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 気配を感じて振り向くと、そこには全裸のビジスが立っていた。
 ペシフィロは踏み潰された猫のような悲鳴を上げて、くつろいでいたソファを飛び降りる。読みかけの本と一緒に体を丸めて、改めて彼を見上げた。
「い、いつ帰ってきたんですか」
 ビジスは口を開くが声には出さず、ゆっくりと唇を動かしてまた閉じる。ペシフィロが訝しむのを見て笑い、台所の方を指さした。今歩いてきたばかりなのだろう。居間にいるビジスの足から、通路を横切り、台所に抜け、裏口を通って庭の井戸に至るまで水による道が伸びている。井戸の手前には泥まみれになった彼の服が脱ぎ捨てられていた。
「片付けておけ」
 今度はきちんと声が出る。だが久しぶりに動かしたらしき喉は随分鈍っていたようで、彼らしくもないしわがれた響きだ。あ。あ。あ、と小刻みに調子を整えながら、ビジスは服も着ないまま居間の中をうろついた。
「腹が減ったなァ。火の通ったものがいい」
「今用意するから待っててください。ああもう、水びたしじゃないですか」
 水を浴びてそのまま歩いてきたのだろう、不ぞろいに伸びた髪からしずくがこぼれている。彼が歩いた形は水たまりとして床に残った。
 まずは適当な布で拭こうと近寄りかけて、ペシフィロはぎくりと止まる。
「お願いですから、下着ぐらいは穿いてくれませんか」
 ビジスから円を描く一定の範囲内に、入っていくことができない。
 ペシフィロは、どうしても目の前のものに対して堂々とした態度を取ることができなかった。動物的な本能から来る恐怖を感じて、身が竦んでしまうのだ。なるほどまさしく雄としての武器なのだと、納得して目をそらす。ビジスは相変わらず隠しもせず腰に手を当てていた。
「このまま踊ってみせようか?」
「やめてくださいよ、もう……。ジーナがいなくて良かった」
「なんだ、帰ったのか」
「今何時だと思ってるんですか。暗くなる前に帰しましたよ。さんざん文句を言われましたけど」
 大人びているとはいえ、まだ十代の少女を夜遅くまで遊ばせているわけにはいかない。ビジスは今日こそ帰ってくる、だからそれまで待っていると口をひん曲げて主張していたが、彼女の自信と直感はちっともあてにならないので、早めに家へ帰らせた。
 まさか本当にビジスが今日戻ってくるとは思わなかったのだ。ここ十日近く、「今日帰ってくる」「今日こそは戻ってくる」というジーナに付き合って延々と待つはめになったペシフィロは、すっかりと疑心暗鬼になっていた。
 ビジスは床を濡らしながら廊下まで歩いていき、積み上げられた衣類の山から適当な下着を引き出す。ペシフィロはそれを横目で確認しつつ、遅い夕食を出すために台所に向かった。
「もう、帰ってこないのかと思った」
 ビジスが突然姿を消すのは、今に限ったことではない。そのたびにペシフィロは、彼が二度と現れないのではないかと不安になった。きちんとした旅支度をして、どこかの国に行くならまだいい。だが今回のように、何も言わず、まるで引き寄せられるように山にこもるのはいけない。まるで彼があるべき場所に還っていくような気がするからだ。
 ペシフィロは、ビジスが消えた半月前のことをはっきりと覚えている。それまで何事もなくたわいのない会話をしていたのに、突然、ビジスの目はあらぬ方へと向けられた。
 月を、見ているのかと思った。虚空を向く彼の視線は、ふいに現れた満月に気を取られた人のようだったから。だがペシフィロがどんなに視線を追ってみても、そこには夜の闇しかない。声をかけても答えない。腕を取っても反応しない。やがてビジスは一点を見つめたまま歩きだし、木々の入り口に差しかかると、そのまま山に入ってしまった。
 底知れない自然の闇が彼を包んであっという間に見えなくなる。ペシフィロはただ一人残されて、呆然と立ちすくんでいた。山が、彼を迎え入れたのだと思った。そして二度とこの世には帰してくれないのだと、心の奥で感じていた。
「もう、帰ってこないのかと思いましたよ」
 用意した食事を並べながら、ペシフィロは繰り返す。今度はちゃんとビジスに向かって。
「そのまま、野生の獣になるのかと」
 ビジスは膝まである下穿きの紐を結び、ふつふつと笑みを浮かべた。
「獣、なァ。だとしたら、お前はどうする」
「……また、そんなこと言って」
 行くなと言えるわけがない。そんな権利は持ち合わせていなかったし、待ってくれと懇願する切実さにも欠けていた。実際のところペシフィロができたのは、彼の消えた跡を言葉もなく見つめることだけで、後はただ「絶対に戻ってくる」というジーナの言葉に従って、家の中を整えておくぐらいだった。
 ペシフィロはグラスに水を注いだ。食卓にはジーナの手料理が並んでいる。香りのいい葉に包んで蒸した白身魚に、骨付き肉と野菜の煮込み。ほのかに赤く澄んだスープは魚で味を出している。今日の素材は幸運だ。製作者の思惑通り、ビジスの口に入るのだから。
 熱意のこもった料理をつまみ、ビジスは感慨もなく告げた。
「塩が一つまみ足りない。肉は火が強すぎた。焦らずに弱火で煮込め。スープには刻んだ香草」
「ジーナに言っておきますよ。少しは感謝してあげてくださいね」
「上手くやるさ。いつものことだ」
 どんなに料理をけなされても、ジーナは負けないだろう。言われたことをよく覚え、二度と失敗しないように限界まで気を張りつめて、何度も練習を重ねて再びビジスに挑むのだ。そうして彼女は料理の腕を上げてきた。技師の腕も、女としての立ち振る舞いも。
「及第だな。次は揚げ物でも作らせるか」
「花嫁修業みたいですねぇ」
 こうして師匠は弟子を鍛える。コウエンは娘がビジスの元に通うのを嫌がっているが、ジーナのためを考えると、ビジスに任せておくのは正解と言えるかもしれない。
 ビジスは味の染みた肉をつまみながら座ろうとして、椅子を蹴飛ばしてしまう。ぼんやりとした目で横倒しになった椅子の脚を見ていたが、軽いため息をついて料理と共に移動した。ペシフィロも慌てて食卓から皿を取る。ビジスは床に座り込んで、その場で食事を再開した。
 椅子に座ることができないのだ。しばらくの間、家具とは無縁な生活をしていたから。
 これが一番落ちつくとばかりに膝を開き、ビジスは指で魚の身をむしっていく。道具など使わず自分の手のみで食べる。山から帰ってしばらくはこうだ。指や顔が汚れるのも厭わずに、乱雑に餌を頬張る。食事という言葉よりも、捕食の方が似合いそうだ。噛みちぎる骨付きの肉が、まるで今喉笛を裂いたばかりの獲物の一部に見えてくる。
 ペシフィロは改めて彼を見た。無言で口を動かすビジスの眼は不気味なほどに澄んでいる。どこまで覗き込んでも情念を見つけられない、透明な動物の瞳だ。彼はよく「賢い獣」と揶揄される。策略に満ちた知能を持ち、人としての感情を失くした得体の知れない生き物だと。
 山から戻った彼を見ると、肯かざるを得ない気がする。例えば獅子が人を超える知性を持ち、自由気ままに人間界を闊歩すればビジスのようになるだろう。頭のいい獣は実に巧妙に人に化ける。文明文化を前面に押し出した社交の場でさえ、鋭い爪と牙を隠して優雅にダンスをしてみせる。
 本当に、巨大な獣が餌を食べているように見えてきてペシフィロは眉を寄せた。
 ビジスが面白そうに顔を覗く。
「もっと脱いでやろうか?」
「一枚しか穿いてないじゃないですか……嫌ですよ。ちゃんと服を着てください」
「面倒くさいなァ。いいじゃないか。珍しいものなんだから、今のうちによく見ておけ」
「どこが珍しいんですか。しょっちゅう脱いでるくせに」
 特に夏場は暑いからと、家の中ではあちこちに服を投げるのだ。肌寒い今の季節でさえ、肌着一枚着ようとしない。今さら何をと思いながらも、ペシフィロはビジスの体を眺めた。
「まあ、確かにちゃんと見たこともありませんけど。だって見てもしょうがないでしょう、年寄りの体なんて」
 言ってはみたが、目の前にある男の体は、とても八十を越えた老人のものには見えない。肌に張りがあるわけではないが、薄皮の下に浮かぶ筋肉が皺を伸ばし、年齢をわからなくさせている。
 以前に見た時よりも痩せているのは、しばらくはろくな食事を摂っていなかったからだろう。彼にしては珍しくあばらの浮いた胸から腹にかけて、肉が削げ落ちている。だが飢餓状態のような痛ましさは微塵もなく、一本一本がはっきりと見えそうな筋肉の線が彼の体を立たせていた。
 腕を軽く動かすだけで、全身の組織がどんな働きをしているのか目で確かめることができる。元々、余分なものなどなく鍛えられた体だが、こうしてわずかに残っていた脂肪すらなくなると、よりいっそうすさまじく見える。美しい形ではない。ペシフィロに審美眼の自信はないが、おそらくもう少し無駄な肉があった方が、美としても欲としても優れているのだろうと思う。
 今目の前にあるビジスの体は、ただ整っているのだ。人間が肉体を最大限活用するために必要なものが、一番単純な形で集まっている。それだけだ。他には何も付いていない。
 必要であれば彼は脂肪をつける。無駄な筋肉を増やしたりもする。狙った相手を取り込むために姿形を変えていくのだ。そうやって目的に応じた体を作るのがビジス・ガートンという男だった。
 だとすればこれが彼の基本形だ。一番簡単な図面で作られた人型細工のように、これがビジス・ガートンという男の体の、雛形なのだ。そう考えると確かに珍しいものに思えて、ペシフィロはじっくりと彼の肉体を観察した。
「お前は、いつまで経っても気づかんなァ」
「何がですか」
 顔を上げるが、ビジスはスープを口に含んでゆっくりと飲み干している。次の言葉が放たれる前に答えを探そうとするが、ペシフィロがどんなに考えても発言の意味はつかめなかった。
 ビジスは脂で汚れた口を上げて、愉しそうに、ペシフィロの体を見る。
「お前には、たくさんつけたというのに」
 ペシフィロは胸を押さえた。この体には、心臓を取り囲む形で刺青が入れられている。ビジスが描いた傷跡だ。その他にも、度重なる闘いでいくつもの傷をつけられた。何針も縫った胴体には痕跡が残っている。きっと、一生消えることはない。
 だがビジスの体には一つの傷も走っていない。縫った痕も、かさぶたの一つでさえも。
 こんなことがあるだろうか。ビジス・ガートンは数多の戦場を駆けてきた。たった一人で国を滅ぼしたという伝説もある。何人もの命を奪った。数えきれない人や獣の体に傷を刻んできた。後々に痕を残すような負傷が一つもないなどと、どうして想像できるだろう。
 ペシフィロはビジスの肌に触れた。関節や肉の合間に隠れているのではないかと、肌をたぐって探しもした。だが、どんなに目を凝らしたところで傷らしきものはなく、信じられない生き物としてビジスはそこに座っている。
「治るんだ」
 ビジスは笑みを含んで言った。
「どんなに深い傷を負っても、それが致命傷であろうとも、いつの間にか治ってしまう。……まァ、信じるかどうかは任せよう」
 嘘を、言っているのだと思いたかった。おかしい。こんなことがあっていいはずがない。そう、頭の中で常識が騒いでいる。知りたくはないという想いが逃げてしまえと訴える。
 ペシフィロは呆然とビジスを見た。ただの、随分と変わった人間だと思いたかった意識とは裏腹に、笑う彼の姿形は別のものに変化していく。それが何かはわからない。だけど、人間とは言えない。
 ビジスは彼の体を見せる。
「触っておくか? お前も不死身になるかもしれない」
 ペシフィロはつられて笑ってみた。無理に上げた口の端が引きつる。彼を見る目が変わっていくのを、顔色が拒絶に遠くなるのを、どうしても止めることができない。
 ビジスは笑っている。笑い返すことができなくて、ペシフィロは無様に揺らいだ。


“知らなかった”


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