※パラレルですのでバレンタインが存在するという設定でお読みください。 街の中はいっそ笑ってしまうほどに甘い香りに包まれている。あちこちに飾られたハートにリボンに愛の言葉。ジーナとアリスはそれらにいささかげんなりしながら、チョコレート色に染められた通りを歩いていた。両手には紙袋。記された店の名前は、街の中でも有数の菓子専門店のものだ。覗いてみれば包装された小さな箱が詰められているのがわかるだろう。ジーナは職場に配る義理チョコレートの袋を振って、しみじみと呟いた。 「バレンタインも、静かになったなあ」 「えー。こんなに騒がしいのにー」 アリスはすでに疲労から足取りすらよろけている。休日の港通りはまっすぐに歩くのも難しいほど人が多い。人気のある有名店、しかもバレンタイン期間となればその混雑はおそろしいほどに膨れあがる。そんな怒涛の人の波をくぐり抜けた直後にしては、ジーナの様子は不思議なほどに爽やかだった。まるで清々しい自然の恵みを堪能しているかのような。 ジーナは遠くを見つめて言う。 「今年はチョコをくれだのやっぱり体がいいだのと騒がしい奴もいないしな……」 「あー。大変だったんですねえ」 「それはもう」 力強く肯定しながら歩いていると、道の先に見知った顔を発見する。アリスが大きく手を振った。 「リドーさーん。こんにちはー」 リドーは二人を見とめて会釈をし、ふと、彼女たちの手もとにある紙袋を見て凍りつく。そして青ざめたかと思うと背を向けて逃げ出した。 「あっ。リドーさん! ちょっと!」 「うわあ早ーい。先輩がんばれー」 「バカ、お前も行くんだ! リドーさん、待ってください!」 人ごみに慣れきった街兵士の足は早く、行き交う人の頭や体に次々紛れこんでいく。ジーナもまた地元民として素早く人をかき分けながら、アリスの手を引いて走った。 足の速さはリドーに軍配が上がる。だが哀しいかな、彼は身に染みついた仕事柄持ち場を離れることができない。彼は生真面目な自分自身の性格に、疲れたように頭を抱えた。 ジーナは弾む呼吸を整えながら、チョコレートを彼に差し出す。 「……受け取ってください」 断ることを許しはしない迫力が付随していた。リドーは小奇麗に飾られた包みを恐ろしげに見つめている。手に取ろうとしない彼に、ジーナはさらに念を押した。 「他意はありません。日ごろの感謝とこれからもよろしくお願いしますという気持ち、そしてどこぞの馬鹿がかけた迷惑に対する謝罪を込めてお渡ししています。あのころは本当に申し訳ありませんでした」 腰を折って、深い深い礼をする。ジーナは顔を上げると力強く言いきった。 「大丈夫です。もう受け取ったからと言って脅されることも、つきまとわれることも連れ込まれることもないんです。それを証明するために、皆さまの恐怖心を拭うためにこうして回っているんです」 「回って……」 「ええ。もう十七件ほど。あなたで最後です。さあ、受け取ってください」 差し出された箱を見るリドーの目に力はない。眉間を弱く押さえて呟く。 「昨日の夜、夢を見て……あいつが笑顔で脅しに来る夢で。それが、どうしても頭の中に……」 「皆さんそう言うんです。ですがそれは恐怖心と思い込みが見せる幻。現実には呪われることはありません」 さあ、と言ってジーナが箱を突き出すと、リドーはおそるおそるといったようにゆっくりと受け取った。ジーナは安心したように詰めていた息を吐く。表情も自然とやわらぎ、穏やかな笑みを浮かべた。 「よかった。今まで本当に申し訳ありませんでした」 「いえ、こちらこそすみません。ありがとうございます、いただきます」 リドーはつられるように落ち着きを取り戻し、慌てて頭を下げ返した。よそよそしい大人同士のやり取りに、アリスがのんきに入り込む。彼女はリドーにチョコを渡して言った。 「こっちはあたしからですー。よかったですね先輩、あと何個ですか?」 「会社と身内合わせて二十五。リドーさん、サフィギシルたちを見ませんでしたか? 家にはいないようですが」 尋ねられるとリドーは意外な顔をした。 「え、知らなかったんですか? いや、てっきりこれもそっちで作ってきたものかと……」 「は?」 リドーは戸惑いながらも一点を指さした。地域に属する集会場の入り口だ。臨時に作られたらしき看板には、ささやかながらもはっきりとこう記されている。 手作りチョコレート教室 講師:サフィギシル・ガートン ジーナは一瞬の硬直ののち、集会場の入り口にわきめもふらず突進した。 「たのもー!!」 力強く扉を開けて殴りこむように怒鳴る。料理設備が備えられた部屋の隅で驚く人影。ジーナは大股で近づくと、彼の肩を強く掴んだ。 「どういうことだ? ああ?」 「痛い痛い痛いって! な、なんだよ、道場破りみたいに……」 サフィギシルはチョコレートの跡が残るボウルを抱え、気まずそうに目を逸らした。 「そりゃいきなり目の前にこんな看板があったら飛び込むだろう! 何か言わなきゃ気がすまないだろう! 笑うところか? これはお前の人生で笑うべきところなのか?」 ジーナは改めて集会場の中を眺めた。もう講義は終わった後なのだろう、あちこちの机の上はきれいに片付けられている。だが隅には使い終わったばかりの道具が山のように積み置かれ、それを目算しただけでも結構な人数が学びに来ていたことがわかる。サフィギシルは後片付けをしていたところだったのだろう、手が泡にぬれていた。チョコレートや粉類に汚れてしまったエプロン姿に違和感はない。 「……なんでまたこんなことに」 「いや、俺もよく解らないんだけど。魔術技師の集まりでバレンタインの話になってさ。その家の娘さんがチョコレートが上手く作れないって言うから、じゃあ教えてやれよとかピィスに言われて。なんとなく承諾したら、場所はこっちで用意するからとか、友だちも呼んでいいかとか……そのうちに人数が増えていってこんなことに」 「それは女の子に人気があるということでいいのか」 「いや、みんな本命の別の男のために頑張ってて、俺はそれを応援する立場ってことで」 「お前はそれで幸せなのか?」 本気で訊くが、サフィギシルはそれなりに平然とした顔をしている。 「まあ、これが何かの役に立つんならそれはそれで。下は七歳から、上は六十代のお婆ちゃんまでがさ、みんな不器用なりに頑張って、完成したら先生ありがとうって笑ってくれて。疲れたけどそれなりに楽しかったよ。でもどうしても納得がいかないことが一つあってさ」 彼は喋りながら奥にある控え室のドアを開けた。 「俺はほとんど貰ってないのに、こいつこんなに大量なんだよ」 小ぢんまりとした部屋の中では、カリアラが山盛りのチョコレートと格闘していた。ジーナに気づいて挨拶をしようとするが、茶色く染まった口の中に音を挟む隙はない。カリアラはひどく虚ろな表情で、黙々と汚れた口を動かした。机の上には可愛らしい包装のもの、紙に包まれただけのもの、皿に乗せられたものなどがずらりずらりと並んでいる。数として二十から三十はあるだろうか。ジーナの持つ袋の中身と数だけで言えば変わりはない。 「な、むかつくだろ」 「いやむしろ大変そうというか……目が死んでるぞ?」 カリアラは意識があるのか危ういほどに単調な動きを繰り返している。口に運ぶ、咀嚼する、ごくりと飲み込む。そうしてまた手を伸ばすが視線は彼方に固定されて、もはや触れたのがチョコだろうがリボンだろうが間違って食べかねない勢いだ。 「大丈夫なのか? カリアラ、おい、カリアラ」 心配になって体を揺すると、カリアラはそこでようやく動きを止めて呟いた。 「……体が茶色くなる……」 暗く、低く、哀しいほどに痛々しい響きだった。カリアラは悲壮な顔で見上げて言う。 「だめだー。おれはもうだめだー。残していいか? 残していいか?」 「何言ってんだよ、せっかくみんなから貰ったんだろ。もらったチョコレートは一つ残らず食べるのがバレンタインのルールなんだよ。さ、まだまだあるぞー」 サフィギシルが間に入って意地の悪い笑みを浮かべた。明らかな大嘘も、人間の常識に疎い魚には看破できない。カリアラはなんとかして逃れようと、必死に反論の言葉を探す。 「で、でも、お前も貰ったけど食ってないぞ」 「俺は片付けがあるから後で食べるんだよ」 「ピィスのは捨ててたぞ」 「あれは俺の基準から見てチョコレートとは認めない」 どんなものを作ったんだ、というジーナの声は黙殺されて、残されたのは大量のチョコレート。うなだれるカリアラにさらにとどめを刺すように、大皿を抱えたシラが部屋の中に飛び込んだ。 「できましたよ、第五弾!」 かわいらしい薄ピンクのエプロンが目に眩しい。嬉しそうに染まる頬も微笑みも、息を呑むほど華やかだった。だがそれよりも強く視線を引き付けるのは、皿の上に乗せられたチョコレートまみれの魚。まだ死にきっていないそれは、びくびくと跳ねるたびにかけられた茶色の液を皿中にまき散らしていた。 ジーナは個人的な諍いも思いも捨てて、心から彼女に尋ねる。 「その不気味な物体は、なんだ?」 「特製のチョコレートです」 そうくるとは思ったけれど、まさか真顔で言われるとは。ジーナは言葉を失って、ただただその生きたチョコレートを凝視した。青光りする銀の体がところどころに見え隠れして、生々しいことこの上ない。どうやら口からチョコレートを詰め込まれているようだ。魚がぴくりと跳ねるたびに口から茶色の液が出た。 「さあ、食べて」 甘い甘い声色と共に魚チョコが差し出される。カリアラは青い顔で呆然とそれを見つめた。 「さあ」 「し、シラ……おれ、これはもう」 「さあ」 カリアラはぐうともううとも読みとれない声をもらし、魚を掴むと頭から飲み込んだ。深く深く眉を寄せて、喉の奥のキバで潰す。不気味な音にあわせるように、彼の顔も一気にしわの数が増えた。 「どう? おいしい?」 「……ぐちゃってした……なんかいっぱいでてきた……」 カリアラは今にも倒れかねない表情で、ぐったりと頭を落とす。シラはそれにも構わずに笑顔で部屋を出て行った。 「じゃあ、もう一回作ってきますね!」 「ああっ、し、シラー!」 縋るように声をかけても彼女はすでに部屋の外。よろめく彼を、サフィギシルは冷静に眺めて言う。 「俺の分析としては、ああやって自分のわがままがどこまで通用するか実験して、主従関係を再確認してると思うんだけど。ジーナさんはどう思う?」 「同意だな。しかも純粋に本心から楽しんでる」 どこまでも言いなりになる彼は、シラにとって面白いおもちゃなのだろう。 「いつもは俺が何かしたらすぐに止めるくせにな。珍しく料理なんてするもんだから、気が大きくなって自分でもわけが解らなくなってるんじゃないか?」 「一種の高揚状態だな。一体どこまで続くのか……」 昼食を取りに川上まで泳いでいくような生き物なのだ、暴走を始めたらどこまで行くかわからない。カリアラは今まで以上にうつろな顔で呆然と肩を落としている。机の上のチョコレートはまだまだなくなる気配がない。ジーナはため息をついて言った。 「……ほどほどのところで止めてやれよ」 「贅沢者には厳しくしないと。いいじゃないかたくさん貰えて。俺なんか教室のおこぼれをなしにするとこれだけだぞ?」 サフィギシルはぶつくさとこぼしながら、部屋の隅に置いてあった紙袋を取る。中には大きな箱が入っていた。彼はジーナに見せるために、取り出してふたを開ける。中には丁寧に包装された包みが四つ、きれいに並べられていた。中身はチョコレートなのだろう。たしかに数ではカリアラに負けている。 だがそのひとつひとつは随分と質のいいものであったり、安手ながらも懸命に飾り立てたのがわかるようないじらしい物であったり、と見るからに義理ではなく本気のこもったものばかり。ジーナは思わずまじまじと見つめてしまう。中にはカードを添えられたものもある。何を書いてあるのか知りたいが、本人にまだ開封する気はないようだ。気になるが、見なかったことにする。 「いいじゃないか。これだけもらえれば」 本心からそう言うが、サフィギシルは不満そうにカリアラの方を見た。山積みになるほどのチョコレートは、つきあいの広いカリアラだからこそなのだろう。だがその包みは大量生産のうちのひとつであったり、見るからに安いものであったり、中にはあぶれたひとつだけをよこしたらしきものもある。サフィギシルは量では負けるが、質で比べてみたとすると。 「いいよなお前は。いっぱいもらえて」 いかにも拗ねた様子の彼は、まだそのことに気づいていない。下手をすればしばらくは気づかないままかもしれない。教えるのは簡単だが、ジーナはあえて黙っておいた。身内としてのささやかな嫉妬心と、事態を楽しむいたずら心がそうさせた。 「じゃあ、ひとつ足してあげようか」 笑顔で言うと、サフィギシルは嫌そうに眉を寄せる。 「別にいいよ。同情するなよ」 「そうじゃない、最初からあげるつもりだったんだ。ほら」 ジーナは袋の中から青い包みを取り出して、戸惑う彼に手渡した。そのままもうひとつ、用意してきたものをカリアラに向かって投げる。 「ああっ! 干物だ!」 見事に取ったカリアラは、リボンで尾を結ばれた魚のひらきに表情を輝かせた。チョコレートの沼から這い出したような顔で、ひらきをぎゅうっと握りしめる。 「ありがとう! ありがとう!!」 「すぐそこで安売りをしてたから、喜ぶかと思って。甘いものがつらくなったら、それを食べて頑張れ。一応、チョコレートも用意しておいたんだが……」 途端に沈んだカリアラを見て、ジーナは発言を撤回した。 「……いや、まあ他に回すさ。気にするな」 カリアラはまたしても嬉しそうに、そわそわとひらきを揺らす。 「ジーナ、これはこのまま食ってもいいんだよな!? なみなみのチョコレートにつけたり、チョコレートを挟んで焼いたり、チョコレートケーキの中に混ぜなくてもいいんだな!?」 「お前は一体どんな拷問を受けたんだ」 「やり慣れない料理が楽しいらしくて、いろいろやってたからな……」 シラの攻勢を見ていたらしきサフィギシルが、どこか遠くを見つめて言った。彼はジーナにもらったチョコレートを直視することができず、恥ずかしそうにちらちらと横目で探る。照れくさそうに顔をそむけて呟いた。 「身内から貰ってもなあ……」 だが言葉とは裏腹に嫌がっている気配はない。ジーナはしつけの口調で言った。 「ありがとうは? 他の人にもちゃんと言えたか?」 「言えたよ。馬鹿にすんなよ。ありがとうございましたっ」 「よろしい」 口に笑みを含ませると、サフィギシルは悔しそうに目を逸らした。箱の中のチョコレートをこまごまと整理して、開けた場所にジーナからの包みを入れる。丁寧にふたをして、そっと袋の中におさめ、大切そうに部屋の隅の安全な場所へと避難。いじらしい一連の動きにジーナは知らずと微笑んだ。 「……なんだよ」 「いや、別に? いい子に育ったなあと思って」 「なんだよそれ、気色悪い」 きまり悪い呟きを叱りつけるように小突き、ジーナは部屋を後にする。サフィギシルの文句とカリアラの作業音が遠く聞こえた。 ※ ※ ※ 職場の分を全て配り終えたところで、アリスが空の袋を見せた。 「あたしのはこれで終わりですー。先輩は?」 「あと三……いや、四個だな」 ジーナは残りを目で数える。渡し損ねたカリアラの分がひとつ丸々残っていた。こちらの袋を覗きこんで、アリスが不思議そうに言う。 「どうして一個だけ高価いやつなんですかー? 本命チョコ?」 目の先にあるのは、見るからに他の物より高価なものだ。同じ店で買ったアリスは値段の差を知っている。 「いや、これは自分で食べるやつだから」 「うわあ正直」 いつも通り変化のない顔で言うと、アリスは空になった袋をたたんだ。 「まあ、自分で食べたくなる気持ちもわかりますけどねー。こんなにいっぱいあるのに、自分だけ食べられないなんて損だもの。あたしも後で自分用に買っておこーっと」 「お前は本命はないのか?」 「男はもういいです。あと十年ぐらい必要ないって思うぐらい」 意外な言葉に目を丸くしていると、アリスは冷めた声で言う。 「一度タチの悪いのに付きまとわれたら、二度といらないとか思いません?」 「……思うなあ……」 ジーナは頭を抱える思いで深く深くうなずいた。 「あたし、別れた今でも『どうか押しかけて来ませんように』って毎日のように祈ってますよ」 「そうそう、祈ったなあ……! いや、別れる前だが。実際毎日押しかけられたが」 次々と蘇る思い出に眉間のしわを深くする。ジーナは感慨深くアリスを見つめた。 「初めてお前と解り合えそうな気がしたよ」 「先輩って時々やたらと正直に物を言いますよね」 冷静なアリスの言葉に目を逸らし、ジーナは遠くを見つめて言った。 「じゃあ、さっさと配り終えるとするか」 ※ ※ ※ 「予想と覚悟はしていたものの、実際に見ると腹が立つ光景が目の前に広がっています」 ジーナはどこまでも平坦な表情で吐き捨てた。 「なんでそんな説明口調に。敬語だし。ねえ」 ピィスが腕を揺すっても顔つきを変えることはない。遠い目をしたままで続ける。 「何が悲しくてこのほのぼのとした親子の中に混じらねばいかんのでしょうか」 「言葉づかいおかしいよ? ねえ本当に大丈夫?」 「大丈夫。ちょっと無条件に腹立たしくなっただけだから。コラそこのやもめ! でれでれしてないで客を敬え!」 「え、なんですか?」 本気の怒声を浴びせられてもペシフィロは笑みを休めなかった。嬉しくて嬉しくてたまらないらしく、顔つきは幸せそうにゆるゆると緩んでいる。その手には大切そうに抱えられた、手作りのチョコレート。愛娘特製のどす黒い色の塊だ。 「どうしよう。ペシフが壊れた」 「うん。オレもまさかあれを喜ぶとは思ってなかった。すごいね」 皿の上にべっとりと貼りついたそれはどう見てもチョコレートとは思えない。川の中のへどろが飛んで皿の上に載ったんです、と言った方がいくらか信じてもらえるはずだ。だがペシフィロは構いもせずに、心の底から喜んでいる。製作者であるピィス自身は熱く捧げるわけでもなく、どちらかというと冷めた目で浮かれる父を眺めている。 「サフィにさー。あれ見せたら人格否定の勢いで罵られたよ。人見知りするくせに、身内には口悪いよなあいつ」 「気持ちはわからないでもないなあ……ペシフ、それ本当に食べるのか?」 「親父、無理しなくていいよ。どう考えてもお腹壊すよ」 真剣に心配して言葉をかけるが、ペシフィロは真面目な顔で言いきった。 「大丈夫です。明日は寝込んでもいいように休みを取りましたから」 「お前、そんなことで休暇を取られる職場の身にもなってみろ。腹立つぞ? 一日で治らなかったらどうするんだ。むしろ死んだらどうするんだ!」 「そこまで!? ……いやそこまでかもしれないけど!」 ピィスとしては文句の一つも言いたそうだが、きっぱりと大丈夫だと言える自信もないらしい。だがペシフィロは笑みを絶やすことのないまま答えた。 「平気ですよ。食用だと騙されてくらげを食べさせられても一晩で直りましたから」 ジーナが素早く目を逸らす。ペシフィロはしみじみと思い出を語り始めた。 「人が海に疎いからって、小さく切った砂混じりのものをそのまま食べさせられましてねえ……いやあ水くらげまではまだ良かったんですが、その中に毒性のものも混じっていたらしくて。全身が痺れてあわや死ぬかと」 ジーナは彼方を見つめたままいやにうつろな声で言う。 「ひどいことをする子どももいるものですねー」 「ジーナさん、その時点で犯人が子どもだってばれてるよ」 もはや誰と宣言せずともわからない者はいない。ペシフィロは懐かしそうに語り続ける。 「他にも服の中にくらげを入れたり、くらげを投げつけてきたり、眠っていたら早朝から部屋に忍び込んで、顔面にくらげを被せたり……」 「くらげ大好きかよ」 呆れきったピィスの言葉に、ジーナが熱く反論した。 「ばかやろう、あんな捕まえやすくて面白いもの、海っ子が活用しないはずがないだろう!」 「なんか変な用語出てきた! 海っ子とか言いだした!」 驚くピィスに構わずに、ジーナは昔を語り始める。 「港側の子どもと街部の子どもは常に敵対していて、砂浜でくらげを投げ合うくらげ戦争で対決したり……」 「知らないよそんな地方色豊かな遊び」 「投げるときはくらげの背の部分を手のひらで支えるんだ」 「いや本気でどうでもいいから。やらないからそんなこと」 ああ海に行きたいなあ、と責任を逃れるように呟いて、ジーナは小さな包みを取り出す。きれいに包装したそれをペシフィロに差し出して言った。 「というわけで愛をお前に。結婚してくれ」 「だめです」 ペシフィロは笑みを崩しもせずに言いきる。チョコレートの包みを取ってあしらった。 「気持ちとこれだけいただきますね」 「聞いたかピィス! 悩む間もなく即答だぞ!」 「いや、オレとしてもジーナさんがお母さんってのはちょっと……」 言いよどむピィスを睨んだジーナに、ペシフィロがたしなめるように言う。 「そういう冗談を続けていると、できるものもできなくなりますよ。その言葉は本気の時だけに取っておきなさい」 「本気でも断るくせに」 小さく口を尖らせると、ペシフィロは困ったように苦笑した。ジーナは呆れたように言う。 「ピィス、こんな親馬鹿は貴重だぞ。大事にしてやれ。そして嫁に行くときに思いっきり泣かせるんだ。あのころはとてつもなくまずいチョコレートを嬉しそうに食べたなあ、とか思い出して感涙させろ」 「さりげなく酷いこと言うなあ。そりゃあの見た目で美味かったら奇跡だけど」 「娘からもらったものは、何であろうと嬉しいものなんですよ」 ペシフィロは相変わらず幸せそうな笑みを浮かべ、そっと囁くように言う。 「どんな父親でも。そうじゃありませんか?」 ジーナは途端に顔を歪め、忌々しげに彼を睨んだ。 「……なんだ、その言い方」 「いえ、別に」 ペシフィロは笑いながら煙に巻く。腑に落ちないものを感じながら、ジーナは袋の取っ手を握った。 チョコレートは、あと三つ。 ※ ※ ※ 「それでベキーがさあ」 とろけそうな笑みを浮かべる客人に、店主はうんざりと顔をしかめた。 「お前の馬鹿げたのろけ話はもういらねえよ。さっさと帰ってベキーの髪でも梳いてこい」 しっしっと手を払うと、ベキーの主人はつまらなさそうに頬をかく。今日は彼の露店は休み。こんな日は決まってこの薄暗い部品屋に居座るのが常だった。店主はすでに恒例となりつつある行いに、かなり嫌気がさしてきている。店の中に吊り下げた人型細工の髪材や、腕の部品を見上げて言った。 「ネジひとつでいつまでも居座るのは客じゃねえよ。ったく、バレンタインだってのに木人形に構ってるんじゃねえっつの」 「まあ今は木人形呼ばわりでも、いつかはベキーをこの手で立派な妻として完成させて……」 「百年かかるな。いや、千年は必要だろ」 店主はカウンターに足を乗せて吐き捨てる。傍に置いた魔石の箱ががたりと小さな音を立てた。 「独り者は心が狭くて困るねえ。奥さん出てってもう何年になるっけ」 「うるせえな、思い出させんなよ」 「そろそろ新しい愛に目覚めたら? 僕がベキーを見つけたように」 「んな面倒なことしてられっかよ。いっぺん噛み付かれたらなあ、女を家に入れようなんて……」 言いかけた言葉は犬の声に止められる。警戒のものではない。じゃれつくような甘える声と、それを諌めるささやきが庭の方から聞こえてきた。店主はがばりと身を起こし、慌てて奥の居住場所へと駆け込む。 一足早く何者かが逃げる気配。店主は開いたままの裏口を掴んで見回すが、人影はすでになく、慌てて去る足音だけが裏通りに響いていた。木製の犬が鼻を鳴らして服を噛む。引かれるがままに見てみると、廊下の隅にひっそりと小さな包みが置かれていた。 小奇麗に包装された薄い箱。開けてみるとチョコレートだ。 「あんの、ばかやろうが……」 店主は犬の頭を叩くと、口元を笑みにゆるめた。そのままじゃれつく飼い犬を嬉しげに撫で回した。 ※ ※ ※ 一日に二度も全力疾走したせいで、膝ががくがく笑っている。ジーナは倒れそうになりながら、暴れる胸を押さえつけた。急な運動と緊張で貧血になりそうだ。 「危なかった……」 もう少しで見つかってしまうところだった。それだけは、避けたかった。 余ったからだ、と自分自身に言い聞かせる。カリアラにあげるはずだったものが余っていたから。二箱も自分で食べるのはさすがに嫌だったから。言い訳のように繰り返し、袋の中を確認した。チョコレートは、あと二つ。次の場所はまだ遠い。ジーナは疲れた体に気合をこめて、目的地へと歩きだした。 到着したころには、もう日が暮れかけていた。ジーナはうつむいていた顔を上げ、高くそびえるそれを見つめる。門のように立てられた三本の白い石柱。その中央部に据えつけられた墓石には、長い長い四十八の名前が刻まれている。 ビジス・ガートンの墓。今は人の影こそないが、大量の花や捧げ物が山のように積まれている。時節柄、チョコレートらしき包みはいくつもあった。ジーナはその一番上に、そっと自分の包みを置く。これもいつか回収されてしまうのだろう。だが、何もしないでいられるほど心の整理はついていない。 ジーナは軽く黙祷し、その足で奥の一般墓地へと向かう。暮れかけた墓地の中に人気はなく、風の音すら響かない。おそろしく静かで寂しい場所。彼の墓はその一番奥にある。ジーナは物言わぬ墓石を見つめた。彼の父親とは違い、こちらには花もない。 ひんやりとした石の上に、チョコレートの箱を置く。一番高価な最後のひとつ。ジーナは小さく黙祷すると、置いたばかりの捧げ物を取り上げてどっかりと座り込んだ。墓石に背を預け、乱暴に包みを開ける。そして現れた一番美味しいチョコレートを口の中に放り込んだ。目を閉じて、ひとつひとつ味わいながら、ほろ苦く甘いそれをかみしめた。 |