃れることはできない。
「だ、大丈夫かー!? サフィ、大丈夫かー!?」
 回転するところを見てしまったために、カリアラは極限まで青ざめて安全ガードを握りしめる。
「大丈夫かー!? サフィお前大丈夫かーっ!?」
「いやむしろお前が大丈夫かよ」
 隣があまりに恐慌状態のため、サフィギシルは逆に冷静になっていた。カリアラを見ていると、どうやって怖がればいいのか忘れてしまった気分になる。カリアラは今にも倒れそうな表情で、それでもサフィギシルを気遣った。
「だ、大丈夫じゃないけど大丈夫だー! お、おおおれがいるからなー!」
「口から泡出てるぞ」
 回転したらこの泡も吹き飛ぶかな、などと考えているうちに発車を伝えるサイレンが鳴り、コースターはゆっくりと地獄に向かって走り出す。
 そして、ひと時の冷静さも吹き飛ばす絶叫の幕が上がった。


 絶叫の幕は下りて、一仕事終えたコースターはのろのろと元の位置に戻る。
 サフィギシルもカリアラも、叫び疲れた喉と口を開いたまま呆然と固まっていた。
「海に落ちるかと思った……なんかすごく揺れてた。レール外れそうだった……」
 間近に海を抱えるためにまるで転落しそうに見える。老朽化が激しいために揺れが酷く、軋んだ音を立てるので今にも空中分解しそう。そんな別の意味での恐怖がこのコースターの特徴だった。
 気絶していたカリアラが我に返ってサフィギシルを見る。
「大丈夫か!? サフィ、生きてるか!?」
「ああうん、大丈夫ではあるかな……」
 そっちこそ本当に生きているのかと言いたいぐらい蒼白なカリアラは、サフィギシルにカメラを構える。
「にー」
「撮るのかよ!」
 カリアラは震える指で音のしないスイッチを押し、紫色に乾いた口で「にー、にー」と繰り返した。
 引きつった愛想笑いを撮り終えると、カリアラは全身マッサージ器にかけられているかのごとくに震えながら席を立つ。這うようにしてなんとかコースターの外に出た。
「サフィ? 出ないのか?」
 乗り口に座り込んで問いかけるが、サフィギシルは奥の席からぴくりとも動かない。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
 まさか腰が抜けて動けませんとは言い出せず、サフィギシルは機械的に首を振る。
 腰どころか全身に力が入らない。席を立つことができない。
「早く出なきゃまた行くぞ! もう一回ぐるっと回るぞ!!」
 その言葉に焦りを感じて出口側に倒れこむが腕が震えて動けない。カリアラが震えながらも必死で手をさしのべる。サフィギシルも手を伸ばすが届かない。震えながら互いに手を伸ばしたところでカリアラが必死に叫んだ。
「ふぁ、ふぁいとおおー!」
「死にそうになりながら言うギャグがそれかーっ! 俺は言わないぞ!」
 いっ・ぱーつ。
「地の文に言われた!」
 タウリン1000ミリグラムは単位を替えると1グラムです。
「知るかよ!」
 カリアラに引きずられてなんとか出ることができ、サフィギシルは涙の跡をさりげなく拭い取る。「にー」とまた唱えるカリアラを睨みつけるが、立つことができなくて結局また手を借りた。
「ぐるっと回るの、すごかったな……。これもえんしんりょくか?」
「そうだ。遠心力が悪いんだ……」
 助け合いながら立つ体はまだ余韻に揺れている。
 二人はお互いに震えながら、手を繋いで外に出た。


 一度大きな衝撃を経験してしまえば、あとはもう怖いものなしだった。サフィギシルはガラスにもたれて暮れていく景色を見下ろす。男二人で夜景の見える観覧車、とこれほどなく嫌な行動もあのジェットコースターに比べれば、つらいことなど何もない。
「サフィ、にー」
「はいはい。にー」
 フラッシュどころかシャッター音すらしないカメラに愛想を浮かべる。これでカリアラが命じられていた写真のノルマは一応達成されたらしい。満足げな息をついて、カメラを膝の上に戻した。恥を狙う女性陣には腹が立つが、まあいいかとすら思えるようになっている。
 実際、思い返せば今日一日はなかなか楽しかったのだ。ジェットコースターに比べれば怖くない、と乗ったゴーカートでカリアラの車体にぶつかってはおろおろさせて遊んだり、立体映像を見ることができる乗り物でカリアラを驚かせて遊んだり、他にも同じく色々と、乗り物よりもむしろカリアラで遊んだ。
 顔が自然と笑みを作る。向かいに座るカリアラが、問いかけた。
「サフィ、楽しかったか?」
「そうだな。楽しかったよ」
 答えるとカリアラは笑顔になる。「そうか」と嬉しそうにうなずいた。
「お前はどうだった?」
「うん。おれも楽しかった。サフィが楽しかったからな」
「なんだそれ。俺の行動が楽しかったって?」
「そうじゃないぞ。サフィが楽しいからおれも楽しいんだ」
 疑問を浮かべるサフィギシルに、カリアラはにこにこと笑いながら説明する。
「お前が楽しくしてるとおれは嬉しい。お前、今日はいっぱい笑ったな。すごく楽しそうだった。だからおれも楽しかったんだ」
 一瞬、そのままするりとのみこみかけた。だが改めて考えて、ひどく違和感を覚える。
「……お前は? 俺が楽しんだとかいうのは関係なしに、お前だけが楽しんだことって、あったか?」
 言葉の意味が掴めないのかカリアラはきょとんとしている。サフィギシルは今日一日のカリアラを一通り思い返した。入場券をうまく買えて喜んでいた。水に入ることができてとても嬉しそうにしていた。だがその後は噴水に打たれ、コーヒーカップでは目を回し、買ってきたアイスは冷たくて怖い上に溶けてしまい、氷の館やジェットコースターで死に目を見たり、色々な乗り物におどかされたり死にそうな思いをしたり……。
「…………」
 考えれば考えるほどろくな体験をしていない。しかも、ほとんどの原因はサフィギシルにある。
 サフィギシルはこわばる顔でカリアラを見た。向かいの席に座る相手は嬉しそうに笑っている。驚かされても、怖がっても、しばしばこうして笑っているから気がつかなかったのだ。カリアラは今日はよく笑っていた。多分、サフィギシルが笑ったから。
「お前……」
 開いた口からそれ以上言葉が出なくて、カリアラの頭を叩いた。びくりとした元ピラニアは、きょときょとと首を振って改めてサフィギシルを見る。サフィギシルはさらにその頭を叩いた。
「怒れ!」
 カリアラは困惑の目でサフィギシルを見る。それを見て腹が立ち、叩きつけるような声になる。
「怒れよ馬鹿!」
「なんでおれが怒るんだ?」
 きょとんとした嘘のない表情。本当にわからないと訴える透明な動物の目。
 カリアラは頭を抱えて問いかけた。
「怒るって、どうやってすればいいんだ?」
 挙げていた手が力をなくす。サフィギシルは取り乱した感情のまま、自分の髪を掻きむしった。
 カリアラを叩いた手が憎らしい。彼にあたったこの時間を初めからやり直したい。むしろこのひと時だけではなく、遊園地に来た時間に戻り、今度こそカリアラ自身が楽しんで、喜んで、サフィギシルとは関係なく心から笑えるようにやり直してしまいたい。
 だが既に過ぎてしまった時間を取り戻せるはずもなく、この一日はもうすぐに終わってしまう。サフィギシルは痛いほどに歯噛みして、カリアラから顔をそむけた。自然と景色に目が移る。明るい色調をしていた園内は闇に溶け、その代わりに眩しいほどの光の粒が随所を彩っている。メリーゴウランドも海に固定された船も、光の点に輪郭を浮かび上がらせていた。
 高度が上がれば上がるほど光の粒は細やかになっていく。その代わりに遠くまで見えるようになる。車のまばらな駐車場、ひっそりと伸びる高速道路に電車の線路。そして月明かりに小さな波を輝かせる、なだらかな瀬戸の海。
「……おい」
 サフィギシルは思いついて足元の荷物を取った。カリアラを手招きして引き寄せる。
「ちょっと、じっとしてろよ」
 そして状況の呑みこめていない彼を抱え、ごそごそと動き始めた。

            ※ ※ ※

 墨のような夜の海に足をつけ、カリアラは呆然とサフィギシルを振り返る。
「塩からくないぞ!」
「そうだ。まあ他の味もしないけどな。別に不便なこともないだろ」
「やっぱり塩からくないぞ!!」
 カリアラは驚きの表情で海水をすくっては口に運び、からくないと繰り返した。サフィギシルが彼の味覚を一時的に塞いだのだ。観覧車の中での改造は不安定でやりにくいものだったが、味覚の他にもいくつかの改善を施す余裕はあった。カリアラは目を輝かせる。
「本当に、本当に入ってもいいのか!?」
「存分に。濡れたらまずい所はしっかりと防水したから、好きなだけ泳いでいいぞ」
 許可の言葉を聞くか聞かないかのうちにカリアラは音を立てて波を乱し、深くまで駆けるとすぐさま海に飛び込んだ。とぷ、と軽い音がしてその後はただ波だけが夜に響く。だがすぐにざばりと派手に頭を出して、砂浜のサフィギシルに笑顔で叫んだ。
「水だー!! 水がいっぱいだー!!」
「そうだなー。水だなー」
「広いぞ! 海広いぞサフィ!!」
「そりゃあまあ広いだろうなー」
 カリアラは顔面が勢いよく弾けそうなほどの笑顔で水を叩きながら叫ぶ。サフィギシルは岩の上に腰かけて、笑いながら問いかけた。
「楽しいか?」
「楽しい!!」
「嬉しいか?」
「嬉しい!!」
 カリアラはひとしきり泳いではサフィギシルに手を振り、壊れそうなほどの笑顔で喜びを報告する。
「ありがとう! サフィ、ありがとう!!」
 魚のように身をひねらせて宙に跳ねては深くに潜る。全身で水を味わう喜びに包まれながら、夢中になって泳ぎ続ける。彼は本来生きるべき場所で全身を解放した。顔を夜の中に出しては大きな声を上げて笑った。
「サフィ! お前も来い!」
「俺が泳げるわけ……馬鹿、離せ! わー!!」
 サフィギシルは戻ってきたカリアラに引きずられて海に放り投げられる。暴れて騒ぐ体はさらに深くまで連れていかれ、楽しげにくるくると引き回された。サフィギシルはわあわあと騒いでは水面にたどりつき、カリアラに引かれて沈んでいく。
「サフィ、もっと奥行こう! あっちにでかい魚がいた! 噛みつき方教えてやる!」
「いらねー! しっ、沈む! 沈むー!!」
 だが混乱が収まるにつれ彼もまた笑いながら水の中で過ごし始めた。水面に顔を出し、お互いに声を上げて笑いながら叩き合ってはまた沈む。遠くで船が過ぎる以外はひたすら静かな夜の中、二人は声をあげて笑い、騒がしく水を叩いた。そうして、疲れ果てるまで遊び続けた。

            ※ ※ ※

「……で、力尽きて体壊して帰って二晩寝込みました、か」
 作業を終えて一休みするジーナの声は、これほどなく刺々しい。サフィギシルはようやく全快した体でやるせなく頭を下げた。言われたとおりなのだから弁解のしようもない。一応治療は終わっていても体力の方が戻らず、丸々二日と半日程度ベッドから動けなかった。
「体壊してってこの場合ものすごく文字通りだよね」
「って、勝手に探るなよ。何やってんだ」
「おみやげ探しー」
 すべてが終わった居間の中で、ピィスは旅に使った鞄を漁り始める。サフィギシルはぎくりとした。そういえば、土産のことを忘れていた。だがピィスは鼻歌混じりに鞄の中を探っていく。
「あっ。なんか油でギトギトの塊はっけーん。お菓子だ。パンもある」
「なんですかこれ。日本語の雑誌……? あら、こっちはコーヒーですね」
「変な選択ー。なんでこんなの買ってきたの」
 いやそれは地の文が、と説明するわけにもいかずに逸らした目がカリアラにぶつかった。サフィギシルと違い一日目で力を取り戻していた彼は、何か小さな紙の束を見分している。
「何見てるんだ?」
「写真」
 一瞬、思考回路が繋がらなくてひどく間抜けな顔をするが、すぐに嫌な予感がして彼の手からそれを奪う。掴みかかるように確かめると、どれもこれも間違いなく遊園地で撮った写真だ。
「なんで!? だってカメラ、水に濡れて……!」
「あー、やっぱり気づいてなかった。あれただの入れ物なんだよ。ほら」
 そう言ってピィスが取り出したのは、あの日カリアラが使っていた一眼レフ。大きめのそれはピィスが指でどこかをいじると、ぱかりと音を立てて開いた。中には小さなカメラがひとつ。その周囲にはそのカメラを守るように、幾層もの壁やばねが断面を見せている。
「防水完璧、衝撃吸収機能あり。偽物のシャッター音を出す装置は壊れちゃったけどね。ちなみに中身はデジカメで、ぶれ直しもばっちりです。しかも大容量だから何百枚でも撮れますよお客さーん」
「うわー! 騙されたー!!」
「だーいせーいこーう。いやあいい写真がいっぱいでみんなして喜んだのなんのって」
 頭を抱えて叫んでいると、ピィスどころかシラもジーナもにやにやと笑っている。サフィギシルは全身がゆだるように熱くなるのを感じて小さくその場に縮まった。
「み、見るなー! そんな目で俺を見るなー!」
「大丈夫、かわいく写ってたよ」
「ええ。どれもたくさん印刷しておきましたよ。アルバムは人数分作らなきゃ」
「人数って誰と誰と誰のことだー!」
「いやメリーゴウランドの写真なんかつい飾りたくなるようで……」
「ジーナさんも!?」
 あまりにも恥ずかしすぎて居たたまれなくて、わあわあと騒ぎながら耳を塞ぐ。それでもからかう声は聞こえた。
「よっぽど楽しかったんだなー。こんな笑顔で」
「こんなに嬉しそうなサフィさん、初めて見ます」
「楽しくない! 全っ然楽しくなかった!!」
「そうなのか?」
 耳を塞いだまま主張すると、カリアラが寂しげな顔をする。彼はいかにも哀しい声で、サフィギシルに問いかけた。
「お前、楽しくなかったのか?」
 言葉に詰まって息を止めて、きつくきつく口を結ぶ。サフィギシルは笑う女性陣を見て、困った顔のカリアラを見て、さらに赤く染まる顔でやけのように吐き捨てた。
「楽しかったよ! ……お前が楽しんでたからな!」
「そうか」
 カリアラは途端にぱあっと明るい顔になり、嬉しそうな笑みを浮かべる。
 サフィギシルは緩みそうな口元をうねる波のごとくに歪め、恥ずかしげに顔をそむけた。
 そんな二人をにやにやと見ていたピィスが、いやに陽気な声を上げる。
「よーしじゃあ売りに行こーう。サフィ、サイン書いて。ちゃんと姓名の間は星にしろよ」
「なんでサフィギシル☆ガートン!?」
 いいじゃないか、だの、それよりも買った人の名前を逐一入れた方が、だのと販売計画はうきうきと進んでいく。それが冗談だと気づかないサフィギシルは必死になって騒ぎ続け、カリアラは笑いながら賑やかな仲間たちの中にいる。二人の声はたくさんの賑やかな中に混じった。こうしてまたいつもと同じ笑い声が、家の中に響き渡った。

番外編目次 / 本編目次