「もし、『愛している』という言葉をたったひとつのものにしか捧げられないとしたら、何に愛を告げますか?」 突然に尋ねられて、ペシフィロは手を止めた。向かいの席では書類の整理に疲れた部下が、遊んで欲しそうに笑っている。もう作業を続ける気はないのだろう。彼はペンを回しながら、ペシフィロに問いかけた。 「人じゃなくてもいいんですよ。『誰』じゃなくて『何』だから」 「たったひとつ? 一生のうちで、ですか?」 同じように仕事を置いてペシフィロは話に乗る。そろそろ休憩を入れる時間だ。たまには息を抜かないと、まだ若いこの見習いは眠たくなってしまうだろう。 「そう、ひとつだけ。もし決めてしまったら、今後一生そのものにしか愛してると言えないんです」 「ピィスです」 部下はやっぱりという顔で笑った。 「ぶれがなくていいなあ。でも即答すると嘘っぽいですよ」 「じゃあもうちょっと考えてみましょうか。えーと、そうですね……」 真剣に考える時間はそう長くは続かなかった。 「考えてみても、やっぱりピィスですよ」 確固たる真理なのだ。今、心の底から愛していると言える相手は我が子以外になかったし、これからも変わりはなさそうだった。 部下はわざとらしい声をあげて、あーあと机に伏せてみせる。 「いいですよねー、断言できるだけの自信があって。この質問ね、昨日彼女に言われたんですよ。そんで俺悩んじゃって、結局『決められない』って言ったら怒って帰られちゃいました」 「なるほど」 その恋人は『お前だよ』とでも言って欲しかったのだろう。 「私も、そういう風に言われると困ってしまうでしょうねぇ。かわいらしい質問なんだから、簡単に答えてあげればいいんでしょうが、どうも真剣に考えてしまうたちで……」 「そう、そうなんですよ。『お前に決まってるだろ』とかいう台詞を思いつく前に、つい真面目に考えちゃうんですよね」 「人ではなくて物でもいい、というのも罠ですね。趣味のものとか、自然物に行きそうで」 「俺あのとき魚の燻製とか考えちゃったもんなー。そもそも、迷わずに言えるぐらいじゃないと、満足してくれないんですよ。そういう女なんですよあいつは」 「同じ質問をしてみたらどうですか?」 愉快な笑みを口にして、ペシフィロは提案する。 「忘れたころに、ふいをついて。多分ね、彼女さんも悩むと思いますよ。即答できる人なんてそうそういないはずですから」 「いいですねぇ、やってみます。それ見たことかと笑ってやる」 「けんかにならない程度にね。かわいい人じゃないですか。大事にしてあげなさい」 「付き合ってる方からしてみたら、かわいさよりも理不尽さが勝つんですけどね……」 だが部外者の目から見れば、ぐだぐだとペンをいじる彼のむくれぶりも含めて微笑ましい。 「いいですねぇ若いって。さ、今日中にこれを終わらせないと、仲直りもできませんよ」 「はぁーい。手土産でも持って行くかなぁ」 多分それは魚の燻製なのだろう。彼は庭に専用の装置を作るほど燻製が好きなのだから。 仲直りの光景が目に浮かぶようで、ペシフィロは和やかな気持ちで仕事を再開した。 質問を思い出したのは、その数日後のことだった。 いつも通りどっかりと執務室の椅子に座るビジスを見て、ふと訊きたくなったのだ。 「もし、『愛している』という言葉をたったひとつのものにしか捧げられないとしたら、何に愛を告げますか?」 何の前置きもなく言うと、ビジスは軽くこちらを見上げて答えた。 「お前だ」 「即答すると嘘っぽいですよ」 言われるのはわかっていたので、横に流して訊き直す。 「そういう冗談はいいんですよ。真剣に考えた、あなたの答えが知りたいんです」 「お前も何の迷いもなく嘘だと決めつけるなァ」 「本当のわけがないですし、本当だったとしても嫌です」 「なんだ、わしらの愛は冷めたのか」 「で、何に愛を告げるんです?」 構っていてもしょうがないので無視をする。 ビジスはわざとらしい息をついて、深く椅子の背にもたれた。 「わしは博愛主義だからなァ。そう言われても困ってしまう」 「そこを考えるのが面白いんじゃないですか。たまには一つにしぼりましょう」 他に人がいれば「博愛主義」に意義を唱えるところだろうが、ペシフィロはあえてそこには触れない。ビジスは憎らしさから人々を苛めているわけではない。彼なりの愛をもって、めいいっぱいに可愛がっているのだ。たとえそれが猛獣の大暴れや、怪しい魔術の実験という形でも。 「ついでに、みんなに対する愛し方も、もうちょっと改めてください」 「激しくして欲しいのか? 貪欲だな」 ああ面倒くさい。という感情を思いきり顔に出すと、ビジスは愉しそうに笑った。 これもひとつの愛の形だ。ビジス本人以外には何の得もない愛だが。 「たったひとつ、なァ」 ビジスは珍しく真面目に考え込む。顎に指を添えたまま、彼の視線は中空に向けられた。その目がゆっくりと下に降り、床を突き抜けてどこか遠い場所へと飛ぶ。この部屋の中ではないどこかを見つめながら、ビジスは小さく口を開いた。 「 」 「え、なんですか?」 低い声は、響かない割にはよく聞こえたのだが言葉の意味がわからない。ハイデル語ではない。キシズ語でも、おそらくヴィレイダ語でもないはずだ。それはペシフィロの知らない言語だった。 ビジスはひどく苦いものを含んだように、重くにぶい舌打ちをする。あまり、よい答えではないようだった。少なくとも彼にとっては。 ペシフィロはビジス・ガートンらしくもない表情を驚いて観察する。 ひそめられた眉の根に、言いようのない感情がこびりついていた。そうではないとすぐにでも撤回したく思っているような、この答えに落ちつくのは耐えられないとでも言いたそうな、嫌悪に満ちた顔をしている。 「……まったく」 誰にもわからない彼だけの感情を呟いて、ビジスはうんざりと目を閉じた。 あるとき偶然に、ペシフィロはその言葉に再会した。 ビジスの蔵書が収められた図書室の中で、適当に選んだ本をめくっていたのだ。古いページを見渡す限り、それは辞書であり同時に博物辞典のようだった。 あの時、ビジスが呟いたのはやはり遠い国の言語らしく、印刷された言葉の綴りは、どう読めばいいのかどころか、どちらの方向から解読するのかもわからない代物だった。並んでいる文字列があの言葉だとわかったのは、ペシフィロの知る言語による読み方が記されていたからだ。耳の中には呟きにも似たビジスの声が、今聞いたばかりのように鮮明に残っている。辞書に記された発音記号をたどっていけば、おそらく同じ音の並びになった。 難しい言葉だ。添えられた説明は随分と哲学的で、そういったものに慣れていないペシフィロは、本を傾けたり、体を揺らしながら読まなければ落ちつかない。だが結局のところ、一言で訳してしまえば「世界」となるようだった。 世界。全。すべてのもの。だが散漫とした百ではなく、千でも、万でも億でもない。それはただ一つなのだと説明は語っている。 (なんだ) 呆気のない解答に、ペシフィロは力を抜いた。もっと重大な事実が隠されているかと思ったのに、蓋を開けてみればいつもの理屈だ。いかにも「博愛主義」を自称する彼の言いそうなことだ。ひとつなんて選べない。だからすべてを対象にする。ほんの少し機転を利かせた、謎めいた問題へのずるい答えだ。ただひとつと制限しているのに、それを軽く飛び越えるなんていかにも彼だと微笑んで、その口の端が凍った。 (違う) 見逃してはいけない。この言葉は、ただの抜け道ではない。 長らく傍にいたペシフィロは知っている。あの時のビジスの様子が、普段とはまったく違っていることを。 辞書の説明はさらに続く。 全てであり同時にただひとつでもある。時に、それは無にもなりえる。 わからない。だけど捨ててはいけないと感覚で理解している。言葉の波がどれほどに押し寄せても、この一文は手のひらに握りしめたまま、決して流してはいけない。 ペシフィロは指で言葉に触れた。乾ききった印字はもう移ってはくれないだろうが、それでも薄皮一枚を越えて、体のなかに取り込めないかと考えた。わからない。どうしてこんなことをしているのかも、ビジスがなぜあんな顔をしていたのかも、なにもかも。 すべて。ただひとつのこと。 ペシフィロは眉を寄せた。ここではないどこかを見つめる顔は、きっと、あの時の彼に似ている。もしかするとまったくの同等なのかもしれない。すべて。ただひとつのこと。 ペシフィロは辞書を閉じた。 (わからない) “不満” |