番外編目次 / 本編目次


 ぱた、と硬い紙のカードが裏返される。あらわれたのは単純な線で書かれた数字の三。カリアラはそれを見て、困ったように眉をしかめる。
「……えーと」
 時間稼ぎの無意味な言葉をからかうように、シラは小さな笑みをもらした。
 面積が広いために、半分以上を物置代わりにされているカリアラの部屋。二人はその木敷きの床に座り込み、互いの間に並べられた沢山のカードを見つめている。出されているのは紺色に塗りつぶされた紙の裏面。ひっくり返した表側には一桁の数字がひとつ記されている。
 これといった装飾もない小さなカードは、カリアラがはやく数字を覚えることができるように考案されたものだった。カードを交互にめくっていき、あらわれた数字を音読する。それができればもう一枚選んでめくり、あらわれた数字と最初の数字を足して答える。答えられれば二枚とも自分の手札、答えられなければ相手の手札。最終的に手に持つカードの多い方が勝ちである。
 当然、計算の苦手なこの元ピラニアがろくに勝てるはずはない。ゲームを考案したピィスも、カードを作成したサフィギシルもあまりにもやりがいがないので早々に投げてしまい、いまではこの遊びの相手をするのはシラだけになってしまった。
 カリアラは追いつめられた表情で、現れた数字を口にする。
「さ、さん」
「よくできました。じゃあ、こっちのカードと足したらいくつ?」
「うーん……えーと……」
 シラは困り果てるカリアラを見てくすくすと楽しそうに笑った。
「ほら、六足す三は?」
「ろ、ろくさん」
「だーめ。そんな数字ないでしょ」
「……わかんねえ。負けだ」
 カリアラは匙を投げて二枚のカードをシラに渡した。始まってしばらく経つが、彼の手もとに持ち札はない。シラは自分のカードを手に取って見せびらかした。すでに十枚近くとなったそれを見て、カリアラの顔は困ったように弱くなる。シラは優しく苦笑した。
「あと半分。全部取ったらあなたの勝ちよ」
「でもおれ取れたことないぞ。これ、難しいぞ」
 確かにいまの彼の知能にとってはあまりにも難題だろう。単純な計算以前に、まだ数字の読み書きすらもどこか危うい程度なのだ。シラもまた困ったように形のよい眉を下げ、床に残るカードを眺めた。
 その顔が、ぱっと明るくなる。シラはたくらみごとを持ちかける子どものような顔をして、カリアラに提案した。
「そうだ。じゃあ、なにか賭けない?」
「かけ?」
「そう。あなたが勝ったら私がなんでも言うことを聞いてあげる。私が勝ったらあなたが私のお願いを聞いてくれるの。ね、そうしたらきっとやる気が増えてうまくいくわ」
 カリアラはしばしの間彼女の言葉を噛みしめるように転がすが、自分が圧倒的に不利であるとは気づかずに、あっさりと承諾する。
「わかった。やる」
「じゃあ勝ったら何をして欲しい? 何でもいいのよ、考えて」
 カリアラはしばらくの間真剣な顔で悩んでいたが、ふと思いついたように口を開く。
「魚食いたい」
 シラは怪訝に首をかしげた。
「さっき食べたばかりじゃない」
 夕食は焼き魚にトマト風味の野菜ソースをかけたものだった。当然のごとくサフィギシルが作ったそれを食してからまだいくらも経っていない。だがカリアラはめずらしく不服そうに言い返した。
「熱いやつじゃなくてぬるいやつ。焼いてなくて、生の魚が食いたい」
「焼き魚も美味しいのに」
「あれも食えるけど、おれ、やっぱり生の方がいい。熱いのはいやだ」
 人間の体になっても味覚の好みは変わらない。食欲の幅が広い人魚とは違い、ほぼ雑食とはいえピラニアにとっては熱を加えた魚など理解しがたいものなのだろう。
 そういえば、魚を焼く直前からサフィギシルに文句を言っていたような気がする。文句というか、自分の分は生のままでと頼む彼と、これはもう古いから熱を加えないとだめだと主張する主夫のたしなめだったというか。熱いものが苦手なふたりのために、サフィギシルも出来る限りは冷製の料理を選択している。だがやはり複雑な味のついたものが長く続くと川の味覚が恋しくなるものだ。シラはカリアラを元気付けるように言った。
「じゃあ、あなたが勝ったら獲ってきてあげるわね」
「そうか」
 カリアラは嬉しそうに笑った。続けて彼女に問いかける。
「シラは何をしてほしいんだ?」
「そうねー。何をしてというか、欲しいもの、かなー」
「何がほしいんだ?」
 無防備な彼の表情を目にした途端、小さないたずら心が湧いた。
 シラは顔を近づけて、彼の目を見てにやりと笑う。
「私、あなたが欲しいわ」
 カリアラは思いきりびくりと震えた。
「く、食うのか? 食うのか?」
「さー、どうでしょーう」
 怯えきった表情でおろおろと訊いてくるのが可愛くてしかたがなくて、意地の悪い言い方をする。カリアラはそれでますます怯えてしまい、弱々しい小魚の顔で言った。
「食われるのか? おれとうとう食われるのか?」
「……あなたが私のことをどう思っているのかちょっとだけ解ったわ」
 うっかりともらしてしまった失言にも気づかずに、カリアラはただうろたえるばかり。シラは自分の手札を示して言った。
「大丈夫、あなたが勝てばいいだけよ。さ、はりきっていきましょう」
「か、勝てばいいのか? 勝てばおれ生きられるのか?」
「そうよ。だから頑張って」
「そうか」
 可笑しそうなシラの笑みの意図にも気づかず、カリアラは真剣な顔で頷く。
 そして死を目の前にした生き餌のように、覚悟を決めた様子で言った。
「わかった。がんばる」



 だがしかし、所詮は小さな魚の知能で勝負に勝てるわけもない。ずいぶんと時間をかけはしたものの、カリアラはたった四枚のカードを手にあっけなく沈没した。
「喰われる……」
 手札を握りしめたまま真っ青な顔で呟く。がたがたと震える体が厚い紙を小さく揺らした。
「じゃ、ベッドに行ってくれる?」
 シラはにっこり微笑んでカリアラの肩をとる。カリアラはやわらかい彼女の手が触れただけで、びくりと大きく体を揺らした。勝者である彼女に向けて必死に命乞いをする。
「シラ、シラ、おれがんばるから。ちゃんといろんなエサ取ってくるから、だから全部は喰わないでくれ。腕とか足だけにしてくれ。ごめんなさいおねがいします」
 すがりつくような顔を見て、シラは相好を崩しに崩して彼の首に抱きついた。
「やだ。負けたんだから言うことを聞きなさい」
 ふつふつともれる笑みが耳元をくすぐっていく。カリアラは全身蒼白になったまま弱々しく俯いた。シラには逆らうことができない。昔から、自分の命は彼女の手に掴まれていたのだから。
 カリアラはぐったりと力を抜いた。とうとうこの日が来てしまったか。人間になってから、自分を見るシラの目が獲物を狙うそれになってきたと思っていたのだ。自分はもう魚ではなくて人間だから、彼女にとっては最良の食糧だ。いつか、おれはシラに喰われてしまうのかもしれない。ずっと前からそんな予感はしていたのだ。
「ほら、行きましょ」
 シラはやわらかい仕草で手をとると、いやに甘い表情でゆっくりと立ち上がる。カリアラは巨大な魚の群れの中にひとり向かっていくような、そんな気持ちで引かれるがままベッドへと歩み寄った。
「座って」
 恐怖心にしびれる体は勝手に彼女の言うことを聞く。座った途端、シラが膝で足の間に立った。ベッドが軋んだ音を立てる。肩に置かれた両手から彼女の重みが伝わってくる。触れた箇所は熱を感じた。至近距離でシラが笑う。
「目は閉じて」
 囁く声は甘い熱を帯びていた。細く長い彼女の指がまぶたに触れる。
 カリアラは震えをおさえるように、きゅうと目と口を閉じた。
 真暗になった視界の中で、彼女の腕がするりと首に回される。
 そして、かすかな吐息が肌をなでたと思った瞬間、くちびるに柔らかい熱を感じた。
 カリアラはそれが何かとっさには解らなくて、怪訝に眉をひそめたが、触れたのが彼女の口だと思い当たって恐怖心に覆われる。ああとうとう喰われてしまう、おれはこのままがぶりといかれる。
 だが恐ろしい想像とは裏腹に、続いたのはくすくすという楽しそうな笑い声。
 カリアラは疑問と恐怖をまぜこぜにしてゆっくりと目を開けた。
 その途端に赤くなったシラの顔が近づいて、またそっとくちびるを重ねられる。一回、二回。少しずつ場所をずらしてなでるようにやわらかく。カリアラは訳がわからなくて困惑のまま大人しくそれに応じた。ただじっとして受けとめる。どうして彼女が噛み付かないのか解らないままぼうっとする。
 シラは一度くちづけるたび嬉しそうに微笑んで、またすぐに顔を近づけた。熱をもった細い指はカリアラの髪を優しくなでる。指が当たっていく場所はなぜか痺れるような感覚がした。少し寒気を感じるような、肌がざわざわ粟立つような、今までに経験のない……。
 小さく出されたシラの舌が、くちびるをちろりと舐めた。カリアラはびくりと震える。
 顔が急に熱くなった。初めての感覚に体中が熱を持つ。いたずらっぽく笑うシラの目が逸れたと思うと続けて耳にくちづけられた。舌が耳のふちを這う。体の芯がぞくぞくと痺れていく。
 力が抜けてしまったところに体重をかけられて、ふたり揃ってベッドの上に倒れこんだ。
 身を起こそうとしたところをシラの腕に押さえられる。カリアラはどうしていいか解らなくて、弱々しく彼女を見つめた。だがシラは楽しそうに笑うだけ。顔が近づく。今度は深くくちづけられる。
 触れられた箇所がいやに熱い。重ねたばかりのくちびるが、やさしくなでられた頬が、押さえつけられた肩が、重みをもってかさなる体が。全身が熱く染められていく。
 カリアラの思考は生まれて初めて経験する状態に、困惑してぐるぐると回転してそのままどこかに吹き飛んでしまいそうになる。なんだこれはなんだこれは。なんでこんなに熱いんだ。熱い熱い熱い。どうしようおれこのままじゃ乾いて干物みたいになって、いや違う燃えるんだ、おれこのままじゃ燃えて白くて固くなって、それでそのまま…………。
 ハッと思わず息をのむ。
 閃くように疑問が解けて、カリアラは絶望のままに叫んだ。


「や、焼き魚にされる――――っ!!!」


 しん、といやに静かになった。静寂と沈黙の間を破ったのは、ふ、というシラの口から出た空気。それはそのまま堪えきれない笑いとなって、彼女は体を二つに折って笑い転げた。
「あはは、あはははは! やき、焼き魚っ」
「な、なんで笑うんだ!? だっておれいま焼かれてたぞ!? 焼き魚も旨いって言ってたし、だから焼こうとしてたんだろ!?」
 カリアラは真剣な顔で言うが、それを見たシラはますます笑いの発作に取りつかれ、ベッドの上に丸くなって苦しそうに笑い続ける。カリアラはどうしてこんなことになってしまったのか何ひとつ解らなくて、ますます増した困惑におろおろと彼女を見つめた。
「何やってんだ!」
「あっサフィ助けてくれ! 焼き魚にされるんだ!!」
 鍵のないドアを開けて、階下にいたサフィギシルが乱入するが、すがるようなカリアラの声と言葉にシラはますます爆笑する。
「おれ焼かれるのはいやだ、せめて生のままがいいんだ! サフィ、シラに焼き魚作ってやってくれー! おれのかわりに食わせてくれー!!」
「は? 何言って……うわー! お前なに脱がされてんだ!」
 シャツをはだけられてすでに素肌を晒しているカリアラの格好に、サフィギシルはぎょっとふたりを交互に見つめる。シラはその視線にも構わずに涙をぼろぼろ流しながら爆笑を続けている。
「おれこのままじゃ喰われるんだ、なんとかしてくれー!」
「どっちの意味でだ――!!」
 心からの絶叫に、シラの笑いはますます大きく振れていく。
 困惑する元ピラニアと家主にも構わずに、彼女は体をちいさく丸めてひたすらに笑い続けた。




 後日、事情を聞いた周辺の人々によって「焼き魚にされるー!」がちょっとした流行語となってしまい、カリアラがさまざまな真実を知るようになってからも、歳を取っていい大人になった後も、しつこくからかいの道具として使われるのだが、今はまだ、それを知るものはいない。


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