番外編目次 / 本編目次


 まさかそうとは認めたくないのだが、現実にここまで事実が並んでしまうと頭を垂れざるを得ない。サフィギシルは見覚えのない民家の並びを一瞥すると、げんなりと地図をたたんだ。
(迷った……)
 もうこれで四度目だ。あまりにも情けない上、おのれの方向感覚を疑わずにはいられない。
 一応、地図は読めているはずなのだ。そうでなくても集合場所の露店にはここ最近は何度も通っているはずで、道順にしてもいい加減に覚えていると思ったのに、どうして迷ってしまうのか。
(いや絶対協会の場所が悪いんだ。この街の地形が悪いんだ)
 ぶつぶつと心の中で呟きながら地図をしまい、ひとまずはもう少し粘ってみようとでたらめに歩きだした。地図を見ながら歩かないのが迷う理由の一つだとは承知している。だがきょろきょろと辺りと地図を確認しながら歩くのは、なんだか観光客のようで恥ずかしいと思ってしまう。だから、大きな分かれ道にたどり着くまで地図は鞄の中にしまう。
 そんな姿勢でこの地区を歩くのは自殺行為に等しいことに、彼はまだ気付いていない。
 ここ数日通い詰めの魔術技師協会と、ベキーの店などがあるアーレル市街の中心部との間には、細い路地が迷路のように絡み合う一帯がある。彼が現在迷っているのもその場所で、建国以前を知っている古びた民家が行けども行けども連なっていた。
 元々は白かったはずの土壁は砂色の汚れをまとい、その下に描かれているはずの花の模様は薄れて消えかけている。屋根は低く、建物は横に長い。繋がった屋根の線は青い空に押しつぶされてしまうように、柔らかくたわんでいた。
 どの家も同じようにくすんだ風情で広がる景色に変化はない。この様式は今でもまだ多くの人に“本国”と呼ばれているかつての主、ウェルカ国の王によって定められたものらしい。アーレルが国家として独立する以前からある建物は、ほとんどが同じような木造建築となっている。
 独立して六十年近く過ぎた今では、この一帯以外ではあちらこちらで外国式の建物が乱立している。石積みのそれは背が高く、この辺りからもぽつりぽつりと赤い煉瓦を確認することができた。
 だがあまりにも遠すぎて目印としては使えない。実際に、小さく見えるあの店を追っていけば……と歩いてはみたもののこのありさまだ。遠い月がどこまでも追ってくるのと同じように、ひときわ目立つ四角く赤い建物も、いつ見ても変わらぬ場所にあるのだった。
 その時点で歩き方を間違っていることに彼はまだ気付いていない。同じ場所を延々と回っていることも知らず、サフィギシルはだらだらと歩き続けた。
 ふいに時計を取り出して、現在時刻を確認する。仲間達との約束の時間から一時間が経過していた。
(ああ、また馬鹿にされる)
 こみ上がる頭痛に眉間を押さえる。何しろ今日で四回連続同じことをしているのだ。昨日も一昨日もその前も散々馬鹿にされた上、今日こそは約束に遅れないよう宣言している。ようやくたどり着いたとしても、ピィスにどれだけからかわれることだろう。シラにどれだけ小言を言われることだろう。
「……帰りたい……」
 現実逃避の呟きが思わず口をついて出た。
「へ、はへふのは?」
 唐突に聞きなれた声がした。カリアラだ。腑抜けたそれはすぐ横の方から聞こえた。
 サフィギシルは驚きのまま振り返り、そしてそのまま硬直する。
 カリアラは何故か両手に生の魚を掴み、同じものを口にくわえ、それだけではなく服の中にも暴れる生きた魚を入れて、知らない人の家の屋根に這うようにしてのぼっていた。
 不自然に膨らんだ上着がバタバタとはためいている。襟元から銀色の魚の体や尾びれなどが覗いてはすぐに消えた。何匹かは既に食べたあとなのだろう、カリアラの口のまわりは魚の血に汚れていて凄惨さをかもしだす。
「迎えにきた。早くしないとみんなすごく待ってるぞ」
 カリアラはきょとんと目を丸くして当たり前のように喋った。
 その勢いでくわえていた魚が落ちて、屋根を伝って地面にまで転がっていく。
 カリアラは「あ」という顔をすると、落ちた魚の後を追ってこのままごろりと転がった。

 もちろん落ちた。

 とてつもなく痛そうな音がした。

(……帰りたい……!)
 泣きたい気持ちで心底ここから逃げたくなるが帰り道は解らない。どうしようもない脱力感を引きずりながらカリアラの元に寄ると、彼は目を見開いたままびくびくと魚のように痙攣している。束縛を逃れた小さな魚たちが地面で同じく跳ねていた。
 上下に揺れる彼の頭を真上から踏みつける。
 カリアラは一度びくりと大きく震えると、何事もなかったかのように丸い目をこちらに向けた。
「あ、サフィ」
「ああそうだとも。今の俺は全く違う他人として逃げたい気分でいっぱいだけどな」
 苛立ちを抑えに抑えた発言の意図にも気付かず、カリアラは踏みつけた足を掴んでどけると訝しむように言う。
「どうしたんだ? 顔色悪いぞ?」
 その発言で疲労や何やが一気に沸いて熱となった。
「お前はなんでそんなに血色がいいんだよ何食ってんだよこの魚! ピラニア!」
「うん。旨かったから今すごく元気なんだ。お前も食え」
「第一なんで人ん家の屋根から出てくるんだよ! すぐに落ちるくせに上るな!」
「でもまっすぐに行った方が近いんだ。大丈夫、おれ、痛くても我慢するから」
「…………」
 こちらがどれだけ怒鳴っても表情一つ変えない相手に言いようのない疲労を覚え、頭を抱えてしゃがみこむ。カリアラは心配そうに首を傾け顔を覗き込んできた。
「大丈夫か? 魚食った方がいいぞ?」
 その手にはぴちぴちと元気に跳ねる銀の魚。
 お願いだから俺を一人にしてください。とサフィギシルは思わず見えない何かに祈る。とてつもなく帰りたい。でも道がわからない。
 ぐったりとしていると、カリアラは散らばってしまった魚を集めてまた服の中へとおさめた。集めたうちの一つを丸ごと飲み込むと、口内の歯では噛まずに喉の中のキバで潰す。骨が砕ける生々しい咀嚼の音が静かなあたりに響いていく。
 吹き流れる風のような音が聞こえたかと思うと、それは小声で囁きあう道端の人々の声だった。
「どうしたんだ?」
「馬鹿、変に目立つなよ。どっか別のところ行くぞ」
 小声で叱るように言うと、サフィギシルはカリアラの腕を引いて早足に歩き出す。だがカリアラは困惑した様子でその手を逆に引っぱった。
「え、ベキーの店行かないのか? 二人ともすごく待ってるぞ」
 ぴた、と進む足が止まる。呆けたようにカリアラの顔を見る。
「……解るのか? 道」
「うん、あっちだ。わかんねえのか?」
 カリアラは平然として、当たり前のように逆方向を指差した。なるほど彼は野生の勘がいまだに生きているためか、方向の察知については非常に良い感覚を持っているらしい。
 だが、指差された先にあるのは道ではなくてただの人の家なのだが。
「いや、あっちって言われても……って行くなよ! 引っぱるな!」
 そんなこともお構いなしにどんどん進む元ピラニア。彼の中に私有地を避けて通るという概念はない。
「シラがすごく怒ってたぞ。着いたら謝った方がいいぞ」
「そうじゃなくて道がないだろ! 行けないってそんな場所!」
「大丈夫、ここから上がれるから」
 と言うか言わないかのうちに、カリアラは庭石や植木を伝って塀の上に足をかけ、そのままひょいと屋根の上にのぼってしまう。人工の足は坂道や階段などを下りる行為を苦手とするが、膝を上げる運動などは比較的難なくこなせる。板張りの緩やかな斜面を器用に歩きながら、カリアラはまっすぐに進行方向を指差した。そしてそのまま歩いていって、とうとう姿を消してしまう。
 サフィギシルは様々な思いを抱え、カリアラが使っていった石や木の枝を見つめる。
 短く刈られた雑草の色がやけに濃い。日の当たらないその場の空気は影を纏ってじっとりと湿っていた。木窓の隙間から見える家の中には更に暗い闇がひそむ。ただでさえ古びて陰気に思える家がひどく不気味なものに見えた。
 家の中から話し声が聞こえてきてぎくりとする。間違いなく中にいるのだ、見つかるとどうなるか。
 だが他に、確実に家まで帰る方法はない。
「ごめんなさい」
 小さく小さく家の人に謝ると、大きな庭石の上にのぼる。どっしりと備え付けられたその足場は随分と安定していた。カリアラと同じ手順を踏んで、木の枝に掴まると、股の部分に足をかけてそのままひょいと身を起こす。すぐ側に立つ高い塀の上へとあがる。

 ――唐突に景色が開けた。

 建物の影を出て見えた陽の光が眩しい。空気が急に軽くなったような気がした。やわらかい風が薄く体をなでていく。明るい。そして、視界が嘘のように広い。
 高く澄んだ広い空がどこまでも続いていた。
 慌てて屋根の上にのぼると、足元に連なるそれはいやに低く感じられた。まるで地を這うようだ。いや、むしろ、黒ずんだ茶色の屋根の並び自体が大地に見えた。空と地面しかない場所に立ち尽くしているように思えた。
「大丈夫かー」
 声がした方を見ると、隣の家の屋根の上でカリアラが手を振っている。サフィギシルは思わずその場を確認して顔が引きつるのを感じた。家と家の間には結構な空間がある。
「お前、なんでそっちにいるんだよーっ」
 家の人に聞こえないよういくらか抑えた声で尋ねる。距離のせいで互いの姿は小さく見える。だがそれだけ離れた場所でも、相手の顔がきょとんとするのが何故だか解った。
 カリアラは両手を前に突き出して、見えない何かを持つような仕草をすると、腕をそのまま向こう側へひょいと動かす。
 ようするに、跳べ、と。
 サフィギシルはおぼつかない足取りで斜めの踏み場を歩き進む。慎重に、慎重に。雨ざらしの屋根板は柔らかく、かすかな音を響かせるので心配でしかたがない。そろそろと足を動かし、結構な時間をかけて家と家との境目の前に着いた。
 開いた距離はそれほどのものではない。跳べば越せる程度のものだ。
 だがあちらの屋根は今いるこの場よりも高く、山型に飛び出たひさしは近寄るものを阻むような威圧感を持っていた。
「……これ、跳んだのか?」
「跳んだ。すぐだぞ」
 カリアラは心配でもするように対岸のすぐそこまで戻ってきている。
 あまりにも平然とした立ち姿が憎らしく、なんだか無性に悔しく思えて奥に避けろと仕草で示した。やってやる。と誰に言うでもなく思い、おそるおそる下がって助走の距離をあける。向こう側にそれなりの距離が開いているのを確認する。
 身に染み付いた恐怖心やその他のものをかなぐり捨てて駆け出した。
 足元がぎしぎしと鳴る、すぐに向こう側が近づく、暗い溝が目下にいきなり現れる。
 それを越えてしまえとばかりに思い切って高く跳んだ。
 止まる息、一瞬のような永遠のような無音の時間。
 その静寂を破るように、どか、とくぐもる音がして、手と膝は屋根を強く叩きつけた。
 ひと時の呆然の後に襲いかかる安堵と脱力。サフィギシルはぐったりと、本当にぐったりと屋根の上にへばりこんだ。心臓はまだ全速力で駆けている。急にほどけた緊張にめまいすら感じてしまう。
「死ぬかと思った……」
「大丈夫か? すぐだっただろ?」
「すぐでも時と場合によっては長く感じるものなんだよ」
 呟きながら顔を上げるとなんだかとても生臭かった。もう元気のなくなった、死んだ魚が目の前に突き出されている。
「よくできたから、ごほうびだ」
「…………」
 様々な言葉が喉元まで出かかるが、相手の真面目な顔を見ると全てが途端に消えてしまう。サフィギシルはいろんなものを諦めて、素直にそれを受け取った。
「食わないのか? 旨いぞ」
「後で食うよ」
「そうか」
 ずっと握っていたためだろう、生ぬるくて鮮度の方は危ういが、すぐに冷やして持って帰れば夕食の材料にはなる。捨てるという選択が頭にないことに気がついて、少し不思議な気分になった。
「歩けるか?」
 馬鹿にするなと心の中で呟きながら立ち上がる。そして景色を改めて見て、大きな大きな息をついた。さっき見ていたものよりも数段近く見える空、その澄んだ青、青、青。日差しのもつ眩しさすら気にもせず、ただひたすらに空を見上げた。雲ひとつない青の天蓋。どこまでも続くもの。
「水、今日はよく見えるな」
 カリアラが同じく空を見上げて言った。思わず「え」と声を出すと不思議そうな顔をされる。
「知らないのか? あれ、水って言うんだぞ」
「水、って。いやあれは」
 天を指差すカリアラがあまりにも真顔なので、なんとなく、もう一度空を仰いだ。
 透明な色をいくつも重ねたような、あまりにも澄んだ青。
 果てしなく続く、この世界を満たしている……。
「水」
 言葉は自然と口からこぼれた。
 広がる青がすべて水のそれに見えた。澄みきった、深い深い水の中を見つめているような気がした。
「こっちの水はきれいだな。食べ物はいないけどずっと遠くまで見える。それにすごく軽い。進むのがすごく楽だ」
 呆然と見つめる景色にカリアラの声が響く。ひとつひとつ淡々と紡ぐような、静かに染みる魚の声が。
 透明なそれを吸い、吐くと、体の中を滑るように通り抜けていくような気がした。まるで口から入り込んだものがエラから抜けていくように。
 風が吹く。川の流れのように見える。
「……水だな」
「うん、水だ。知らなかったのか?」
 カリアラはまた不思議そうにこちらを見つめる。透明な魚の目。
 それがなんだか楽しく感じられて少し笑う。
「俺だって知らないことはあるんだよ。色々と」
 屋根の上にのぼったのも、こんなに高い空を見たのも、真剣に走ったのも、死ぬ気になって跳んだのも。全部、今日が初めてのことだった。
「さ、行くか。早くしないと何言われるか解らない」
 言葉とは裏腹に口元は甘くゆるむ。なんだか少し遠回りをしていきたい気分だった。
 サフィギシルは広がる“水”を掻くように片手を広げて歩きだす。カリアラはその様子に軽く首をかしげたが、行く道を示すために一歩先を歩み始めた。サフィギシルはゆっくりと、ゆっくりと後を追う。
 高く澄んだ空の下、野生の魚に導かれて歩いていく。
 柔らかな風を受けると川の中を泳いでいるように思えた。
 まるで、魚になったような気がした。


番外編目次 / 本編目次