滅多に弱音を吐かない者が参っていると、他の誰が潰れているより不安になるのは当然のことだろうか。サフィギシルはそんなことを考えながら、ぐったりとして動かないカリアラを見つめた。 比較的温暖な地域であるアーレル主部の夏の暑さはすさまじい。砂漠を持つ大陸南部の国からすれば小粒のような熱気だと笑われるに違いないが、それでも暑いものは暑い。その熱が最高値を記録する夏本番は目の前ということで、カリアラの中の部品を耐久度の高いものに差し替えたのは一昨日。だがどうやら生まれ持った性質との相性が悪かったらしく、木製の人間となった元ピラニアは、それ以来ずっとベッドから起きられないほどに弱っている。 子どものように泣きわめくような性格でもなく、うだうだと文句ばかりを喋り続けるひとでもない。彼はただ力なく横になり、耐えるようにすっぽりと布団を被るだけ。熱を出しているのだから熱いだろうに、外敵から身を隠すがごとくそれだけはやめなかった。 サフィギシルは知らずうちにため息をつく。さっきまではシラが付き添っていて、カリアラの頭をなでながらこちらに文句を言い続けていた。その小言の嵐にさらされて、気遣いから部品の入れ替えを決行したサフィギシルとしては機嫌がいいわけがないのだが。 ここまで衰弱されてしまうと罪の意識がそれに勝つ。 「……何か食べたいものがあったら言えよ」 サフィギシルは罪悪感に押されるように呟いた。カリアラは外を警戒する小魚のように、被っていた布団から少しだけ顔を見せる。うつ伏せていた頭を上げると、虚ろな目を迷わせながらこちらに向けて、またぱたりと顔を落とした。うっすらと口を開き、喉の奥から吐きだすような力の抜けた声で言う。 「……水。水と、草」 怪訝に眉をひそめると、カリアラは「あのな」と前置きをつけて弱々しく語り始めた。 「岩のな、裏のな、陰のな、暗くてな、冷たいところにな、生えてるやつ。とろとろのなー、それをなー、ちょっとずつ歯でこそぎとるんだー。それがうまかったんだー」 いやそんな昔話をされても。サフィギシルは不意をつかれて気が抜けそうになってしまうが、カリアラはぼんやりとした声で、うわ言のように語りつづける。 「水にふわふわゆれてて、岩にくっついてるところはドロドロになってて、口をつけたら草のにおいがすごくするんだ。ふわーって。みどりいろで、奥は黒くて。それをちょっとずつ、ちょっとずつ食っていくんだ。小さい魚がな、そこに草を食べに来ててな。気づかれないように隠れてて、食いついて、草といっしょに一気に飲むのがすごくうまい。魚の味とな、血の味とな、草の味がぜんぶ一緒に水にとけて、おれはそれを飲んだんだ。腹の中で全部混じって、勢いで入った砂がちょっと苦くて、それがすごくうまかった」 曇りのない魚の目がどこか遠くを見つめている。その先にあるのは故郷の川の中なのだろうか。陸よりも、人間の生活よりもずっと生まれ持った性質に合う、正しい居場所を思い出しているのだろうか。 体を覆う熱のために肌はうすく赤らんでいる。カリアラは熱にうかされるようにぼんやりと語り続けた。 「水がな、ぬるくて。冷たくなくて、熱くなくて、いっぱいあって。いろんな味が水に溶けてて。草と、藻と、魚と、血と、砂と、どろと、ぜんぶ混じって。それを飲んだらうまいんだ。すごくすごくうまかったんだ」 まるで夢を見ているような言葉とまなざし。 体の変化を抑えるために水断ちをして、もう一晩が経っていた。 「それがな、すごくすごくうまかったんだ」 そう言って少し笑うと、カリアラはまた隠れるようにすっぽりと布団を被った。 その笑顔がここではない遠い場所に向けられたもののように思えて、サフィギシルもまた弱りきった表情を隠すように額を押さえる。部屋の中に戻ってきたシラが、不思議そうに尋ねた。 「どうしたんですか?」 「……別に。予想外で範疇外のことを言われてどうしようかと悩んでるだけ」 「え?」 すり抜けていった回答を探るように眉をひそめたシラの腕を引き、サフィギシルは部屋を出ながら言った。 「今から間食作るから。手伝ってくれる?」 川の中の夢を見た。それはまだ魚だったころの記憶、弱々しかった時の光景。 広い広い水の中、頭上を舞う砂に阻まれ、陽の光は柔らかく川の底まで差し込んでくる。様々な音、様々な匂い。すぐ側で命が消える。食われないためには隠れていかなければならない。ついはぐれてしまったために、今はシラがいなかった。こういう時はひたすらに隠れなければならない。少しでも安全な場所を探していかなければならない。ひとりでは戦えない、生きていくことができない。それでもこの身に宿る血を少しでも長く残さなければ。 目の前には複雑な形をした岩があり、その陰はくっきりとした暗い色を携えていた。鼻を利かせる。陰の中に敵となる大きな魚がいないことを確認すると、カリアラは素早く身を躍り込ませた。 緑色のにおいがする。青く繁る緑の草が、柔らかな藻が岩の上を覆っている。水の中に沈む岩はうすく降りる光を受けて鮮やかな色を見せていた。だが岩の陰からは草を食べることはできない。カリアラは食い殺されてしまわないよう、暗い岩の陰に隠れ続けた。 そのまま、随分と潜み続けた。空腹が訪れた。 だが食べるものは何もない。魚が欲しい。一匹でもいい、食いつくことができる小さな魚が。 望みのものは目の前を通り過ぎていく。だが同時に、自分にとって敵となる大きい方の魚も横切った。ひとりぼっちで陰に隠れる自分に気づく魚はいない。食べるものも、食べられるものも、目の前にいるのにまるで遠い別の世界を泳いでいるように見えた。光を浴びて広く広く晒された水の中は、それほどまでに手の届かないものに思えた。 水の流れが変わったのは何が原因だったのだろう。解らないが、とにかく水が大きく揺らいだ。岩も、それに合わせてゆっくりと身を起こし、そのまま体を仰向けにひっくり返してしまった。小さな魚体が唐突に光の中に弾き出されて、うろこが波立つような恐怖心に包まれる。カリアラは慌ててまた岩の陰へと飛び込んだ。 その途端、強い強い緑のにおいが口中に広がった。飛び込んだ先には一面の水草が生えていた。裏表が逆となり、草の面が陰側へと変わったのだ。陽の光を浴び続けた藻は暖かかった。懐かしい、太陽の匂いがした。 その水草の、とろとろになった箇所を食べた。口をつけると緑色のにおいが更に口の中へと広がる。焦るように顔を草にすりつけて鋭いキバを岩に添わせ、少しずつそぎ取った。水とともに飲み込むと、長らく続いた空腹が徐々に満たされていく。少しずつ、少しずつ、消えかけた生を取り戻していく。 これでまた、しばらくはもつと思った。生きていける。そう強く感じた。 その水草はうまかった。何よりも、うまく感じた。 眠っていてもずっと熱く、体中が重くだるい。起きているのか眠っているのか定かでない状態で、途切れ途切れに夢を見ていた。 ぼんやりと目を覚ましたのはいつ頃のことだっただろうか。懐かしいにおいが漂っていて、カリアラは自分が今どこにいるのかとっさに理解できなかった。どろを含む水のにおい。緑色の、草のにおい。 開いた目に映ったのは、濁りを帯びた緑色の水だった。 懐かしい、川の色をした水だ。それが透明なガラスの器に注がれて、枕もとの小さな机に置かれている。底には緑の藻が溜まり、小さな石がいくつか並べられていた。泥と砂が底に薄く敷かれている。 川の景色だと思った。懐かしい、これは川の中の水だ。 カリアラはまだ夢から覚めないような目つきで、ゆっくりとガラスの器に手を伸ばす。力が入らないために持ち上げることができず、体の方を器に寄せた。口をつける。そっと器をかたむける。 生ぬるい水がどっと口へと流れ込む。藻が、草が、砂が、水が。それらが一気に口の中に。 意識を持っていかれるような、脳をきゅうと押さえつけられるような感慨にのみ込まれ、思わず強く目を閉じた。そのまま、ごくごくと音を立てて喉と体の渇きを癒した。 体の中に水が流れる。懐かしい感覚に肌が痺れた。寒気にも似たよろこびが全身を叩いていった。 ほとんど無意識のまま、いつの間にか飲み干してしまったらしい。口の中には小さく砕いた石がいくつか残っていた。カリアラはそれをゆっくりと噛み砕く。舌に慣れた砂の味が広がって、重みのある粒が胃へと落ちていった。 まるで沫を吐くように、こほ、と小さく息をつく。 「うまい」 人の言葉で呟くと、カリアラは笑顔で布団の中へと戻り、何度目かの眠りについた。 穏やかな日差しの中で安らぐような、暖かい眠りだった。 「うわ、全部飲んでる」 どことなく引きつったサフィギシルの声が聞こえる。 「自分で作ったくせに」 呆れたように笑うシラの声もした。部屋の中、布団を被って眠る自分の側からだ。 シラの手が布団越しに背をなでる。優しい声がそれにあわせるように続いた。 「水、おいしかったのよねー」 うん、すごくうまかった。すごくすごくうまかった。ぼんやりとした頭の中で、カリアラはそう呟いた。うまかった。すごくすごくうまかった。 「あんな泥水……」 サフィギシルが空の器を片付ける気配がする。シラはなでる手を止めず、穏やかな口調で言った。 「ヒトにとっては汚いものかもしれませんが、川の中の生き物は、あの中で生まれてずっと暮らしてきたんだから。水の中で生きていると、陸とは違って全身が水に包まれるでしょう? 外からも、中からも。あの頃は、体中がいつもその水と共にあったんです」 シラの手が、ぽん、と軽く背中を叩く。 「私たちにとっては、あれが命の水なんですよ」 そうだな。そうだったんだ。カリアラは眠りかけた思考の中で呟く。昔はいつもあの水が。 「…………」 「納得してないですね」 「だって石とか砂とか泥とか……水草もコケもどう想像したっておいしそうには思えないし」 「人間には解りませんよ、きっと」 シラは楽しそうに笑う。サフィギシルはまだぶつぶつと細かく何かを口にしている。だんだんと、二人の会話が厚い厚い眠りの幕の奥へと消えていく。 薄れゆく仲間の声を聞きながら、カリアラは笑顔のまま眠りについた。 体の熱はだいぶ冷めてかなり楽になってきている。 次に目が覚めた時には、元気になっているような気がした。 また生きていける。そう強く感じた。 |