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 信じることができなければ悲しみにもならないのだと、そんな言葉を思い出す。
 降り続いた雨のせいで部屋は暗く湿っていた。足元に倒れる男はもはや人形に戻りかけて体温を持っていない。ペシフィロは、へたりこむピィスを抱いた。あまりのことに表情すら失った小さな子どもを。手足を投げたサフィギシルはまるで床の一部のようで、ペシフィロは家具を見るのと同じ目で彼を眺め、そのまま、ベッドの上に視線を移した。
 前のめりに伏しているのは、ビジスによく似た形の人間。もう、息をしていない。ペシフィロはそれに触れた。屈んだ顔を覗き込んで、何者なのかと確認した。冷たくなった肌に触れ、輪郭を確かめて顔立ちのひとつひとつを指でなぞった。調べるほどにそれは友に似通っている。これはビジスなのだろうか。問いかけながらも頭のどこかで冷静な答えが出ていた。これは、この無害な死体は紛れもない彼なのだと声高に叫んでいた。
 それでもペシフィロは死体に触れたまま不審に眉を寄せていた。まるで、死を理解できない幼子がそうするように。手の中で彼は言葉もなく熱もなく、歪んだ笑みも不遜な態度も何もかも脱ぎ捨てて、小さな、ただの硬くつめたい物体と化している。不可解な思いのままに彼の背を抱いていると、ピィスがか細い声で泣いた。それを聞いて、ペシフィロはようやく、ああ、と息をした。

 止まらないピィスの涙を幾度となく指で拭った。夜も眠れなくなった彼女を同じ布団にいれ、止まることがないほどに忙しい中、少しでも長く傍にいようとする。ビジスの死によってこなさなければいけない処理は波のようにふくれあがり、ペシフィロに押し寄せた。こんなにも多方面に気をつけて行動し、多くの涙を拭いたのはこの人生でもう二度とないだろうと確信できる。悲しみから立ち直れないジーナを支え、サフィギシルとの接触をはかりながら、深い傷を抉られた娘をただ抱きしめる。葬儀の準備、墓地の手配、これからの国の政策に外敵への対処法。やらなければいけないことは口にしきれないほどで、ペシフィロはビジスがいない毎日をただひたすらに駆け抜けた。
 ピィスに指摘されるまで、ペシフィロは自分がまだ泣いていない事にすら気づかなかった。
 そういえば、と呟いて乾いた頬に指をやる。眼が弱りきっているのはろくに眠っていないからだ。憔悴はしている。だが、悲しみは、かけらもない。どうしてなのかと尋ねられて、唇が勝手に動く。

 ――だって、ビジスはまだ。

 言いかけた言葉の無気味さにペシフィロは口を塞いだ。何を馬鹿なと息を飲み込む。全身が嫌な焦燥にかられて駆けていくようだった。この期に及んでまだそんなことを言うのか。ビジスは死んだ。彼らしくない死体となって、土の中にうずめられた。彼らしくなく。彼らしくなく。彼らしくなく。
 ビジスに対して幻想を抱きすぎていたのかもしれない。そうペシフィロは思い直す。あれほどまでに歴史をかき乱した人物も、結局は、ただの人間だったのだと言い聞かせようとする。だがそれでも頭の中ではビジスに呼びかけていた。悲鳴にも似た訴えを休みなく続けていた。
 あれがあなたの最期なのか。本当に、これで終わりなのか。
 実質的に、この世からビジスという存在が消滅したと考えるのは、ペシフィロにとってひどく困難なことだった。

 信じることができなければ、悲しみにもならない。
 誰の言葉だっただろうか。……ああ、そうだ、あの不器用な青年が亡くなったと告げたとき。乾いた声色で、ジーナが呟いたのだった。彼女は最後まで涙を見せず彼の葬儀を見届けた。
 そんな彼女も数日前の葬儀では壊れるほどに号泣し、立つこともままならない有様でペシフィロにすがりついていた。その様子を切り離された感情で眺めていた自分を、ペシフィロは恐ろしく思うようになっている。このままでは何かが欠けた人間になってしまう気がして、すぐにでも、泣かなければいけないと判断した。そうしてあふれていたジーナの涙を思い出しながら、悲しみを呼び起こそうとして、ペシフィロは、息をのむ。ここにきてようやく揺らぎのない事実に思い至った。

 泣くことはできないのだ。もうビジスはいないのだから。
 感情の制御ができなくなれば身に宿る膨大な力は暴発し、周囲のものを傷つけてしまうだろう。今まで何度それで失敗してきたか。幼い頃から泣きわめいては家のものを壊してきた。被害が出るからと山に置き去りにされたこともある。感情を押さえ込むようになってからはいくらかまともになったものの、その代わり、稀に怒り嘆いた時は自分を止めることができなくなった。
 そのせいで、たったひとりの我が子すら失いかけたこともある。
 力にのみこまれたペシフィロを止めてくれるのは、いつもビジスだった。

 だが、彼はもういない。
 ペシフィロはもう二度と泣くことができない。

 呆然とする膝に、ピィスが乗る。心配そうに見上げられて、ペシフィロはぎこちなく口を歪めた。笑いの形になっているかは、わからなかった。







 あっはははは、と声を揺らすと呆れた言葉をかけられる。
「……まったく。どのあたりがそう可笑しい?」
「いえ、だって、ねえ。やっぱり思ったとおりじゃありませんか」
 わかっていたんですよとペシフィロはまた笑う。腰掛けた隣で、かつての親友は想像だにしない姿で歪んだ笑みを浮かべていた。そんなばかなと言いたくなる。だが同時にこれでこそあなたなのだと無性に肩を叩きたい。
「わかってましたよ。あなたがあれで終わるなんて、絶対にないんだって」
 ペシフィロは規格外の再会にひたすら声を揺らしていく。苦しいのに笑いだすとそれが止まらなくなった。何が可笑しいのかなど答えられるわけがない。彼自身にも笑いの理由が理解出来ていないのだから。体を丸めるその横で、ビジスは優しく呆れている。その光景があまりにも今までと変わりがなくて、ペシフィロはさらに笑った。
 ぼろ、とぬるい水が頬に落ちる。不可解に思う間もなく涙があふれて、ペシフィロは手を添えた。
「ば、馬鹿みたいじゃないですか。こんな、ねえ? 大人しく死んでいればよかったのに。わざわざ、派手に、暴れて、そんな……本当に、相変わらずで」
 笑いながら瞼を覆う。それでも涙は止まらない。震える口に流れた水が伝っていく。
「こんな……こんな、いかにもあなたらしいこと」
 ビジスは隣で笑っている。いつものように。以前とまったく同じ様子で。
 ペシフィロは笑った。弾む声は水の中に沈められて揺れていく。ビジスの手が背を叩く。
 彼は笑いながら涙を流した。ひたすらに、声を溶かした。


“号泣”


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