番外編目次 / 本編目次


 月に一度、皆で集まって呑み会をするようになった。店では思いきりくつろげないとジーナが言うので、場所は自然とサフィギシルかペシフィロの家になる。そのどちらかに集まって、夕食を取りながら呑み始めるのが決まりごとになりつつあった。
 日が暮れる頃に始まって、宵のうちには酒がまわる。
 酒に弱いカリアラがまず潰れ、ほのかに酔ったシラとピィスのおもちゃへと成り下がる。魚のように口を動かす彼の顔には玉葱の輪が貼られ、緑の葉で飾られては笑われる。次はこれ、と騒ぐ声はいつもよりも高く響き、夜が更けていくほどに頼りなくゆるんでいく。
 かしましい笑い声に疲れが滲みはじめたところでシラがふらりと床に倒れる。幸せそうな顔をしてカリアラの隣に寝そべり、満足げな寝息を立てる頃には外は闇、中は酔い。空気はもれなく酒の匂いに染められていて、換気のために窓を開けると冷たい風が頬を覚ます。ひと時の清涼感に目を覚ました人間たちは、だらけていた姿勢を少し、ゆるんでいた頭を少し、まっすぐに立て直す。酒に伸ばされる手は減って、その代わりに口が動く。
 始めは、透明なしじまの中にぽつりと色を落とすように。じわりと溶け込む会話の口にひとりひとりがつられていって、一言、また一言と少しずつ音が増える。気がつけば沈黙などどこにもなく、無音を感じていた耳はしじまを探ることすら忘れ、話の中へと潜りこむ。
 ジーナがいると、時折子どもには入り込めない類の話に誘導されて、サフィギシルは困ったように口をつぐむ。ピィスは赤らむ顔にほのかな興味を浮かべながらもペシフィロを見て、サフィギシルを見て、何も知らない振りをする。酔いのせいか当たり前のようにジーナの話に混じりかけたペシフィロは、今初めて気付いた顔で傍に座るピィスを見て、遅まきながらに口を閉じた。そんな各々の様子を見てジーナはしたり顔で笑い、さらに中身を深くする。ペシフィロがどこか気まずそうに叱る。ジーナはまたにやりと笑って、じゃあまた後で、とピィスにだけ囁いた。
 唐突に、カリアラが起き上がる。酔いの醒めが早い彼は一定の間隔で目を覚ます。どこにいるのか、なにをしていたのかちっとも解っていない様子できょろきょろと辺りを見回し、不思議そうに首をかしげたところでサフィギシルが酒を渡し、無理やり一口含ませると一瞬のうちに酔い果てて、床に落ちる。造作ない彼を見てサフィギシルは可笑しそうに笑う。それを、カリアラが目覚める度に繰り返す。
 肴が減り、空になってしまった皿が目障りに思える頃に、ペシフィロとサフィギシルがどちらともなく机の上を片づけ始める。構わずくつろぐジーナとピィスにいくつか説教じみたことを言い、よどむ空気の部屋を出れば体の中の酔いも消える。サフィギシルはペシフィロの後を追って台所の中に入る。ペシフィロの家ではサフィギシルが、サフィギシルの家ではペシフィロが、それぞれ動きづらそうに相手の手伝いをする。
 始めは、言うこと全てがわざとらしい台詞に聞こえる。食器の音だけが気にもせずいつも通りに響いていく。そのうちに、ひとつひとつ油が馴染んでいくように、気張らない言葉と話が紡がれるようになる。さっきまで話していたことについて。部屋に残してきた者たちについて。料理について。酒について。ビジスについて。笑うでもなく、高ぶるでもなく穏やかに時が過ぎる。サフィギシルはペシフィロの相づちを聞きながら、自分はこんなにもよく喋る人だっただろうかと思う。同時にピィスとジーナは今どんな話をしているのだろうかと考えて、戻りづらい気分になる。シラも起きているかもしれない、と想像して余計に変な気持ちになる。
 新たな肴を持って戻ると、ピィスは床に伸びていた。眠り始めているらしき彼女をまたいで料理を並べる。空になった酒の瓶を部屋の隅に並べると、一抱えでは足りないほどに大きな塊となった。席に戻ったサフィギシルにジーナが熱い体を預ける。避けようとするのを腕で引きとめ、からからと笑いながら彼の頭を雑に撫でる。ろれつの回らない調子で何か言うがほとんどが聞き取れない。身動きができないほど密着されても動揺を覚えなくて、サフィギシルは不思議に思う。シラを相手にする時とは違い、ジーナがどれだけ傍にいても緊張はしなかった。むしろ、落ち着きさえする。懐かしいような気持ちになる。この声も感触も、強い酒の匂いでさえもいつかどこかで知ったような。サフィギシルは彼女の肌を感じながら、ふと、昔こうして酒を呑んだことがあるかと訊いてみた。あるどころかお前に酒を被せもしたと笑われて、サフィギシルもつられるように少し笑った。
 シラよりは呑み方の上手いジーナが潰れるころにはもう深夜になっている。それでも、ペシフィロは酔いすぎることがないよう酒の量を調節している。サフィギシルは彼がひどく酔ったところを見たことがない。意識を疎かにすると魔力の制御が効かなくなる恐れがあるのだと言う。止めてくれるビジスがいなくなった時から、彼は酔いに沈むことができなくなった。もしいつかビジスの力が使いこなせるようになったら、と、サフィギシルは考える。ペシフィロが何を起こしても止められる自信がついたら、我を忘れてしまうほどに酔ってもらうことができるだろうか。だが口にすることはできず、ただペシフィロが持つ水の入ったグラスを見つめる。
 サフィギシルにもたれて眠っていたジーナがふと目を覚ます。彼女はのろのろと体を起こして目をこすると、指輪、と呟いた。突然に机や床を探りながら、指輪が、と繰り返す。事を察した二人が一緒になって探すと、銀色の花の指輪はほどなくして机の下で見つかった。ジーナは安堵の息をついて慣れた仕草でそれをはめる。指は痩せ、関節がやけに目立った。ジーナはやつれた手を見つめ、捨てなきゃ、と呟く。いい加減、こんなもの。その横顔が全く別の人に見えて、サフィギシルは言いかけた言葉を飲み込む。手を伸ばしても触れられない場所に行ってしまったように思えて、ただ、儚げな顔を見つめた。
 ――これから先、何十年もこれを抱えて行くのかな。呟いた後の目がそれは嫌だと囁いている。ジーナは世界にそれだけしか存在していないかのように、掲げた指輪を見つめていた。そのまま、銀の花に吸い込まれてしまいそうだった。ジーナは我に返ったように、指輪から目を離す。恐ろしげに指を包んで独りごちた。何か、他のものを見つけないと。
 不安そうな彼女の肘を引く手がある。驚いて見下ろす先には目を覚ましたカリアラがいた。彼はまだ酔いによろめく動きでジーナの手を取り、自分の頬に貼りついていた玉葱の輪を剥がして、ちょうどいい大きさのものを彼女の中指にはめた。
 ――ほかの。
 カリアラは透明な動物の目で、まっすぐにジーナを見つめる。ジーナは一瞬呆然としていたが、気持ちがあふれだしたように声を上げて笑いだした。そのまま、カリアラの肩を力強く叩いては彼の頭を撫でくり回した。カリアラはきょとんとしてされるがままに任せている。ジーナはひとしきり笑った後で清々しい顔になって、新しく酒を呑み始めた。楽しそうに笑いながら、時折、酢の味がするはずの玉葱の指輪を舐めた。
 サフィギシルはカリアラを見る。悔しそうに曇ったその目が、拗ねるように遠くを向いた。お前になりたいよ。そうかすかに呟くと、耳のいいカリアラは本気にしてそれは困ると驚いた。カリアラがあまりにも何もわかっていない顔をしているので、サフィギシルは近くにあった酒の残るグラスを掴み、カリアラの口に押しつける。ヒレを動かすようにばたばたと抵抗していた元ピラニアは、わずかな酒を呑みこんであっという間に崩れ落ちた。
 サフィギシルは大きな大きなあくびをする。気がつけば、体は酔いに疲れている。サフィギシルはカリアラをシラの隣に戻してやると、そこから少し離れて横になった。途端に眠気がこみあげる。どこだかはわからない場所からピィスの寝言が聞こえてくる。カリアラとシラの寝息は水に響く魚たちの音のようだ。食卓ではペシフィロとジーナがまだ何か話を続けている。読みとれないそれらを歌のように感じながら、サフィギシルは眠りについた。玉葱と、魚の夢を見そうな気がした。


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