六日も続いた曇り空は七日目にして晴れ渡り、冬の寒さも忘れさせる暖かな光をもたらす。カリアラとピィスは嬉しそうに街部へと駆けていった。サフィギシルは溜まっていた洗濯物を干しはじめ、それでもまだ物足りないのか冬布団まで日に照らす。小さな庭は白い布の波にのまれてまるで雪が積もったようだ。シラは暖かい布に手を滑らせて、のんびりとあくびをもらした。なだらかに広がる布団はやわらかくふくらんでいて、真昼の日差しの匂いがする。白色の波に誘われて頭から飛び込むと、かすかなほこりが舞い散った。 「あ! 潰すなよ、干してるんだから」 白い糸を干していたサフィギシルが文句を言う。シラは身を起こして答えた。 「いいじゃないの、ちょっとぐらい。ねえまだ干すつもりなの?」 「神経が終わったら、後は人工皮と、干物と……」 ひとつひとつ挙げていく彼の顔は本気以外の何物でもない。シラは呆れた息をつく。 「干しすぎよ。そんなに焦らなくても、明日だって晴れるでしょうに。少しはゆっくりしなさい」 「今やっときたいんだよ。せっかくいい日差しが来てるんだから。これから寒くなると乾くものも乾かなくなるだろ? 洗濯物だって朝から干し続けてもしめるだろうし、すぐに乾く夏とは違うんだから」 「……所帯くさい」 呟くと、開き直ったサフィギシルは打たれ強く言い返す。 「それで結構。いいんだよ、これは俺の仕事なんだから」 「でも、ちょっとは休憩してもいいじゃない。のんびりした方がいいわよ」 「なんだよ、なんでそんなに絡んで……」 不可解そうにしかめた顔はふと気づいて緩められた。サフィギシルは、ああ、と笑みを含んで言う。 「そうか、遊んで欲しいんだ」 「ちっ」 シラの頬が陽に照り映えるように赤くなった。 「違いますけど! もう、なによそれ、なんでそんなに笑ってるのよっ」 「違うけどなんなんだよ。あーあ、図星だ。顔真っ赤」 サフィギシルはにやにやと笑いながら、余裕のため息をつく。手の中にある糸の束を柵に掛けて彼女に近寄る。シラは口をとがらせて、座っていた小さなベンチの隣をあけた。サフィギシルがそこに座る。疲れたように、気持ちいい伸びをする。 「で、何して遊ぶ?」 「……今まで二人で遊んだことが一度でもありましたか」 「そういえばないよな。こうやって二人で留守番してる時は、大体別の部屋にいるし、一緒の部屋にいる時は……何してたかな。勉強を教えたり、喋ったり? 喋るって言ってもな。どうせカリアラの話しかしないだろ、俺たち」 「あら、飽きちゃった? でも他の話なんてできないような気がしない?」 そんなわけないだろ、と言い返し、サフィギシルは空を見上げて雑談の口を切った。 「今日は天気がいいから、街は人が多いんだろうなー。露店が出て、あちこちで呼び込みがうるさくて。変なものの実演販売がたくさんあって、それであいつはまた引っかかって……」 みるみると眉を寄せ、悔しそうに口をつぐむ。 「引っかかったよ」 「自分でつまづいてどうするんですか、もう」 くすくすとこぼれるシラの笑みをかき消すように、彼は天を仰いで言った。 「カリアラはまた店の前で変なものの虜になって動かないんだろうなあ!」 「はいはい」 「それでまたピィスを困らせて、買うだのやめろだのもめるんだろうなあ」 「そうですね」 「……今日はあんまり金持たせてないんだよな。大丈夫かな、あいつ」 「大丈夫よ。何も買わなくても十分に楽しそうだもの」 言葉とは逆にシラの顔は寂しげなかげりをみせた。流れてきた雲の端が光に手を伸ばしたような、ささやかな色の変化。変わらず晴れる空の下、シラは独り言のように言う。 「楽しそうなのよ。本当に」 空よりも薄い瞳は遠くにいるカリアラの背を追っていた。 「人間になって、毎日がすごく楽しそう。嬉しいんだけど、良かったねって言えるんだけど、でもそれじゃあ今までの生活はなんだったんだろうって思うようになっちゃって。川の中で十九年。数えるのが嫌になって途中でやめちゃったから、本当は二十年をとっくに過ぎてる。その、私と二人きりで生きてきた間、あのひとは楽しかったのかな」 彼方に飛ぶ目を覗き込むようにして、サフィギシルが口を開く。 「そんなに長い間、川の中で毎日何して過ごしてたの?」 「……どう、だったかしら。泳いだり、生き物を捕って食べたり、眠ったり……」 口にしたのは生き物の最低限の生活だった。改めて気づいたように、シラの顔はさらに曇る。 「あとは、私が人間の世界のことを話すぐらい。水の中でいろんなことを喋ったわ。あのひとはそれをただ静かに聞いてくれて。当たり前よね、ほとんど喋れないんだから。時々音を鳴らして応えてはくれたけど、多分、話のいくらも理解してなかったんじゃないかしら」 シラの手がそっと伸ばされる。まるでそこに小さな魚がいるように、指先を空に掲げる。 「あのひとはただの魚だったから。表情もない、ほとんど言葉も喋れない、手足を動かしたり、仕草で伝えることもできないただの小さなピラニアで。反応してくれるのだって、反射的に合わせてくれていただけかもしれない」 サフィギシルは幻影を探すように、彼女の指先を見つめた。白く、しなやかに動くそれは虚しく宙をさまよっている。彼女の目は思い出を追い続ける。 「時々ね、沫を出して遊んだわ。口の先から小さな沫をたくさん出すと、水面に向かって震えながら上がっていくの。あのひとはそれをつついて集めて、大きなひとつのかたまりにして、またそれを口で壊して。何回も何回も、くるくると回りながら繰り返して遊んだわ。……でも、それだって、本当に楽しんでいたかどうかなんてわからない」 手が、そっと下げられた。寂しく膝の上に乗る。つまらなさそうに服をなでる。 「喜んでるんだ、楽しんでるんだって私が勝手に思い込んでただけかもしれない。そう思うと、なんだか虚しくなっちゃって。……つまんない。あのひと、私と一緒にいるよりも、街に行く方が楽しそうなんだもの。まるで、川の中での生活は、苦しくて退屈で面白くありませんでしたーって言われてるみたい」 うつむいた彼女の顔は子どものように拗ねていた。ひとりだけ取り残された、留守番をする幼い子。サフィギシルはどう言おうか困った様子で口を開き、閉じ、髪を掻き、眉間をつまんだ。遠くで鳥の羽ばたく音。後はただ無言の日差しが二人をもれなく照らすだけ。 このまま、気まずさがどこまでも続くかと思われたその時。シラがふと顔を上げた。サフィギシルも彼女の視線を目で追った。カリアラが走ってくる。片手に何かを握りしめ、手と足を同時に出す不器用な走り方で、遅いなりにも全力でこちらに向かって駆けてくる。 「ちょ、馬鹿、止まれ!」 予測したサフィギシルの叫びもむなしく、カリアラは干してあった洗濯物を突き抜け、次々と竿を倒し、広げてあった布団の上に力いっぱい倒れこんだ。 「あーあーあー! 何やってんだ、って踏むなー! 上を歩くな!」 カリアラは身を起こすとずかずかと布団を踏みつけていく。怒鳴られて初めて足元に気づいたようで、あ、という顔をした。 「なんだ。だから歩きにくいのか」 「そうじゃなくて、歩くな! よけろ! ああもう、最悪だ……」 サフィギシルはうんざりと布団の端を掴み上げる。土にまみれた足跡が一直線についていた。まっすぐにやってきたカリアラを見て、シラは不思議そうに訊く。 「どうしたの? まだお昼過ぎなのに……」 「あのな、いいもの見つけたから。だから帰ってきたんだ」 カリアラは右手に掴んできたものを嬉しそうに彼女に見せた。手のひらに収まるほどの、赤い筒のようなもの。やわらかい素材でできているらしく、輪郭はどこかあまい。カリアラはまるで自慢をするかのようにシラに向けて突き出して、やわらかい筒を握りしめた。 筒のてっぺんから小さな輪が顔を見せる。針金に布を巻いてあるようだ。布は水に濡れていて、輪には薄い半透明の膜があった。カリアラは膜に向かってふうっと息を吹きかける。 その途端、丸い輪から虹色の泡が飛び出した。 シラは驚きのあまりにびくりと引きつる。カリアラは真剣な顔をして、ふうっ、ふうっ、と何度も息を吹きかけた。輪の中から次々と丸い泡が放たれる。連なるように飛び出たそれらは風に吹かれてまばらに散った。 「シャボン玉か。初めて見た」 サフィギシルが感心したように言う。彼は布団を直すこともすっかり忘れてしまったようで、ぽかんと口を開いたまま泡を目で追っていた。シャボン玉は光を浴びてさまざまな色を乗せ、青い空へと消えていく。シラもまた無心にその姿を追った。 風を受けて震えながら高くのぼりつめる沫。丸く連なるたくさんの。 「サフィは初めてなのか? おれたちは知ってるぞ」 きょとんとした彼の言葉にシラはハッと息をのむ。カリアラは同意を求めるように、シラに笑みを投げかけた。 「川の中でいつもやってたんだ。シラがこれを出してくれて、おれが口でつつくんだ」 「ええ……そう。いつも、そうして」 呆けたまま答えると、カリアラは嬉しそうに満面の笑みを浮かべて言った。 「おれ、これすごく好きなんだ。陸の上でもやれてよかった」 喜びがあふれだしたような、太陽のように明るい笑顔。シラの口から言葉がもれる。 「これ、好きだったの?」 「うん。これはすごく面白いからな、楽しいからな、好きなんだ」 カリアラは不思議そうにきょとんとしてシラに尋ねる。 「知らなかったのか? いつも一緒にしてただろ?」 透明な水の中で。ふたりだけの世界でいつも。 シラは湧き上がる喜びに動かされて、口元を笑みに緩める。 「知ってたわよ。私も、大好きだもの」 そしてそのままたまらなくなったように、カリアラを抱きしめた。 「もうっ。大好き!」 「どうしたんだ? 大丈夫か?」 わけが解らずされるがままのカリアラに、くすくすと笑みをこぼす。シラは彼の手からシャボン玉の道具を取った。カリアラがしていたように、握りしめて息を吹く。水の中でそうしたように、そっと優しく彼に向けて。宙に舞うシャボン玉を、カリアラが口の先でつつく。魚だった時のように上手くはいかず、無駄な頭突きは空を切って、足をもつらせたまま布団に倒れてサフィギシルに怒られる。 「ったく、何やってんだよ」 だが文句を言いながらもその顔は笑っていた。身を起こしたカリアラも、楽しそうに笑っている。シラは地面に座り込んで低い位置から泡を飛ばした。果てのない空に向けて、ゆっくりと息を吹く。 シャボン玉はゆらゆらと揺れながら天高くに消えていく。 陸の沫は虹色に照らされて、新たな世界をのぼっていった。 |