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 息をのむかすかな音。カリアラが見つめる前で、ジーナはひとつひとつ丁寧に指をさして確認していく。カリアラは石でできた心臓が震えそうになるのを感じて、またひとつ息をのんだ。ジーナもまた瞬きすら忘れたまま同じ呼吸を続けている。あと三ページ、二、一 ……。
「全問正解!」
「やったー!」
 ジーナが学習帳を放り上げるのと同時、カリアラは全力でバンザイをした。彼と彼女は弾けんばかりの笑顔になって、互いの肩を叩きあう。
「凄いじゃないか! 一問も間違いなしだ!」
「すごいか!? おれえらいか!?」
「ああ、えらいぞ。よくやった!」
 ぐしゃぐしゃと髪をかき回されてカリアラはさらに笑う。これもめがねのおかげだな。と大分肌に馴染んできた銀色のふちに触れた。アリスにこれを渡されてからというもの、カリアラの学習は驚くほど軽やかに進んでいる。今にしても、丸一日かけて取り組んだ問題がすべて合格だったのだ。カリアラもジーナも、これまでどんなに手を尽くしても進歩がなかっただけ喜びもひとしおである。長らくの鬱憤を晴らすかのように二人は笑顔で叩きあい、騒ぎながら抱き合った。
 入り口に、人の気配を感じたのはしばらくしてのことである。
「あ、サフィ」
 まず初めにカリアラが気づいて目を丸くした。続いてジーナが固まった。カリアラの頭は彼女の腕に抱えられ、胸の中へと抱きしめられて温かく密着している。先ほどまで頭皮が外れそうなほどになでられていたのだが、ジーナはそれを隠すようにカリアラの髪から手を引いた。
「な、なんだ、来てたのか。ノックぐらい……」
「した。何回も」
 声も、顔も、周囲に漂う気配でさえもあからさまによどんでいる。今までになく不機嫌なサフィギシルにジーナが引きつるが、カリアラは意味がわからない。どうしてそんなに顔をゆがめているのか、こちらをちゃんと見ようしないのは何故なのか気になって、探る目で彼を眺める。サフィギシルは石敷きの床ばかり見つめていたが、わずかにくちびるを噛むと踵を返して歩きだした。
「あ、帰るのか? サフィ!」
 呼びかけても返事をしない。不可解なカリアラに、ジーナが厚いコートを着せた。内側までたっぷりと毛皮の施された、寒さに負けないための服。きょとんとしていると、あせる手つきでマフラーに帽子に耳当てに、と次々に帰宅用の支度をされる。
「まったく、先に行ってどうする。しょうがない、今日はもうおしまいだ」
「そうなのか? でもまだ宿題もらってないぞ」
「ああ……ま、今日はよくできたから休みでいい。早くあれを追ってくれ」
 ジーナはカリアラの肩に鞄をかけると、呆れじみた息をした。
「じゃあまた明日。頼んだぞ」
 カリアラはその言葉に背を押されて廊下へと走り出す。頭の中にはもやもやとした重ったるさが満ち満ちて、手足とは反対に動いていく感覚がない。技師協会の中を走りながら、カリアラはようやく自分が納得していないのだと理解した。
 いつもならばあともう少し勉強をして、宿題を確認して、ジーナやアリスなどと話をするはずだったのだ。カリアラにはまだ学習したいという想いがあった。宿題にしても、今の彼に取っては苦になるどころか楽しいことばかりなのだ。それなのに、急にそれらを打ち切られてしまった。ただ、サフィギシルが機嫌を損ねたというだけで。
 口元が勝手にゆがむ。気持ちの据わりがやけに悪くてカリアラは眉を寄せた。
 サフィギシルはどうして不機嫌なのだろう、と考えると先ほどの場面が頭に浮かぶ。カリアラは、そうか、と呼気で呟いた。カリアラとジーナが仲良くしているのを見て、サフィギシルが怒ったのだ。気がついたところで張本人の背が見えて、カリアラは足を止めた。
「サフィ!」
 サフィギシルは一度振り向いて、また歩きだす。技師協会を出ていくのでカリアラもそれを追った。外に飛び出したとたんに冬の空気が肌を切る。カリアラは、愛用の赤いマフラーを頬に当てて歩みをゆるめた。足元で鈍い音。雪が道に積もっているのだ。滑らないように下を向いて足を動かす。雪はいくつもの靴の跡に固められて泥色になっている。踏むたびにじゃくじゃくと耳をくすぐる音がした。
「サフィ」
 答えはない。サフィギシルは肩をこわばらせたまま早足で先を行く。カリアラは彼の後頭部を見つめながら、先ほどの表情を思い出していた。振り向いたとき、サフィギシルは一瞬だが弱い顔をしていたのだ。まるで自分の行動を申し訳ないとでも言いたそうな、それでも言葉にできなくて苦しんでいるような。カリアラは融けかけた雪を踏みながら、前を行く背中を見た。
 きっと今、サフィギシルは眉をゆがめているのだろうと考える。目の奥に痛みをかかえたような顔をして、カリアラが見つめると斜め下を向いてしまう。その角度も、表情でさえも、カリアラにはありありと想像することができた。サフィギシルが何を考えているのかも、わかった。
 彼は今、自分が起こした行動に後悔をしているのだ。カリアラとジーナが仲良くしている光景に、疎外感と嫉妬を覚えて悪い態度を取ってしまった。だがそれは彼の本意ではなく、どうして自分はこうなのだろうと重苦しく沈んでいる。だからこちらを見ることができない。
 カリアラは、脳が驚くほど素早く動き、結論に繋がっていくのを感じている。今まではよくわからなかったサフィギシルの行動が理解できて、そうなのかと胸のうちで感嘆した。脳が上手く使えるようになってから、こういうことが増えている。だがサフィギシルの心境が見えたのは、それだけが理由ではない。
 いつもとまったく同じだからだ。彼の動きや表情が。
 ぎこちない感情のまま失敗をする。事態をさらに悪くして、罪の意識に囚われる。そうしてカリアラに対していつも申し訳ない顔をするのだ。本当は、悪かった、ごめんとでも言いたいのに、その一言が声にならなくて苦しそうにつばをのむ。
 いつもならば、そのあたりでカリアラが解決の道を差し出している。無関係なことを言って、気にしていないと教えたあとでサフィギシルを喜ばせる。そうすれば彼は沈みから抜け出して笑うことができるのだ。カリアラ自身に故意的なものはなかったが、いつの間にかそういう流れが二人の中に生まれていた。
 では、このまま何も言わなければどうなってしまうのだろう。
 カリアラは唐突に湧いた感情に知らずと足を止めている。
 カリアラは、今まで自覚もなくサフィギシルを励ましてきた。自分から失敗をして勝手に沈んだこの男を、その度に平穏へと引き上げた。わざわざ、みずから落ち込んだだけの相手を。どうでもいいようなことであえて苦しんでいるだけの者を。
 カリアラは足を止めている。進む動きすら重く見えるサフィギシルは、気づきもせずにまだ暗い思いの中を進んでいる。いつもなら自然と助ける手が伸びた。だが今は、動かない。カリアラには沈みゆくサフィギシルを掬う気がなくなっていた。
 ただサフィギシルひとりの憂鬱で、自分の学習や行動に制限をかけられるのかと考えて、足が動かない。目の前に広がる世界が今までと違うものに見えてきて、カリアラは口を結んだ。目のあたりにむずがゆいものを感じる。眼鏡の縁が浮いているのだ。眉を寄せ、眉間に皺が生まれたために彼の眼鏡はわずかに揺れて、今までとは違う箇所に当たる。カリアラは眼鏡に触れた。そのまま、サフィギシルを見た。
 雪に照らされる中、暗い色のコートが揺れている。その髪は保護色になってしまうからよく目立つ方がいい、とジーナに選ばれた服。だんだんと遠ざかるそれを見ながらカリアラは雪を掴んだ。石塀に乗ったまだ潰れていない雪を丸め、サフィギシルに向けて投げた。
 白い景色で揺れる的に雪玉が命中する。サフィギシルは驚きの声を上げて転んだ。カリアラはもうひとつ雪玉を作りながらサフィギシルの反応を待つ。まだ投げ足りない気分だった。サフィギシルは怒るだろう。だがそれには構わず今度は顔にぶつけようと考えていた。
 サフィギシルは痛みを口で訴えながら、ゆっくりと立ち上がる。カリアラは雪玉を掲げた。サフィギシルが不機嫌な顔でこちらを向き、カリアラの仕業とわかると張り裂けんばかりに目を丸くして。
 次の瞬間、とてつもなく嬉しそうな顔をした。
「なんだよお前! 投げられるようになったのか!」
 カリアラはびくりとして雪玉を取り落とす。サフィギシルは弾けんばかりの笑顔となってカリアラに駆け寄った。
「さっきのお前がやったんだろ! 凄いじゃないか、この距離で当たったんだぞ!? この間まで全然当たらなかったのに! お前、あんなひょろひょろで届きもしなかったくせにさあ! やっぱ眼鏡が良かったのか。すごいなあ!」
 なんなんだなんなんだなんなんだ。カリアラは動揺のあまりに立つことすらおぼつかない。急激に明るんだサフィギシルにどうしていいかわからない。息のしかたすら忘れてしまったようで、目の前がくらくらする。サフィギシルはそんなことには気づきもせずに、笑顔でカリアラの肩を叩いた。
「寒いのは死ぬからだめとか言ってさあ。雪に触るのもいやがってたくせに、いつの間に平気になったんだ? でもこれで雪合戦ができる。そうだ、早くしないとせっかくの雪が融けるよな。早く帰ってピィスとか呼んでこよう!」
「お、おまえ」
 言葉でさえもうろたえていて震えながら融けていく。カリアラは視線をさまよわせた。サフィギシルは「何?」とでも言いたそうにカリアラを見つめている。だがカリアラは、彼の目をまっすぐに見ることができない。手の中に残る雪を意味もなくこすっては、はらはらと地に落とす。見つめるのは斜め下。居たたまれなくて無理やりに口を開く。
「……なんでもない」
 ああ本当は、ごめんと言おうとしていたのに。カリアラは目の前がくらくらと揺らぐのを感じた。なんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれは! 未知の世界を体感すると同時にサフィギシルを理解して、痛いほどに相手を知って心臓が壊れそうだ。苦しくて申し訳なくてごめんなさいと言いたいのに言えなくて、どうしてこんなことになったのかわからなくて脳が揺らぐ。カリアラは混乱のままに転んだ。
 雪の積もる道脇に仰向けになっていると、視界が一気に白く染まる。切られるような冷感。びくびくと痙攣すると、無邪気な笑い声がした。
「なんだよ、やっぱりまだ冷たいのいやなんじゃないか。ほら、ほら!」
「わっ、うわあっ、なんでだ、なんで冷たいのするんだ!?」
 まったくの子どもの顔でサフィギシルが雪を投げる。カリアラは必死に拒絶していたが、その手はいつのまにか雪をつかみ、やられただけやり返そうと雪玉を投げつける。ぎゃあぎゃあと騒ぎながら雪を投げ、ぶつけられているうちにカリアラも笑っていた。それを見てサフィギシルはさらに笑う。カリアラもなぜなのかはわからないまま楽しくなって、珍しく声を立てて笑った。気がつけば先程のまでの苦しさはどこかに消えて、遠い記憶の沼の奥に沈められて見えもしない。
 カリアラは苦みなど忘れて笑った。そのまま、疲れるまで遊び続けた。


“嫌悪”


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