番外編目次 / 本編目次


 人魚が多くを語らないなど一体誰が決めたのだろう。物心ついたころには、もう胸のうちには言葉にしたいあれこれがぎゅうぎゅうに詰まっていた。口を開けば音波として吐き出される。心に溜まった感情や思いごとは、誰の耳にも聞き取れない彼女の言葉で水に落ちた。
 誰もいない。誰も話を聞いてくれない。
 家族を作らず個別に生きる習性が、彼女を孤独の中に沈めた。
 広い広い海の中で大声を張り上げてみる。
 だが、その呼びかけに答えるものは誰一人としていなかった。


 人の言葉を覚えたころ、彼女は自分がひどく人間に似ていることに気づいた。人魚は古くは同じような半魚のオスと繁殖を重ねていたが、いつの間にか彼らは姿を消してしまった。そのため今は人間の男と交わり、不完全な子どもを多く生み出してまで種を続けているという。
 だから自分は人間に近いのだと教えられた。そのおしゃべりな性格も、語りたがる衝動も、すべてが人の女の子に見られるものと同じだと。
 だから孤独を厭うのだ。だから、こんなにもあたたかなふれあいを好ましく思うのだ。
 彼女は水槽から身を乗り出して、大好きな仲間に向けて手を伸ばす。
 水棲の身には熱いほどの暖かみに抱きしめられて、彼女は人のような笑顔で喜びをあらわした。


 またひとりになったのは何年後のことだろうか。絶望を抱えたまま人を恐れて向かった先は、深い深い熱帯の川の中だった。淡水になれるまでは約三日、生ぬるさに慣れるまでは一週間。不可解な生き物たちに慣れ親しむにはもっと多くの時間がかかった。
 それでもそこに留まったのは、不思議な縁に導かれたからだった。強い敵に襲われている彼を見つけてしまったのだ。まだ幼いカリアラカルス。頼り気がなく弱々しい小さなピラニア。
 一度助けたその日から、彼は彼女に付いてくるようになった。もとより非常に弱い体だ、いつ敵にやられてもおかしくない。彼女は彼を守ろうと決意した。いつも一緒、どこにいくにも目が離せない。

 彼女がひらりと身を翻せば、カリアラカルスも小さな体をくるりと回す。
 彼女がついと顔を寄せれば、彼も同じように体を寄せる。
 彼女が孤独に嘆いていれば、彼はまるで心配するかのように顔を覗き込んできた。

 愛しく感じはじめるのにさほどの時はいらなかった。彼女は彼に簡単な合図を教える。
 耳に高く響く音は互いを呼び合う名前になった。彼が不安に怯える時はきりりと澄んだ音を出して、安心してと落ち着かせる。クツクツと鈍く聞こえる音は異議を唱える言葉となった。肯定のときはひとつ、否定のときは沫をふたつ吐くことにする。同意の時はくるりと体を一回転と取り決めた。
 そうしてふたりはささやかながらも意思の疎通を行えるようになる。

 彼女はふと、耐え切れずにたくさんのことを喋りはじめた。彼が言葉をほとんど理解できないのは知っていた。だが無駄なこととは解っていても喋らずにはいられなかった。長く内に溜め込んでいた多くの言葉が弾け出す。たったひとりで抱え続けた悲しみや苦しみが水の中にあふれていく。
 訪れた夜が明けるまで喋り続けた。眠るのも忘れて延々とそれを吐き続けた。
 カリアラカルスは眠らなかった。身動きもしなかった。ただ、じっと彼女を見つめ続けた。
 そして彼は彼女が全てを語り終えると、きりり、と澄んだ音を出した。
 それは相手を宥める合図。安心しろと伝えるために彼女が使い始めた言葉。
 彼女が呆然と見つめる先で、彼は何度もきりりと鳴いた。きりり、きりり、きりり。沫をはらむ澄んだ音色が夜明けの川に落ちていく。きりり、きりり、きりり。
 彼女はそっと手を伸ばし、彼をゆるく抱き寄せた。彼はそれに答えるように彼女の頬にかるく触れる。
 水に流れて目には見えない涙を流し始めた彼女に、彼はまた、きりりと澄んだ音を鳴らした。
「ひとりじゃない」
 彼女は簡易な魚の言葉で言う。彼はその場でくるりと回った。同意をあらわす確かな合図。
「だいすき」
 彼女はあふれるような笑顔で伝える。彼はまた、くるりと回った。


 その日から彼女は多くを語り始めた。胸に溜め込むこともなく、思ったことを次々と口に出す。何もかも吐き出すように、彼女は毎日喋り続けた。そのため彼もいろんな言葉を覚えていく。合図や仕草もそれにあわせて何十にも増えていった。
 それでも毎日繰り返されるやりとりは変わらない。
 一日が終わるとき、彼女は必ず愛をこめて「大好き」と彼に告げる。
 彼もそれに同意をしめし、必ずその場でくるりと回った。
 それがふたりの変わらない日課だった。



「シラ。ほら、着いたぞ」
 言葉と共に何度も体を揺すられて、シラは重いまぶたをこじ開ける。いくらなんでも呑みすぎてしまったようだ。飲酒のために体がうまく動かない。シラは背負うカリアラの首に甘えるように抱きついた。
「いやー、ねむいー。ベッドまで連れてってー」
 カリアラは何も言わずにドアを開け、言われたとおりに運んでくれる。ゆっくりとベッドに下ろされ、シラはふやけた笑みを見せた。ふふ、と思わず声に出る。喜びがとまらないまま笑顔をつくる。
 水の中では自分が彼の面倒を見ていたのに、いまではまるで逆の立場だ。カリアラカルスは人間の体を持った。人魚は人の足をもち、人間と変わらない姿になった。
 あんなにも小さかった彼に背負われ、面倒を見てもらえるなんてどうして想像できただろうか。
「ほら、布団かけないと寒いぞ」
 だがシラはかけようとした布団ごとカリアラの体に抱きつく。確かに伝わる体温をかみしめて、口元をまた笑みにゆるめた。
「あったかーい」
「大丈夫か?」
 カリアラは心配そうに訊いてくる。シラは彼の腕を引き、近づけた顔の前で満面の笑みを見せた。
「大好き」
 久しぶりの眠りの挨拶。カリアラは以前のような仕草ではなく、嬉しそうに笑って言った。
「うん。おれもだ」
 シラは不意をつかれてぽかんと間抜けな表情になる。彼を見上げる顔がみるみると赤くなった。あまりにも明確な言葉に彼女はきゅうと口をむすぶ。
「どうした?」
「う、ううん。な、なんでもない」
 シラはもごもごと言い訳を呟いて、きょとんとして見つめてくるカリアラから距離を置く。顔が熱くてまるで燃えるようだった。今だけは、彼の顔をまともに見られない。
「大丈夫。また、明日ね」
「うん。明日な」
 そう言うと、カリアラは向かい側の自分の部屋へと戻っていく。
 シラはひとり残されて、ぎゅっとシーツの端を握った。なぜだかじっとしていられなくなって、頭から布団を被る。そのまま自分の体を抱いた。それでもまだ落ち着かない。今までとは全く違う感情が胸を騒がす。今までとは違う体、今までとは違う生活。不満や苦痛に囲まれている現状。
 だが新しく拓けていくその先に、今までとは違う幸せが見えたような気がした。
 口元が甘くゆるんでいく。ぎゅうと腕を抱きしめる。
「だいすき」
 懐かしい魚の声で呟くと、シラはわきあがる喜びのままに笑った。


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