スケジュール帳に提出日を書き込もうとして、ページを開くと薄い影がそこに乗る。 「ト」 大王だ。空き缶にそのまま小さな目を付けて、真ん中辺りをぱっくりと開いたような口を持つ、我が家に住み着く宇宙人。特徴は紙を食べてその中身をべらべら喋る、覚えた言葉を細かく使う。二年も住んで意思がイマイチ不通な家族。その大王の糸のような細い手が、今日のマスに伸びて触れる。 「トフコブニーニョ」 「は?」 妙と言えばいつもそうだがこれもまた妙な言葉。 「何それ。トフコブって何?」 「トフコブニーニョ」 とんとん、と今日の日付をしつこく叩く。トフコブニーニョと繰り返す。 「ト、ト、ト」 「あ、書け? ここに?」 「トフコブニーニョ」 はいはい、と仕方なく書くことにした。どうせ予定は真っ白だ、落書きぐらい惜しむほどのことではない。黒いペンで「トフコブニーニョ(意味不明)」と書き記す。 「これでよござんすか大王様」 「ト、ト、ト」 トフコブ、トフコブ、とまだ余韻を残しながらもテーブルから飛び降りる。どうやら気はすんだようだ。ころりとかわいい音がして、大王は見事に着地。 「でー、トフコブニーニョってなんなのよー」 背を向けた奴に向かい、もう一度質問を投げかける。無駄だろう、どうせ無視するんだろう。と諦めながらの言葉だったが。 大王は振り向いた。 「ヒー、ミー、ツー」 機械的な電子音でそう言うと、奴は床に横になった。 唖然とする私の視線を受けながら、そのままごろごろ転がっていく。 「トトトトトトトトトトトトトトトトト……」 ぐるぐると混ざりそうなその声が、奴とともに遠ざかって隣の部屋に消えていった。 「…………」 ゆっくりと頬をつねったが、ほんの少し痛かった。 「で、そのトフコブニーニョって何だと思う?」 姉妹共通子供部屋。一部始終を話し終え、力なくベッドに寝ころびながら、靖子に問いかけてみた。受験生の妹は机に向かって勉強中……と思えば雑誌を読んでいる。 「エルニーニョの仲間じゃないの?」 「あんた勉強大丈夫?」 靖子は「息抜きー」と言いつつも読みかけの雑誌を閉じてしまう。トフコブねぇ、と考えだした。 「飛ぶ、コブニーニョさん」 「あんた勉強大丈夫?」 誰だよコブニーニョさんって。 「だってそんなの解るわけないじゃんかー。大王の考える事なんか解ったら母さんよ」 「あの人は解ってるんじゃなくてマイウェイなだけだと思う」 大王がエサを何か食べていると「美味しいって言ってるよ」、延々と言葉を喋ると「今日はイキイキしてるねぇ」。アンタ解ってないだろう。と言ってみても無駄なことだ。 「ま、オバサンってそんなもんよ。いいんじゃない大王も知恵付いてきたって事でさぁ」 「知恵、ねぇ」 確かにスケジュール帳は何かを書き込むもの、という程度には付いたようだ。 「ただのエサ食い缶じゃなかったんだねぇ」 靖子がそう言いふと視線を横に逸らし、そのまま静かに動きを止めた。 「…………」 大王が、扉の隙間に立っている。 「……あの」 静かにこちらを見つめつつ、無言のままに立っている。 「……怒ってる?」 「エサ」 とてとてと近づきながら、カタカタと空腹の音を立てる。 「はいはいはい、ええとホラこれあげる。読んだから」 靖子は慌てて読んでいた雑誌を床に置いた。大王が近づいて、べりべり破ってむしゃむしゃ食べる。 「っわー、ドキドキした今。怖かったなんとなく」 「ホラーっぽかったよね今のシーン」 と、和やかに空気が回りだし、部屋の温度が元通りに温まった。変わらない平和な光景。私は紙を咀嚼する大王をぼんやり眺める。 「それは、不思議賑やかな台湾です」 そして、いつものように喋りだした大王を、なんとなくひょいっと持ち上げてみた。 「透明肌になっちゃった!」 喋り続けるその顔を、ぶら下げたまま正面から見つめてみる。 「どしたの?」 それには答えずなんとなく、手の動くままパカパカ開く奴の口に、 「改良のご」 手を突っ込んでみたりした。 「か、加奈子さん?」 中から外から外皮を掴み、勢いでぐいっと手をひっくり返す。 大王が裏返った。 「ふわあああ!?」 「おをう!?」 女二人がそれぞれに奇妙な悲鳴を上げて、大王を凝視する。 裏地はどうやら乳白色だったようで、銀色の外皮からは予想も付かない色だった。その乳白色一面に色んな文字が走っている。それらはあちこち方向を変えては行き交っていて、新聞の様に整然とはしていない。まるで大量の蟻か床にこぼした黒ゴマのようにも見えた。 「…………」 大王は、裏返ったまま喋らない。事の重大さにやった後で気がついて、おそろしすぎて掴んだ先は自分から出来るだけ遠く伸ばし、ヤケになって靖子に突き出してみた。 怯えまくったその口内で、ふごっ。と妙な声がした。 「だだだ、大王大王裏地ミール裏地ミル?」 錯乱しているようだ。 裏返った頭の部分が、指先をすっぽり隠すように被り、存分にその裏地を見せてくれる。さっき喋った言葉たちが、雑誌に載ったそのままの綺麗な文字で書かれていた。透明肌に台湾広告。模様のように雑然と広がっている言葉の中に見覚えのある悪筆が。筆ペンで走り書かれた判読の難しい字。 「……あのさ、トフコブニーニョって言ってたじゃん」 靖子は怯えて部屋の隅に避難しつつ、こくこくと頷いた。 「それさー……」 私は見つけた母の字を、指で示し靖子に見せる。 買うもの とうふ、コンブ ←二位の 「………………」 「………………」 二人で仲良く脱力した。 「お、これ旨いな」 お父さんが味噌汁を飲んで呟く午後七時。晩御飯を食べながら、私と靖子は視線を交わす。 「そうでしょー。ダシが違うもの。全国ランキング二位の昆布がね、今日朝市で特売で」 嫌な感じに半笑いで味噌汁に箸を入れ、豆腐をすくって口にした。ふと見ると、もしゃもしゃと食べていたエサが無くなって、大王がこちらを窺っている。 「エサ」 そうしてまたいつものように、カタカタと音を立て始めた。 大王がこの家に来て約二年。 ……謎は尽きない。 大王と言葉遊びシリーズ / へいじつや |