「行けなくなったあ?」 ピィスは顔中に不満を浮かべて言った。 だがカリアラはひるみもせずに、いつも通りの平然とした調子で答える。 「うん。ごめんな。足、怪我した」 その無表情にも見える顔には言葉と違って謝罪の意志など読みとれず、ピィスは疑う目つきで彼を見る。上から下まで調べるように、じろりとした目でじっくりと。 カリアラは食卓の椅子に腰掛けたまま、気まずそうな様子もなくまっすぐに彼女を見返していた。負傷した箇所を知らせるように、ぶらぶらと右足を揺らす。 「本当みたいですよ。さっき階段から落ちたんです」 悪くなった部屋の空気に耐えかねたのか、すぐ側のソファに座るシラが助け舟を出した。 「いまサフィさんが文句たっぷりに修理の準備をしているところで」 そう言いながらシラは廊下の奥に指を向ける。その先にあるのは修理を行う作業室だ。開きっぱなしの扉の奥ではがたがたという物音が続いている。 それがぴたりとやんだかと思うと、不機嫌そうなサフィギシルが部屋から出てきた。 「片付けたぞー。カリアラ、ゆっくりでいいから自力で行け」 そう言うと、出てきたばかりの室内を面倒そうに指し示す。ピィスたちのいる居間からでもその状態はちらりと見えた。どうやら作業台には物を積み上げていたらしい。とりあえず床に積みなおしたらしく、室内はいやに散らかっていた。 サフィギシルは疲れた風情で居間に入ると、立ちつくしているピィスに言う。 「今日は後にしろよ。どうせ急がなくてもいいんだろ?」 「でももう昼過ぎになるだろ? わざわざ弁当まで作ってもらったのにさー」 食卓にはピィス持参のバスケットが鎮座している。やや大きめなその中身はペシフィロ作の昼食だろうか。ピィスは更に壁に立てかけてある釣り道具を見て言った。 「せっかく沼のヌシは本当にいるかどうか確かめようと思ったのに」 「……そんなことに付き合わせるなよ」 呆れたようなサフィギシルの言葉にもピィスがひるむことはない。 「いや居そうなんだよ本当に。カリアラなら解るだろうし」 と真剣な顔で言い返すだけ。カリアラはそんなピィスを静かに見つめていたが、唐突に口を開いた。 「シラと一緒に行けばいいんじゃないのか?」 ピィスはきょとんとカリアラを見た。サフィギシルも、いきなり話に引き出されたシラ自身も同じ目で彼を見つめる。カリアラはまっすぐに彼らを見つめ返して言った。 「今日、シラひまだろ?」 「いや、確かにこれといった用事もありませんが……」 シラは戸惑いを隠せずに、ぱちぱちと目を瞬かせる。ピィスはそんなシラをふと見つめ、途端に表情を明るくした。シラの座るソファの背に飛びつくようにして言う。 「よし! じゃあ一緒に行こう、シラ!」 「え、ええっ。あの、でも」 ピィスは相手の動揺すら押しのけるように、ひたすら明るく話し続ける。 「あ、釣りじゃなくて散歩散歩。いい場所があるんだよ。そんなにきつい道のりでもないし、最近は結構長く歩けるんだろ? な。せっかく二人分も弁当作ってもらったんだし」 「いや、あの、でも……」 シラは何かを訴えるように喋るピィスを見返すが、ハキハキと続く中には口を挟む隙などないに等しい。ピィスはシラを完全に自分の調子に引き込んだまま、振り向いてカリアラに同意を求める。 「大丈夫大丈夫。シラもさ、もうちょっと気軽に外出た方がいいよなー?」 「うん。そうだ」 カリアラは真面目な顔で頷いた。シラを見つめて落ち着かせるように言う。 「シラ、大丈夫だ。ピィスはよくわかってるから」 シラはその言葉の意味を尋ねようと口を開くが、ピィスに腕を引かれてそのまま言葉をのみこむ。 「じゃあ行こう! ほら、早く早く。あ、釣り道具ここに置いとくからなー」 「いいけどちゃんと持って帰れよ。お前そういいながらこの前も……」 「解ってるって。いってきまーす!」 サフィギシルの苦言も軽く流しながら、ピィスは昼食の詰まったバスケットを片手に持ち、あまりの手でシラを引いて問答無用で居間を出て行ってしまう。 「い、いってきます……」 シラはまだ現状が把握しきれていないような顔で、自分よりも背の低いピィスに引かれておろおろとしつつ部屋を出た。 残されたサフィギシルは離れていくピィスの声を呆れたように聞いていたが、ふと、側にいるカリアラの表情を見て訝しむ。 「……なんか企んでないか?」 カリアラは二人の出て行ったあとを見つめながら、嬉しそうに笑っていた。 彼は悪意のかけらもない無邪気な笑顔で肯定する。 「うん。企んだ」 サフィギシルはそれを見て、不可解そうに眉を寄せた。 ※ ※ ※ 導かれて足を踏み入れたのは深い森の中だった。シラはどうしてこんなことになったのか、自分は一体どうして今ここにいるのかという疑問を飽きもせずに心の中で転がしながら、数歩分先を行くピィスの後をついていく。遠くで鳥が鳴いているのがちらほらと耳に響いた。 整備されていない道がとにかく歩きにくかった。獣道、と言うほどにはひどくはないが、それでも大勢の人が日課として歩む場所ではないのだろう。ゆるやかな上り坂となったそこにはいたるところに草や木の根がはびこって、気をつけなければすぐに転んでしまいそうだ。 身を寄せ合う木々が日の光をさえぎるために、空気はどこかひんやりとしている。影がまんべんなく辺りを包み、景色の彩度を下げていた。 「しっかし、今日ここに来ることになるとはなー」 ピィスはいやに呑気に言った。シラは呆れたように心中でそれに頷く。 本当に、どうしてこんなことになったのだろうか。ついさっきまでは考えもしていなかった状況に放り込まれて、シラは困惑を隠せない。 外に出ること自体があまりないことなのだ。特に冬に入ってからは、寒さを避けて家の中で大人しくしていることばかりだった。いくら気温が暖かくなったとはいえ、慣れていないことに変わりはないのに。 「寒くない?」 ピィスがふと振り返って見つめてきたのでシラは思わずぎくりとする。どういう顔をすればいいのかとっさには解らなくて、困ったような表情をしてそれに答えた。 「……少し」 「ごめんなー。もうちょっとだからさ」 ピィスは笑顔を申し訳なさそうに歪める。ほら、と言って前方を指差した。 白く柔らかな光が木々の合間に広がっている。出口だ。いつまでも続くように思われた道の終わりがそこにあった。 「ほら、もうすぐ!」 ピィスが手を奪うようにして駆け出した。シラはそれに引かれるがまま、いくぶん遅れて走り出す。光がどんどん近くなる。薄暗かったあたりの景色が明るい陽に照らされて爽やかな色を伴っていく。出口が近づく。長かった森が終わる。 門のように両脇に並んだ木を抜けた途端、明らかに空気が変わった。 重く息を詰まらせるような湿り気のあるものから、爽やかに澄んだ清涼なものに。 視界がいきなり広く拓ける。狭い箱から大海へと唐突に放り出されてしまったようで、少々の心細さと困惑が胸を不安に騒がした。 だが、それ以上に湧き起こる感情がある。 シラは口を閉じることも忘れ、呆けたようにそれを見つめた。 一面の、花。 広い地面は足の踏み場もないほどに、淡い桃色の花に覆われていた。 じゅうたんのように広がるそれは、雪が降り積もった景色にも似ていた。 うららかな春の日差しが惜しげもなくそそがれている。白に近い花びらがそれを反射して、その場は眩しいほどに明るい光に満ちていた。 「すごいだろ」 ピィスが繋いでいた手を離し、得意そうな顔で振り向く。 シラは彼女を見返さず、ただぼんやりと花畑を見つめて答えた。 「……うん」 ごく自然にもれた言葉に、ピィスは嬉しそうに笑った。 ※ ※ ※ 「なーにが『怪我した』だよ」 シラとピィスが出て行った居間の中、サフィギシルは苦々しく吐き捨てた。 カリアラはほんの少し申し訳なさそうな顔で言う。 「ごめんな。嘘ついた」 最初から怪我などしていなかったのだ。階段から落ちたことは事実だが、そんなことは日常となりつつあるカリアラはある程度の衝撃ならば負傷を回避することができる。転び方を心得ているのだ。間違った慣れ方と言えなくもないが、今更言ってどうなるというわけでもない。 「ったく、最初から言っとけば片付けなくて済んだのに」 サフィギシルはぶつくさと呟きながら、どっかりとソファに座り込んだ。 ここ最近作業室では細かな作業が延々と続けられ、台の上にはそれによって生み出される部品が山ほど積まれていたのだ。カリアラの修理をするため、部屋の片付けを余儀なくされていたサフィギシルはいつもにもまして機嫌が悪い。 「大体花見に行きたいんだったら、別にお前を連れて行くのでもいいじゃないか」 「なんか、男連れて行っても面白くないとか言ってたぞ」 「は? なんだよその理屈」 サフィギシルは刺のある口調で言うが、カリアラは動じもせず当たり前のように答えた。 「最初はカレンに行こうって言ってたんだけどな、ひまがないからだめだって言われてた。だから釣りに行くことにしたんだ。しょうがないからって」 「……そんなところで男女区別されてもなぁ。あんな成りのくせに。ああもう、無駄に体力使うし暇にはなるし、ろくなことがないな今日は!」 逆なでられた機嫌のままに髪を掻くと、カリアラが落ち着いた声で言う。 「でも、たぶん“いいもの”見られるぞ」 「は? なんだよいいものって」 サフィギシルは不審そうに振り向くが、カリアラはただまっすぐに見つめ返すだけ。 「いいものだ」 ときっぱり言い切られ、サフィギシルは諦めと呆れの混じる盛大な息を吐いた。 つまらなさそうに口を山型に結んでいたが、意を決したように立ち上がる。 「ああもう、こうなったら今日は徹底的に片付けるぞ! 布団干すの手伝え!」 「おう」 カリアラもまた彼につられて椅子を立った。 「あと洗濯と衣替え! 晴れてるうちに終わらせるぞ!」 サフィギシルは袖をまくりあげつつ、溜まっていた家事を片付けるためきびきびと動き始める。だらけた空気と態度が引き締まった。時おり見せる完璧主義が有り余るほどにあらわれる。 サフィギシルはずかずかと廊下に出ながらカリアラを指差した。 「ついでに本の虫干しもするからな。運べよ!」 「うん。わかった」 カリアラは頷くと、大仕事を手伝うためサフィギシルの後に続いた。 ※ ※ ※ 「すっげーなー。きれーだなー」 ピィスは花の中に飛び出した。中央に荷物を置くと、入り口で立ち尽くすシラを手で招く。 「ほら、こっちの方がよく見えるから!」 「う、うん」 シラは花を踏みつけてしまわないよう、一歩一歩慎重に歩み寄った。 その間にも広がる景色を見回すことは忘れない。一面を覆い尽くす花の一つ一つは小さなもので、細く長い茎をひょろりと伸ばしていた。その根元近くには縮れた葉がおまけのようにくっついている。 シラは花を潰さないよう気をつけて、ピィスのすぐ側に座った。 「秘密基地、そのいち」 ピィスは食事の用意をしながらにやりと笑う。 「あんまり知ってる人いないみたいでさ、いつ来ても誰もいないんだ。いいところだろ」 「そう、ですか」 言葉はすべて花に奪われてしまったようだった。シラはただ飽きもせずあたりを見つめる。 花の中に入ってしまえば、そこはそれほど広い場所でもなかった。だがそれでも部屋が二つ三つは入るだろうか。すぐ近くに木々が柵のように並んでいる。まるで森の中にぽっかりと空いた広場のようだ。木に囲まれた花畑は光を浴びて暖かく輝いている。 静かだ。鳥の声が遠くからきまぐれに響く以外は、何の音も聞こえてこない。 座り込むと、近くなった地面から爽やかな草の匂いがする。ほんの少し湿ったような土の匂いも。 片隅には人気が消えて崩れてしまった小屋がつたに覆われていた。昔はここに誰かが通っていたのだろうか。だが今は完全に自然と同化していて、生活の気配すら感じられない。 「秘密基地……」 その言葉があまりにもぴったりと当てはまるので、シラはつい口元をほころばせた。 ピィスもまたそれを見て、いかにも楽しそうに笑う。 「毎年ここに来るのが春一番の楽しみなんだ。はい、じゃんじゃん食べてー」 ピィスは紙を折った皿に昼食を乗せて手渡した。衣をつけて揚げた肉に、あっさりとした色のパスタ、甘酢で炒めたらしき魚、刻んだ野菜をからめたサラダ。山のように盛り付けられて思わずこぼしそうになる。シラは頼りない手つきでそれを受け取った。 「これ、ペシフィロさんが?」 「うん。内容はオレが細かく注文したけどね。親父に任せたらさー、全部煮物になるんだもん」 ピィスはため息をつきながら、自分の分を皿によそった。 「芋の煮たやつとかさ。根菜の炒め煮とかさ。まっ茶色の弁当になるんだよね」 「好みの料理が地味なんですね」 「というか根が地味なんだよな。目立つのが嫌いだし。あ、まだまだあるから」 確かにまだまだ沢山残っているようだった。二人分には少し多いかもしれない。 シラは山盛りの料理を前に、ささやかに頭を下げた。 「いただきます」 「いただきまーす」 ピィスは指で短く祈りを捧げる仕草を取って、すぐに骨付き肉を取る。 シラは魚を口にして、初めての味に戸惑いながらものみほした。調理された食べものにはいまだに慣れていないのだ。だがそれでも二口三口と続けると、次第に美味しく感じられるようになった。くせはあるが、慣れるほどに好きになっていく味だ。 「んー、まあまあだな」 「厳しいですね」 「甘やかすとつけあがるし。一回誉めたらさ、嬉々として毎日毎日同じ料理出すんだよ。最高で一週間! それで二度と食べたくなくなった料理がいくつあることか。やっぱほどほどってのは重要だよ」 ピィスはもぐもぐと口を動かしながらも上手く喋る。だがすぐに食事に集中し始めたため、会話の糸はぴたりと途絶えた。話が消える。鳥の声が遠く聞こえる。 シラは若干の気まずさを感じながら、できる限りゆっくりと口を動かした。普段は食事など一瞬で終えてしまうのだが、気恥ずかしさや緊張がそうはするなと警告している。 生きた魚を日常の主食とする人魚は殆ど噛むということをしない。大抵の得物は一息にのみこんでしまうのだ。だから、本当はフォークなど使わずに、手でそのまま一呑みにしてしまいたいのだが……。 「味、大丈夫?」 「え、ええ、美味しいです」 どう考えても失礼にあたる上に行儀も悪い。シラは悩みを隠すようににっこりと微笑んだ。 緊張で胃がきゅうと締め付けられるような気がする。最近はまだピィスには慣れてきたと思っていたが、やはり二人きりとなるとどうしていいか解らない。作り笑いと猫かぶりはそれほど必要なくなっているのだが、素顔のまま思いきり語れるほどにはまだ打ち解けていないのだ。 どんな顔と態度で接するべきか解らない。どんな自分でいればいいのかが、解らない。 下手に口を開けないのでゆっくりと食事を続ける。そもそもどんな話をすればいいのかも不明だった。 シラは体がむずむずするような居心地悪さを感じつつ、視線を逃がすように花を見渡す。 その時、木々の隙間を縫うようにして風が吹いた。 花は細い茎を傾け、波を起こすように揺れる。淡い色の花びらが煽られるように空へと昇った。 ぴゅう、と音を立てて青い空へと舞い上がる。 風がやむと白い花弁は不規則な動きでまた地へと降り下りた。 「……きれいですねー」 感嘆のため息とともに言葉がこぼれる。緊張はどこかに消えていた。 シラはふと見上げていた格好から視線を落とす。ピィスが嬉しそうにこちらを見ていた。 「どうしたんですか?」 「ん、シラと来れてよかったなあって。花がよく似合ってる」 ピィスはあらかた食べ終わった皿を抱えてにっこりと笑った。 「きれいだからさ、すごく絵になってる。やっぱシラを連れて来てよかったー」 そう言うと、残った最後の数口分を一気に口の中に入れる。ピィスは噛み砕きながらもごもごとした喋りで語った。 「むさ苦しいとまでは言わないけどさ、カリアラとか連れてきてもなぁ。甲斐がないというか、情緒が足りなさそうだしさ。こういうところはやっぱ女の子同士で来たいから」 そういえば、女の子だったのだ。シラはつい忘れがちになる事実を確認するように、ピィスの体を上から下までじっと見つめる。少年じみた格好と、いまだ幼さを残す体つき。人間の少女のことはあまりよく知らないが、十四という歳の割には発育が遅いほうなのかもしれないと思った。 むしろ、遅れている、というよりはまだ伸び盛りのような気がする。これから時を重ねるにつれ変化していきそうな、発展のきざしが隅々に見え隠れしていた。 あまりにもじっと見つめすぎたのだろう、ピィスは面白がるように言う。 「忘れてた?」 「あ、いや、その」 「いいっていいって。そういう格好なんだしさ」 気まずさから目を逸らすと、ピィスは明るく笑って言った。 シラは今更ながらに浮かんだ疑問を口にする。 「ピィスさんは、どうしてそんな格好をしているんですか?」 ピィスの顔に一瞬の迷いが浮かぶ。彼女はどう言おうか悩むように口を渋く歪めていたが、ぽつりと答えを口にした。 「んー、なんというか……反動、かな」 「反動?」 出てきた言葉をそのまま返すと、ピィスは自分でもまだ言葉が定まりきらないように、一言一言考えながら、のろのろと語り始めた。 「オレさあ、こっちで親父と暮らせるようになったのって五年前からなんだよね。お母さんがいなくなってから、いろんな場所を回ってきたんだけどさ。この国に来る直前は母方のばあちゃんのところに引き取られてたんだ」 「五年前……」 シラは呟きながら頭の中で逆算する。まだ、十歳程度の時のことか。 「うん。それでそのばあちゃんがさあ、厳しくて。食事のマナーとかだけじゃなくて、歩き方や座り方や礼の仕方や、喋り方なんかの立ち振る舞いも全部細かくしつけられたんだよ。自分のことも『わたくし』とか言わなくちゃいけなかったりすんの。無茶言うよなあ。今まで自由奔放に好き勝手生きてきた野生児みたいな子供をさ、そんないっぱしのお嬢様に仕立て上げようとするなんて」 ピィスは苦さを浮かべることもなく、笑いながら語り続ける。 「親父の家柄がどうとかさ。暇さえあれば馬の骨がどうこうばっかりぐちぐち言われて。無茶言うなよなあ、親父の実家農家だぞ? 絵に描いたような善良な田舎者じゃねーか。それをばあちゃんがことごとく罵倒するのが嫌で嫌で。そのころ他にもいろいろあって、精神的にかなり追い詰められてさあ。だからさ、オレ、拒食症だったんだ」 ピィスはためらうこともなくあっさりと言い切った。 明るい調子で響いたそれは、まるで冗談のように聞こえた。 シラは思わずピィスの持つ皿を見つめる。こびりついたソースや並ぶ肉の骨が、大量にものを食した証拠として残っていた。ピィスは恥ずかしがるように、笑って皿を背中に隠す。 「食べたもの全部こっそり吐き出して、それでも意地になって隠してた。約束してたんだ。ばあちゃんが完璧に認められるぐらいにちゃんとした“お嬢様”をやれたら、その時はアーレルに行って親父と一緒に暮らしていいって。だから血を吐く思いで頑張ったね。どうせ反発しても勝ち目はないって解ったから、毎日毎日歯ぁ食いしばって、にっこりと上品な微笑みなんか浮かべてさ」 シラは思わずどきりとして服を握る。微笑み、という言葉が胸の奥にしがみ付いた。 ピィスはかすかな笑みを浮かべたまま、懐かしむように続ける。 「辛くて辛くてどうしようもない時はさ、夜中にこっそり抜け出して、頭に井戸の水を被ってた。真冬だったからすっげー冷たいやつ。何回も何回も繰り返して、ふらふらになってようやく眠って、朝になったらにっこり笑って『おはようございますおばあさま』」 その言葉の時だけ表情と声が変わった。いつものものとは全く違う、穏やかで上品な笑顔と言葉。シラはその変わりようにほんの少し息をのむ。 いやに既視感を感じた。その変わり方を自分は知っていると思った。 「どんどん痩せて、いつ倒れてもおかしくない状態でも毎晩水被ってて。そしたらある夜、親父が会いに来てくれたんだよ。見つかったら追い出されるからこっそりと。オレそんなこと知らなくてね、その時も水被ってびしょびしょになってて。それを見た親父が泣くんだよ。大の大人がさあ、ガリガリになったびしょぬれの娘を抱きしめてさ、ごめんなさいって謝りながらわんわん泣くの」 ピィスは父と同じ緑色の目を笑い泣きのように歪め、寒々とした冬の夜のことを語る。 「すっげー惨めでさ。オレもいっしょに泣いてさ。もう嫌だって。もうこんなのいやだって叫んで、そのまま限界がきてぶっ倒れて、何日も寝込んだ。起きたら部屋にばあちゃんと、親父と、なんでかビジス爺さんがいてさ。みんなが、もういいよって言ってくれた。嬉しすぎてどうしようかと思ったね」 その時のことを思い出すような笑顔を浮かべ、ピィスはシラに問いかけた。 「それで、この国に来て、親父と暮らすようになって、ようやくこうやって山ほど飯が食えるようになったわけですが。完全に話が逸れてるねこれ。こういう格好してる理由、解った?」 シラは少々の戸惑いを覚えながらもそれに答える。 「反動、ですか」 「うん。結局はその一言に尽きるわけだ。言葉づかいも、服装も、全部反動」 ピィスは頷きながら、持っていた皿を片付けはじめる。ため息をつきながらのように喋った。 「でもさあ、そんな反動なんていつまでも続かないんだよね。やっぱりこういう風にきれーなものとか見たらさ、女心が騒ぎ出すし。かわいい服とか飾り物とか、化粧道具を見るとわくわくするんだよ。ああこれ着たいなって。思いっきり女の子らしくしたいなって」 「だから、女装して……」 「そ。だってさあ、いきなり素のオレのままでかわいい格好してたらさ、気持ち悪いし。だからそういうときは完璧に女の子になるわけだよ。そんで港街の方まで出て思いっきり買い物とかして遊ぶの。でもやっぱりそれも長くはもたなくて、一日もすればまたこういう風に、男に間違われるような格好と言葉づかいに戻りたくなって。ずっとそれの繰り返し」 ピィスはとめどなく喋りながらも、空となったシラの皿を受け取っては片付けていく。 どこか芝居じみた、やれやれと言わんばかりの表情をして言った。 「だからさあ、両極端すぎるんだよね。二つの間をふらふら揺れてる振り子みたいなものでさ。そのどっちが本当の自分なの? なんて考えないでも答えは解ってるんだけど」 そこで、シラを見つめる。ピィスはどきりとして身を引きかけた彼女をまっすぐに見つめて言った。 「どっも本当のオレだよ。両方とも自分自身だ。男の子みたいな格好も女の子してる時の自分も、揺れてる振り子も全部ひっくるめてオレだと思う。ただ問題は『普段どこにいるか』でさ。ずーっとどっちかに留まってるわけにもいかないし、日常的にどんな言葉づかいで、どんな格好と態度でやっていけばいいのか悩むんだよね」 「そっ」 シラは思わず口を開く。そのままどっと溢れる想いをはき出すように、身を乗り出して強く言った。 「そうよねっ!!」 そして、その後でハッとして口をつぐむ。整った顔がみるみると赤く染まっていく。 「うん、悩むよなー。“どんな態度をとればいいか”」 ピィスはそんな彼女を見て、屈託なく笑って言った。 「オレ、そういうシラの方が好きだな」 その顔に「してやったり」と書いてあるような気がしたのは、被害妄想ではないだろう。 シラは気まずそうに口をとがらせて言う。 「……解ってたんですか」 「だってシラ、オレが部屋に入ったとたんに言葉づかい変えるんだもん。玄関や廊下からでも結構聞こえるもんなんだよ? バレバレだって」 聞いたとたんに悔しげに眉を寄せるシラを見て、ピィスはまた面白がるように笑った。 シラは自分が完全に楽しまれる対象となっているのを感じつつ、ゆっくりと頭を押さえる。 謀られた、と心中で呟いた。カリアラの言葉の意味が今更ながらに理解できた。 ――大丈夫だ。ピィスはよくわかってるから。 彼こそどこまで解っているのか問いただしたい気分になる。本人はただそれぞれの空気を読みとり、直感のまま向かい合わせただけなのだろうが、ここまできれいにはまってしまうとどういうことかと言いたくなる。 彼は本当は何もかも解っていて、その上で巧みに動いているのではないだろうか。そんな疑いすら持ちたくなるのだ。頭の奥では、単なる勘でしかないのだと解ってはいるのだが。 シラはついつい疲れたような息をつく。ピィスがふと顔を覗き込んできた。 目が合うと彼女は笑う。そして子供に語りかけるような、優しい目で話し始めた。 「シラもさ、別にずーっと砕けた態度でいなくちゃとか、繕ってなくちゃとか悩まなくてもいいんだよ。だってどれもシラなんだから。その時その時で、シラがしたいようにすればいい。大人しいお姉さんをやりたい時は思うがままにすればいいし、はしゃぎたい時には思いっきりはしゃげばいい。オレがいるときでもさ、遠慮しないで好きな態度をとればいいんだ。だって今は好きなようにできるんだから。一方向に留まらなくちゃなんて悩むことはないと思うよ」 シラはどこか呆けたように目の前の少女を見つめた。自分よりも小さくて幼い彼女が、随分と大人の女性のように見えた。ピィスは嬉しそうに笑う。 「笑いたいときは笑えばいい。オレたちにはそれができるんだから」 それはまるで長い冬を乗り越えた花のように。 待ち焦がれた春を迎え、思うがままに咲き誇るこの一面の花のように。 シラは、ゆっくりと頷いた。心からそうするべきだと素直に感じた。 ピィスは急に気恥ずかしそうに顔を赤らめ、照れるように人懐こい笑みを見せる。 「まあそんなのはただのオマケで、結局のところ単にオレがシラと一緒にここに来たかっただけなんだけどさ。女の子同士できれーなお花を見て、美味しいもの食べて、いいねえって。そうやって楽しく過ごしたかったんだ」 そして両手を大きく広げ、改めてその花畑を示した。 一面に広がる淡い花、存分に咲き乱れる春のしるし。 シラはふつふつと湧き起こるものを抑えきれなくなって、ためらうように口を開く。 「あの、ね。笑うけど……いい?」 「どうぞどうぞ」 ピィスは楽しそうに笑う。シラは恥ずかしそうに更に尋ねた。 「きゃー、とか、ひゃー、とか。叫んで、転がったりしても、いい?」 「うん、オレもやりたい。やろっか」 そう言うと、二人は合わせたように同時に笑う。 そして揃って甲高い声をあげて、花畑に飛び込んだ。 見合わせてまた笑う。明るく楽しく思う存分心の底から声をあげて。 飛び散った花びらをてのひらで掛け合った。きゃあきゃあと騒ぎながら白い花弁を空に撒く。 そしてまた、笑う、笑う、笑う。 たてまえも格好も全て捨てて、彼女たちは好きなだけ、思うがままに楽しんだ。 ※ ※ ※ 夕日の差し込む部屋の中は、あらゆる限りの手法で掃除し尽くされていた。 サフィギシルは満足そうに整頓された部屋を見渡す。 「終わった……」 「すごいなー、ものがないなー」 カリアラが窓からひょいと顔を出した。整った居間の中を覗き、抱えた布団をどさりと投げ込む。積んでいた紙類が勢いよく崩されて、サフィギシルは批難を叫んだ。 「あー! 馬鹿、そこから入れるな!」 「だってあっちからだと遠いぞ」 カリアラは布団を全て居間の中に押し込むと、きょとんとして窓から中に入り込んだ。 「そしてお前もそこから入るなー! 靴拭け靴!!」 干したばかりの布団やシーツに見事にどろがこびり付く。カリアラはサフィギシルがどうしてそんなに怒っているのか解らないというように、布団の海に座り込んで首をかしげた。 「だってあっちからだと遠いぞ」 「そういう細かい労力を惜しむな! とりあえずそこからどけ!」 「そうか」 と平然とした様子で言って、とりあえずは布団をおりる。サフィギシルがぶつぶつと文句を言いつつ片付けに入っていると、玄関からいやに明るい話し声が聞こえてきた。ピィスと、シラだ。サフィギシルはいつもとは違う彼女の様子に目をみはる。 「ただいまーっ!!」 部屋のドアが勢いよく開かれて、弾けるような笑顔の二人が声を揃えて入ってきた。 その髪にはお揃いの花飾り、首には花の首飾り。彼女たちは言葉を失うサフィギシルを見て、きゃあきゃあと楽しそうに笑う。 「うん。おかえり」 カリアラは動じもせずに当たり前のように答える。 そして軽く振り返り、サフィギシルに向かって言った。 「な。“いいもの”見れただろ?」 サフィギシルは軽く頬を赤らめたまま、彼の肩をがしりと掴む。 「よくやった」 「そうか」 途端に機嫌の良くなった家主を見て、カリアラは嬉しそうに笑った。 シラとピィスはいつもとは違う表情をして、持ち帰った花の細工を取り出しては笑顔で語らう。 カリアラに花輪を被せ、嫌がるサフィギシルを花で飾って、またきゃあきゃあと明るく騒ぐ。 それは、まるで花が咲くように。 閉じ込めていた華やかな色を存分に咲かせるように、彼女たちは楽しそうに笑い続けた。 どんなに長い冬のあとでも、春が来ればはなひらく。 |