無知な子供を騙すのはどうしてこんなに楽しいのだろう。 ピィスは文机の代わりにしている食卓に紙を並べ、さらさらと得体の知れない文字を綴る。すぐそばで息を呑む音がした。ちらりと視線を上げてみると、じっとこちらを見つめてくる青い大人の目が一組。 ピィスは短い文を書き終えると、その目をからかうように言った。 「これが古代イエスダ語だ」 サフィギシルは見つめていた目を丸くする。斜向かいの席から乗り出した身も顔立ちも成人した男のものだ。だが浮かぶ表情はあくまでも幼いもので、純粋な反応をありありとあらわしていた。ピィスは無知な彼の中身をわざと煽るように言う。 「なんて書いてあるか解るか? ま、お子様にはわかんねーか。伝説の古代都市の遺産だもんなあ」 サフィギシルは悔しそうに体を引いて、動揺を隠しもせずに口を開く。 「わ、解るよそれぐらい。バカにすんなよ」 「じゃあ答えてみろよ。これはなんて書いてあるんだ?」 意地の悪いピィスの問いにぐっと言葉を詰まらせた。 「な、なんてって……」 目が泳ぐ。自信のなさが解りやすく露呈する。サフィギシルはどもる口をむりやりに動かした。 「え、エンピツ!」 「違いまーす。こんな時代に鉛筆があるかよ」 「じゃあ羽ペン! じょ、定規!」 サフィギシルは食卓上に散らかった文具を見て続けるが、それで当たるわけがない。 「連想してどうすんだよ。そもそも単語じゃありませーん。正解は『入り口はこちら』でした。こんなのもわかんねーようじゃ人への道はまだまだだな」 「わ、解ってたよ。わざと間違えただけだからな!」 完全に小馬鹿にしたピィスの笑みを恨めしそうに睨みつけて言う。だがそんな嘘が通用するはずもなく、ピィスは文を記した紙をわざとらしく掲げると、にやりと意地悪く笑った。 「じゃ、読み方も解るよな? 当然だよな、これぐらい解らなきゃまともな人って言えないもんな」 サフィギシルはまたもや言葉を詰まらせた。突きつけられた薄い紙に並ぶのは一つ一つが奇妙な具合に渦を巻いた不思議な文字だ、彼に読めるはずがない。そもそもそれを綴ったピィスですら音読できない代物だった。この古代語を読解するにはよほどその方面に精通しなければならない。ピィスにしてもたまたま覚えた一文をこの無知な弟分に見せ付けて遊んでいるだけなのだ。 「さ、どうなんだー?」 そんな事情も知らないサフィギシルは並ぶ文字を凝視する。眉が下がる口が歪む、隠しもしない動揺が困った風情で顔に浮かぶ。どうしようもない状態に挑むように、彼が薄く口を開きかけたその時。 「ディーフィー・ターク」 緊迫した空気を割って低く静かな声が響いた。 サフィギシルもピィスも同時にそちらを見る。近くに置かれたソファに座る一人の老人。開いた本から目も離さずに答えたのは、サフィギシルの親であり彼らの師であるビジスだった。 続く言葉は紡がれない。ビジスはきょとんとした子供二人の視線すら見返さず、ページをめくると何事もなかったかのように続きを目で追い始めた。ピィスが紙を振って尋ねる。 「爺さん、これ、いつ見たの」 「見なくとも意味を聞けば読みも知れる」 サフィギシルが感嘆の声をあげた。ピィスは背を向けたままの彼に更に訊く。 「ていうか読めるのこの言語」 「読めないはずがないだろう?」 そう言うと、ビジスはぱたんと本を閉じる。 彼は子供二人に顔を向けると平然と言い切った。 「なにしろその街を滅ぼしたのはわしだからな」 複雑な沈黙がしばらく部屋を支配した。 息苦しい間を置いて、ピィスが恐る恐る口を開く。 「……なんでそんなことしたの?」 「お前はいつから冗談が通じなくなった? 千年前にわしが生きているはずがないだろう」 「いや……だって爺さん千年ぐらい生きててもおかしくないし。やりそうだし……」 気まずく目を逸らしたピィスを呆れたように見つめると、ビジスは嘆息まじりに言う。 「そんな得にもならんことをしてどうする。どうせなら国を丸ごと手先として使う方がずっといい」 「そうだよね今実行してるしね」 彼が自由に操るのは今いるこの国だけではなく、大陸中のあらゆる国家なのだという噂は定説になりつつあった。なまじ嘘とも言い切れない上に本人も具体的な否定はしない。地域によっては生き神だの死神だのと言われているのにはそれなりの理由があるのだ。 ビジスは真面目な顔で言う。 「まさか。こんな老いぼれにそんな力があるわけがない」 いつも通りのわざとらしい冗談に、ピィスは苦い笑みを浮かべた。 「からかうのもほどほどにしておけ。サフィ、口が開いたままだ」 サフィギシルは、うっ、と妙な音を出すと慌てて手で口をふさぐ。あまりにも大仰な仕草にピィスは軽く吹きだした。 「なんだよ、悪いのかよ」 「別にー? むしろ可愛くていいと思いますけどー?」 恥ずかしそうに拗ねた視線に思わず笑みがこぼれてしまう。何も知らない子供にとどめを刺すように、ピィスは若干わざとらしい口調で言った。 「ま、しょうがないよなまだまだお子様なんだから。デル語もちゃんと読み書きできないし、オレの域に達するにはあと十年はかかるかなー。いや、それとも二十年は必要かも」 「そんなにかかるわけないだろ! バカにすんなよ!」 「わっかんねーぞ、お前発達遅いしさあ。悔しかったら何かオレをあっと言わせることでもやってみろよ。そしたら少しはちゃんとした奴なんだって認めてやらないこともないかな」 サフィギシルの顔が屈辱に赤らんだ。意地を張るように言う。 「なっ、なんでわざわざ……別にお前なんかに認めてもらわなくていいよ」 「へー、そう? まあそれはそれでいいけど。じゃ、オレそろそろ帰るわ」 ピィスはひとつ伸びをすると、大して興味もなさそうに机の上を片付ける。サフィギシルは去りかけた相手の気もちを追うように、いやに焦る様子で続けた。 「ほ、本当だからな。本当に認めなくてもいいんだからな! 別に別に全然思ってないんだからな!」 「はいはい。わかってますって」 鞄に荷物を戻しながらひょうひょうと流されても彼は更に食いかかる。 「本当に本当に、お前なんかどうでもいいんだからな。気にしてないんだからな!」 「へいへい。じゃ、また明日なー」 それすらも軽く流し、呆れきったどこか優しい笑みをもらすと、ピィスはなんだか楽しそうに足取り軽く部屋を出た。 ドアの閉じる音がする。廊下を歩く足音と玄関を出ていく音がそれに続く。 完全にピィスが家を去ったと知れると、サフィギシルは途端にビジスに飛びついた。 「爺さん! あっと言わせるもの教えて!」 「気にしているじゃないか」 体こそはちゃんと椅子に座ったままだが、感情と意志は完全にビジスに食いついている。あまりにも解りやすい顔つきを見て、ビジスは呆れた息をついた。 「生き急ぐな。そんなに張り合うこともない」 「だってあいついっつも俺をバカにして……! 爺さん、なんかピィスをびっくりさせる方法ないの!?」 「まァ、ないことはないな」 「本当!?」 サフィギシルは思わず椅子から身を乗り出す。ビジスは仕草でそれを押しとどめながら答えた。 「本当さ。誰にでも簡単にできて、人を驚かせることもできる秘術がある。教えて欲しいか?」 「欲しい、教えて! どんな術!?」 輝く幼い眼差しを冷やすようにじっと見つめる。サフィギシルはそれを受けて神妙に口を結んだ。ビジスは少し顔を寄せると随分と低い声で囁く。 「未来を覗き、それが起こる前に確かに知り得ることができる技……予知の術だ」 そこには秘密を授けるような不思議な緊張感があった。ビジスの口がうっすらと笑みを作る。 「わしはこれであらゆるものを手に入れた。……実践してみようか?」 サフィギシルはごくりと大きく息をのむ。そのまま口をきつく結び、ぶんと首を縦に振った。 「よし。それじゃあ“見て”みようか」 そう言うと、ビジスは背筋を伸ばしてソファの上に座り直し、目を閉じると口の奥で奇妙な呪文を唱え始めた。サフィギシルは真剣な顔でじっと見つめる。彼の一挙一動を記憶に叩き込むように、見逃さないようしっかりと。 「……見えた」 ビジスはそっとまぶたを開くと、静かな顔と声で告げた。 「今から百数える間に、ペシフィロがこの家を訪れる。その挨拶から続く言葉まで、今、確かに全て見えたぞ。いいか、今から言うことをしっかりと覚えておけ。まず――」 ペシフィロは背の高い食器戸棚の裏に隠れてじっと耳をすましていた。台所の入り口に位置するここは居間からは死角になっていて、物音にさえ注意すればサフィギシルに気付かれることはない。更にビジスがサフィギシルの目を逆の方に誘導してくれていた。 彼はビジスに頼まれて長時間この場所に潜んでいたのだ。ピィスが去るのを確認し、ビジスが嘘の術を披露するのを聞いて、あとはただ気取られないよう台所から裏口を抜け、玄関まで回りこんで、ビジスが予言した通りの動きで現れるだけ。 要するに、ビジスは嘘を仕掛けたのだ。そしてペシフィロはその種となった。 無知な子供を騙すのはいくらか後ろめたくもあるが、それでもやはり隠し切れない愉しみが入り混じる。ペシフィロは待機の長さに疲れ始めた体を丸め、じっと自分の出番を待った。ビジスの台詞を聞き逃してはいけない。しっかりと記憶して、その通りに動かなければ……。 「いいか、今から言うことをしっかりと覚えておけ。まず――」 聞こえてきた重要箇所に彼は耳をそばだてる。 ビジスは真面目な口調で続けた。 「あやつは玄関から側転で現れる」 ペシフィロの時が止まった。 ビジスは迷わず予言を続ける。 「そしてそのまま勢いよくドアにぶつかり、ごみのように崩れ落ちるが負けはしない。何事もなかったかのように起き上がり、力強くドアを開けると開脚前転でこちらに向かってやってくる。だがうっかりと方向を誤ってあの植物の鉢に激突。ぼろぼろになりながらも爽やかな笑顔で右手を高く高く挙げ、『やあ偶然ですね、今日はたまたま運動したい気分だったんですよ』と言うだろう……」 「う、嘘だ!」 「嘘なはずがあるか。奴はきっとやってくれるさ、間違いない」 いやあの側転側転側転側転開脚前転。と反論にもならない単語がぐるぐると頭の中を回り始めてペシフィロは食器戸棚にもたれかかった。だがその疲労も脱力すらも無に帰すような言葉が続く。 「さァ、あと七十だ。六十九、六十八……」 笑みを含むビジスの声がいたぶるように数を数える。疑うようなサフィギシルの声もそれに続いた。六十六、六十五、六十四……。 ペシフィロは走った。物音を立てずに走った。 台所から裏口に抜け、庭に出ると表までひた走る。玄関の前でためらうように一息ついたが遠く聞こえる数字が既に十を越していて、選択をする間もなくとにかくバァンと扉を開く。 そして側転をした。 居間のドアに頭から突っ込んだ。 死ぬと思った。 でもあいにくながら生きていた。 生きていたので力強くドアを開けると驚いた顔のサフィギシルが目に入る。 ペシフィロは脳が拒否を示す前に両腕を振りかぶる。 そして開脚前転で部屋に入って観葉植物の鉢に激突した。 「ペ、ペシフさ」 サフィギシルの言葉をさえぎり全力を振り絞ると爽やかな全開の笑みを作る。 そしてやけくそに大きな声を出して言った。 「うやあ偶然ですね! 今日はたまたま運動したい気分だったんですよ!!」 変な音が頭についた。 改めて目を向けると、サフィギシルは呆然と口を開いてこちらを見ている。ビジスが必死に笑いを堪えているのが見えた。それを確認した途端、急激な恥ずかしさが全身を熱で覆う。 泣きそうなぐらい顔を真っ赤に染めながら、ペシフィロはゆっくりとその場にへたりこんだ。 「ペ、ペシフさん大丈夫?」 「ええ大丈夫です大丈夫ともこれぐらいの試練にはもう慣れました」 耳まで赤く熱をもつ。ペシフィロは上身を伏せて顔を見せないままに言った。 「こういう日もあるんです人生にはこういう時も必ずね」 その言葉にはやるせない悲しみが漂っていた。 サフィギシルはハッとしてビジスを振り返る。 「爺さん! 予言、全部当たった!」 「だから言っただろう? この術はわしがやれば失敗することはない」 ビジスはこみ上がる笑みを収めて至極真面目な顔で言った。サフィギシルの表情が興奮を帯び、ますます子供らしくなる。すごい、すごい、とあどけない様子で繰り返した。 ペシフィロはその様子をふと見つめ、穏やかな気持ちになる。恥ずかしさはひとまず引いた。サフィギシルは何の疑いもなく騙されて、素直にビジスを尊敬の目で見つめている。 「どうやってやるの、俺にも教えて!」 「そうだなァ、お前がもっとピィスにも素直にして、喧嘩の回数を減らすのならば教えてやらんこともない」 「わかった、約束する! ケンカしない!」 これでいい、と心の中で呟いて、ペシフィロはゆっくりと起き上がる。 ふと見た先でビジスがにやりと笑みをもらした。作り慣れてしまった苦笑で答える。 「爺さん、もうケンカしないから! だから教えて!」 「わかったわかった。じゃあ、やり方を教えてやろう」 サフィギシルは食いつくように見つめてくる。 その視線を手で制し、ビジスは笑いながら言った。 「まず、ペシフィロを手懐けて……」 「そこから教えるんですか――!?」 和やかな気分も吹き飛んで、ペシフィロは全力で批難を叫ぶ。 ビジスはそんな友人を愉しむように笑いながら、全ての手口を語り始めた。 自分よりも幼い者を騙すのは、誰にとっても面白い。 |