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 どういうわけだかふとそれを伝えたい気分になって、特に気負うわけでもなくすんなりと口にした。
「先輩。俺、先輩のこと好きなんすけど」
 いつものように本を探していた彼女が振り向く寸前、心の中で「よし」と呟いて胸を張る。なんだ、言えたじゃないか。こんなにも簡単に日常の会話のようにあっけなく済むのなら楽なものだ。そんなことを考えながら反応を待っていると、頑固なまでに表情を見せない彼女は白々とした眉間にわずかな皺を作り、何を言っているのかわからないという顔で、
「え?」
 と、怪訝に答えた。





 悪夢だった。
 いや、それがすぐに夢だと理解できたのが幸いだろうか。見開いたシグマの目には間違いのない現実の風景が映っており、いつも通りの古びた自室の中には、口いっぱいに食物を頬張って租借しているカリアラがいる。まるで何らかの動物のようにほっぺたを揺らす彼は、息の荒いシグマに向かってひょいと片手を挙げてみせた。
「……なんでここにいるんすか」
 尋ねてもカリアラの口の中は小麦などでいっぱいになっているのだろう。シグマは同じ速度で噛み続けるカリアラの手をうろんに眺めた。食べかけのパンと、近所にあるパン屋の袋。
「くるみパンだ」
 食べ終えたカリアラが言う。
「おはよう」
「はい、おはようございます……」
 聞きたいのはそれではないと言っても無駄な予感がして、シグマは「旨いぞ」と差し出された手のひら大のパンを取る。まだほのかに温かいからおそらく出来たてだったのだろう。背後の窓はカリアラの不法侵入によって冷たい風をこぼしていた。パンを食べながら、それを閉める。
「こんな現実でも、悪い夢の後だったら少しは落ちつくものですね」
「なんか見たのか」
 二つ目のパンを割りながら問われて、シグマは返事に困ってしまう。この、無遠慮にもミハルとの仲を取り持とうとする男に言うべきことだろうか。またよくわからない説教まじりに突飛なことをされるのでは。だが疲れた脳では悩むのも面倒で、何よりもまっすぐに見つめてくるカリアラの目に耐えられなくて、シグマは眼鏡越しに見える彼の丸い瞳から視線を外して説明した。一体どんな夢を見たのか、心情も踏まえて切々と。
「それはお前の深いところの考えが原因だな」
 ふむ。とジャムのついた口で言われてシグマは軽く頭を落とした。
「深層心理です。というか絶対言われると思った」
「そのまま言うとお前の予測と被るから、ちょっと崩してみたんだけどな」
 手首で汚れを拭いながら、カリアラは思ったとおりの説教をする。
「いつまでもぐじぐじはっきりしないからそんな夢を見るんだ。本当はさっさとけりをつけたい、告白したいと思ってるんだろう? お前の中のちいさいお前がみかねて夢を見せたんだ。告白しろー、告白しろーって」
「いるんすかちいさい俺とか。小人みたいに動いてるんすか」
「毎日『いつになったらくっつくんだろうなーいらいらするなー』とか考えながら、お前のことを見守ってるんだすみっこで」
「それはカリアラさんじゃないんですか?」
 この得体の知れないアーレル人は、毎日のようにシグマの部屋に潜り込んでは口癖を繰り返すのだ。早く想いを打ち明けろだの、もう覚悟を決めてしまえだの。そのせいで夢を見たのではと考えて、シグマはげんなりと息をついた。
「第一、告白とかそういう関係じゃないんですって。夢の中だとなんとなく『あ、そろそろ言っとくか』みたいにやたらと自然に言いましたけど、それはあくまで夢の中の俺の考え方であって、起きたらもうそんなのはないんです。ってか失敗したし」
「失敗して嫌だっただろう?」
「それはまあそうっすけど」
 思い出して憂鬱になる。告白をするまではすんなりといけたのだ。まるで空気を吐くように伝えなければならないことを口にでき、胸のあたりで濁っていた心配があっけなく失くなった。これでもう大丈夫だとかろがろとした気分だったのに、真上から地に打ち落とされるようなあの表情。思いきり否定されるのではなく、気を遣われるわけでもなく、いかにも「何を言っているのか」という怪訝さが滲み出して、それはいかにも。
「なんかその失敗っぷりが、本当にありそうで余計心臓に悪いっていうか……実際ありえますもん。いかにも先輩が告白されてする顔ですよーみたいな生々しさが、もう……」
 それまでの浮かれぶりまでもがあまりにも本物らしく、目覚めた場所がこの部屋でなければ、夢と現実の区別がつかないのではと思うほどだ。シグマは思い出した居心地悪さにうつむいた。
 無防備なその頭に、ぽんと手が載せられる。カリアラはシグマの視界が揺らぐほどわっさわっさと頭を撫でた。
「……あの」
「よしよし」
 戸惑いのままに目線を上げても、ただ無表情で撫で続けるカリアラの顔が見えるばかり。シグマはとりたてて大きくもない彼の手に揺すられながら、この突発的な嵐が去るのを待った。
「慰められたか?」
「……はぁ」
 否定する度胸はない。カリアラは、自分よりも幼いものはとりあえず頭を撫でてかわいがるくせがあるのだ。彼からすれば人類皆年下なのではとも思うが、そんなことはこのご長寿には関係ない。
「俺、もう二十六なんすけどね……」
「俺が知る二十六歳は、物事をしっかりと決めることができた気がするけどな。お前は駄目なところがいっぱいある。だから怖い夢を見るんだ」
「まあ怖くはありましたけど」
 まだ撫でていた手をカリアラが「よし」とおさめる。
「俺がいい夢を見せてやる。寝ろ」
 何なのかと訊く間もなく、シグマの体は布団の上へ再び突き飛ばされた。驚いて起きようとする肩を掴まれて押しつけられる。
「は!? ちょ、何するつもりですか」
「催眠術だ」
「怪しい! なんかすごい危険の予感!!」
 大丈夫俺を信じろと真顔で言われ、戻された掛け布団の上からカリアラが腕を落とす。
「ねーむれー ねむれー ……よーいこー ねーむれー」
「歌詞覚えてないんならいいっすよ!」
 だがカリアラに改める気はないのだろう。とりあえずこれだけは知っているとばかりに、「ねむれ」と「よいこ」を繰り返す。単調な節に合う、妙に延びのいい歌声。不覚にもシグマが眠気を感じたところにカリアラが小声で語る。
「告白が成功してうまく恋人になりますように……」
「それ催眠じゃなくてお願い事じゃないすか」
「さっきのは歌が慣れなくて失敗したけど、もう覚えたから次は成功する……成功する……」
「あれ!? もしかして最初の夢もこれが原」
「ねーむれー よーいこー グーイエーン ねーむれー」
「誤魔化してるー!」
 だがどこまでも単調に続く終わりの見えない歌声に、眠るまいと頑張っていたシグマのまぶたは重くなる。いけない、起きなければ。そう考えてもカリアラの手は彼の体を押さえていて、叩き続けるその節に導かれるようにして、シグマは再び眠りに沈む。




 ――今度こそ。シグマは緊張をなんとかして無くそうと、深い呼吸を繰り返した。数歩先にはミハルがいる。独り言も伝わる距離だ。聞こえないなんてことはない。シグマは幾度となく言い聞かせた言葉を胸に浮かべる。大丈夫、今度は歌が違うのだから。
 あの時は自然にふやけた顔をしていたに違いない。だが今のシグマは、まるで冷凍されてしまったかのように強張った顔つきだった。心臓ばかりが先走って素早い動きで空気を送る。そのはやりに言葉まで倍速になりそうだ。それはいけないと考えて、ゆっくりと口を動かす練習をする。
「せ、せんぱい」
 声は予想通り震えた。案の定といったところだ。だが挽回はこれからだとシグマは顔を引き締める。
「俺……先輩のこと、好きなんです」
 言った。ああ言ってしまった。そんな衝撃がシグマの体を突き抜けた。安堵もあった。後は野となれ山となれと思う気持ちも。言えただけでバンザイだという考えにゆるゆると胸を休めていたが、問題はここからである。ミハルはどう答えるのか。前回のように傷つかないよう、シグマが必死に構えていると、振り向いたミハルはかすかに怪訝な顔をした。
「え?」
 あの時と同じ表情。だが二度目のシグマはへこたれない。負けはしないと息を詰めて彼女に向かう。ミハルは不思議そうに言った。
「今さら何を言ってるんだ?」
「え?」
 言葉としては同じでも、ミハルのものより随分と間が抜けた声でシグマが応える。ミハルはきょとんとして続けた。
「わざわざ繰り返してもらわなくても、私たちは、もう」
 ええっと騒いだ後で、すぐさま記憶が修正される。ああそうだ、もう告白なんてとっくの昔に終わらせて付き合っているんだった。あはははと誤魔化すために笑いながら、シグマは照れて頭を掻く。
「そうっすよねえ。いや、なんか不安になったっていうか、言いたくなったっていうか……」
「まったく、しょうがないな。またおかしな夢でも見たのか?」
 かすかに笑う彼女を見て幸せがこみあげてきて、シグマは喜びを実感する。そうだ恋人同士だったんだ。なんだそうかそうだったよな。そう、これからの幸せな日々に思いをはせていると、ミハルは無表情に戻っていつものように指示をした。
「じゃあ実験を始めるぞ。すまないが、そこに座ってくれ」





「変わってねえ――!!」
 絶叫で目覚めたのか、起きると同時の叫びなのか。どちらなのかはわからないが、シグマはとにかく声と共に起き上がった。カリアラがびくりと腕を痙攣させる。丸まった彼の目を眼鏡越しに見つめ、シグマは泣きたい思いでまくし立てる。
「付き合ったからってなんにも変わってないじゃないっすかー! まったくいいとこなしっすよ!!」
「何を期待してたんだお前は」
「なんかこう……いい感じの雰囲気とか! 熱々とかそういう……ねえ!? 結局実験!? 結局そればっかり!?」
「そりゃ恋人同士になったら、遠慮もなくいろんな実験ができるからな。いいじゃないか、お前も遠慮なくいろんなことをすれば」
「それが具体的に想像できないからこんな夢になるんでしょうが!」
 口にしながらシグマはその原因に気づいている。彼自身、どうにもあの淡白な先輩に欲を絡めることがうまくできていないのだ。何をしようとも無表情で流されそうで、それ以上の想像にいたることが難しい。無理やりに創り上げても、偽者の気がしてならない。
「俺、あの人のこと女として見れてないのかな……」
「大丈夫。ミハルも同じだろうから」
 それは何ひとつ大丈夫じゃないんですがと言いたくても、カリアラがまた頭を撫でてくれているのでろくに喋ることもできない。シグマは大人しく乱雑な慰めを受けた。ある程度撫でたところでカリアラが言う。
「じゃあ次はそういう本を朗読してやるから。横になれ」
「聞きたくねえー! そんな気まずい空間嫌っす!」
「じゃあ今度一服盛ってやるから。手っ取り早く既成事実作れ」
「犯罪! それ犯罪ですから!」
 きらりと輝くカリアラは、一体何が悪いのか心底わからないという顔をしている。シグマはこの老人にどう常識を教えようかと痛む頭を抱えつつ、二度と夢を見せられないようベッドを降りた。



“告白”


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