ただでさえ寒さから身が固まってしまうというのに、あたしはさらに肩から腕から爪先まで筋肉を縮めていた。本当のことを言うと、今すぐにでも帰りたい。だけど、それを許さない人ごみが、あたしの体を押していく。 「澄香! こっちこっち」 「あ、うん」 視界をさえぎる家族連れの向こうから、友だちの手が飛び出している。二人とも、歩くのが速いんだよなあ。わずかな人の間を見つけてはするりするりと進むので、渋滞に慣れていないあたしはいつもはぐれてしまう。すみません、すみません、と謝りながら団らんを割ってたどりつくと、がっしりと両腕をキープされてしまった。 「はい、これで大丈夫」 「はいはい進みますよ澄香ちゃーん」 「あたしは捕獲された宇宙人ですかい」 わざと口をとがらせると、連れの女友達ふたりは笑いながら前へ進む。 「あんたのペースに合わせたら、日が暮れても本殿にはたどりつけないよ」 「そうそう。破魔矢もお守りもおみくじも、一通りしなきゃお正月じゃないんだから。ガンバレ!」 「はあーい……」 あたしは両脇をがっちりと固められ、うなだれる思いで歩いた。 そう。あたしたちは、あろうことか神社に足を踏み入れているのである。しかも、世間的にも有名な地元の神社に、年が明けて半日も経っていない元日の早朝から。 人はそれを、初詣という。 「こんな朝早くから行かなくてもさー……」 「何言ってんの、毎年おんなじでしょうが。これだけ混むのも恒例行事」 「そんで並んで破魔矢を買って、また並んでおみくじを引く女三人。ああ、かわりばえがないったら」 うん、確かに君たちにとってはそうだろうね。そう言いたいのを我慢する。あたしだって、去年までは二人と同じ気持ちだったよ。眠い目をこすってだらだらと道を歩いて、本殿が近づいたらなんだかんだでテンションが上がってきて……。 それなのに今年のあたしはまったくの正反対で、敷地の奥へと近づくほどに足が重くなっていく。まるでスピーチの本番が近づいているかのような緊張感だ。こんなことになったのは、誰のせいでもなくあたしのせい――いや、あの家神が悪いに決まっている。 母方の祖母が亡くなった夜、あたしは、《家神》と名乗る不思議な男に出会った。 肌に馴染んだ質素な着流し、どこにでもいそうな日本人顔。神と言うにはあまりにも人間らしいが、その身に触れることはできない。 彼はあたしのことを護ると言い、一人暮らしのワンルームに居候を決め込んだ。 そして、その時からあたしの目には《やおよろず》の神々が見えるようになってしまったのだ。 それはもう八百万という言葉の通り、道端の道祖神どころか、新築のトイレにまで神の姿をみつけてしまう状態である。「ここにすごい神さまがおわします!」と主張する神社なんかに行った日には、どうなってしまうのだろう。ああおそろしい。どうにか逃げてしまいたい。 だがあたしの腕は依然として友に捕まえられている。恐るべし、恒例行事の力。年明けにある試験用のレポートが終わってなくて〜なんて言い訳は、爽やかに却下された。いやレポートが終ってないのも本当で、正直な話そろそろ始めないと間に合わないんだけどね。二重の意味で憂鬱になる。 ダンベルかというほど重い足で、一歩ずつ石段を上る。すれ違う帰りの人たちは晴れ晴れとした正月の顔をしていて、心の底から羨ましい。末吉だった〜、とか、おれ大吉ぃとか楽しそうでよござんすなあ。あたしなんて、お墨付き心霊スポットにおもむく霊感少女の気分ですよ。 ああ、本殿が見えてきた。あの賽銭箱の奥には祈祷を受ける人たちが正座をして待っていて、宮司さんが神妙な面持ちで準備を進めているのだろう。そして、さらに奥には華やかな飾りに彩られたご神体が、あたしが何よりもびびっているものが「居る」に違いない。 何しろ、正真正銘の神さまである。うさんくさいうちの家神なんかとは比べ物にならないほどの、そりゃあもう室町時代からずっと人々に崇拝されてきた神だ。そもそも本殿からして国宝だった気がする。うちの家神が居座る、近所のホームセンターで材料を調達した手作り社とはレベルが違う。 「お賽銭いくらにする?」 「えー、五円じゃ少ない気がするから、百五円で」 「消費税かよ」 そのボケツッコミ、今日何百人の人が口にしたんだろうなあ。あたしは家の中で一番きれいだった、去年作られたばかりのぴっかぴかの五百円玉を取り出した。お願いしますこれがあたしの精一杯なんです。許してください。そう、すでに初詣用の賽銭ゾーンに投げ込まれているお札を眺めて目を閉じる。おそろしくて本殿の奥は見られない。さっきからずっと斜め下を向いているのは、頭を上げる度胸がないためだ。こわいこわいこわい。だってそこに神さまがいるんだよ!? なけなしの五百円玉を投げて友を湧かせ、頭が賽銭箱につくほど深く二拝。隣のカップルがびくっとするほど大きな二拍手。 真剣すぎると笑われてもいい。神さまに粗相があったらどうなるかわかったもんじゃないのだ。決して、失礼のないように そして最後に、腰が壊れてもいい! と決死の思いで一拝をした。 あたしの馬鹿なところは、ここで無難に逃げに徹しない妙な詰めの甘さだと思う。甘いというか、好奇心というか。つまり、ようするに、……見たくなってしまったのだ。神さまを。こんなにも気をつけて目をそらしてきたというのに。 だって、神さまだよ。本物の、いやまあ家神とかうちのみんなも神さまだけど、正真正銘の、なんだかとっても力のありそうな神さまがそこにいて、目に見ることができるのだ。見たくならないはずがない。矛盾してるけど、実際のところそう感じてしまったのだから、しょうがない。 あたしは、伏せていた目を上げた。 別料金で祈祷を待つ人たちが座る奥に、金色の混じる赤や緑の布飾りが見える。 左右にしまわれた格子戸の向こうには白木の段があり、その、あたしたちが決して近寄れない特別の場所に、神さまがいた。 神さまが、居た。 気がつけば人ごみや友に引かれるがまま、その場所を離れていた。ぼうっとして突っ立っていたあたしは、順番を待つ人たちにとって随分な邪魔だったことだろう。あたしはお札や破魔矢の並ぶ一角に着いても、まだまばたきを忘れていた。 なんだかとても大きなものを見た気がする。突然、目の前に何メートルもの白い像が現れたかのような感覚。驚けばいいのかどうしていいのかわからないけれど、とにかく、「おおきかった」とそればかりが感想として残っている。 実際に、神さまが大きな姿をしていたのかは、わからない。人の形をしていたのか、それともキツネや他のものの形状だったのかも。ただ、神さまが「居た」。決して触れることはできないけれど、確かに、そこに居た。それだけがあたしの中に感覚として残っていて、日常に戻れないほどのぼんやりとした高揚――なにかよくわからないけどものすごくうれしくていい気分となって、からだをふわふわと浮かび上がらせている。やわらかくてあたたかい雲に包まれているような感じ。 そんなこととは無関係にざわめく人ごみにもまれながら、あたしは静かに実感していた。 なるほど。 これが、ハレなんだ。 そんなことをしているからこれ以上不審がられたくはないのに、あたしはまたしても友の心配を背に固まっている。 「ね、どしたの?」 「お金が足りないんだったら貸すから、買うんなら早くしなよ」 うん、こちらとしてもそうしたいところなんだけど、足りないのは数百円の話ではなくウン万円になりそうなんだ。そんな戯言を吐くわけにもいかず、そもそも実行する覚悟もなくて、あたしは財布を握ったまま巫女さんの戸惑いを浴び続けている。いかにも正月バイトといった風情のお姉さんはにこやかで、断りを入れずにはいられない。 「すみませんもうちょっと迷わせてください。絶対に買いますから」 だが、本当に「ちょっと」の時間で済むという保障はできない。 目の前には、さまざまな種類のお守りが詰め込まれて並んでいる。家内安全、交通安全、縁結びに商売繁盛。だがあたしを迷わせているのは刺繍された文字列ではなく、お守りと同じ数だけ並ぶ、百以上の神々だった。 「予想外すぎる……」 まさか、ひとつのお守りに一柱ずつ神さまがついているなんて。 多種類というわけではない。どの神さまも同じ顔と格好をしていて、同じようにちいさかった。手のひらに載せても場所があまり、軽く駆けてもらえるほどだろうか。作られた時期が新しいからだろう、皆幼い顔をしている。ちょこなんとした神さまたちは、一様に参拝の人々を見上げて買われるのを待っている。正座をして、膝にきちんと手を載せて。 どうしよう、鼻血出るかも。 「澄香ー、どれも同じだって」 「違うんだって! 佇まいとかが微妙に!」 ぬいぐるみの顔が同じ種類でも違っているように、この神さまたちも少しずつ別のものに見えるのだ。お守り本体の刺繍のずれかなにかが関わってくるのだろうか。 まだ幼稚園児にも満たないミニサイズの神さまたちは、きゃあきゃあと騒ぐこともなくきっちりと口を結び、期待にはじけそうな顔で人々を見上げている。つやつやと輝く目は、裏切られることなんて端から考えていない。 ああもう全部欲しいごっそりと買い求めて懐に入れて帰りたい。 そうか、チワワに見つめられたおじさんの気持ちってこういうのだったんだ。この光景もなんだかペットショップの犬猫コーナーみたいだしなあ、などと大変罰当たりなことを考えつつ神さまを見回す。 「もう学業守りにしとけば? レポートあるって言ってたし」 うんざりとした友のアドバイスを元に学業の列を眺めると、数十の神さまが一斉にこちらを向いた。学業らしくいかにも真面目そうな顔は、それでも今にも「私を買って!」と叫びたそうにうずうずしている。は、鼻血出る鼻血。この場を朱に染めてしまう。 「ど、どーれーに、しーよーうーかーなー」 「澄香……」 距離を置きつつある友の目をよそに、あたしはようやくひとつを選んだ。 お金を渡すと、ほっとした表情のお姉さんが笑顔でお守りを渡してくれる。「きゃあー」と笑顔で紙袋にすべり落ちるあたしの神さま。血を吐きたい気分になる。 震える手で受け取って、しっかりと抱え込んだまま出口に向かって歩き始める。気がついたからだろうか、さっきまでは見えなかったちいさな「お持ち帰り」の神々が、人々の持つ破魔矢にお札にお守りに寄り添っているのが目に映る。みんな、ちいさな神さまを連れてうちに帰っていく。あたしはなんとも言えずしあわせな気分になって、にこにこと笑いながら軽い足を動かした。 おみくじは、吉だった。 「たっだいまー!」 久しぶりにワンルームの鍵を開けると、家神が顔を上げる。 「おう、帰ったか。早いじゃないか」 「そりゃそーよ試験前なんだし。連休にはまた実家に戻りますぅ」 「明るいのう。それでこそ家の主だ」 嬉しそうに笑う家神はまるでおじいちゃんのようで、なんとなく気恥ずかしくなる。あたしははしゃいで取りついてくる《便所の神》や、相変わらず頑固そうな《かまどの神》をはじめ、部屋中にいる神々に新年の挨拶をする。そして最後に、手作りの家神の社に買ってきた日本酒を供えた。 「さすがに正月はいい酒をくれるじゃないか。いやあ、嬉しい」 「でもこれがなくなったら次はランクダウンだからね。今のうちに覚悟しといて」 念のために釘を刺すと、家神はここぞとばかりのため息をつく。 「つまらんのう。毎日が正月だったらええのに」 そんな楽しそうだけど途中でだれそうな日本はいやだ。 「さて、場も整ったところで。じゃじゃーん。新しい神さまを連れてきましたー」 おお、と神々が嬉しげにどよめく。 遠くで《テレビの神》が「じゃじゃーんは古いな」と呟いた気がするが、聞こえない聞こえない。あたしは大事にしまっておいたお守りを、そっと袋から取り出した。緊張した面持ちのちいさな神が、手の中で姿勢を正す。あたしは本体のお守りごと家神にそれを向けた。 家神は、とてもよいものを見た顔でゆったりと頭を下げる。 「おお、これはこれは。初めまして、この家の護りをしておるものです」 「は、はじめまして。よろしくおねがいします」 手の中の小さな神も、ぺこりと体をふたつに折った。 「わたくしはとてもちいさいですが、いっしょうけんめいがんばります」 「可愛い……」 どうしよう、もうとろけそうだ。めろめろになっているあたしを見て、家神はからかう笑みを浮かべている。 「それはよかった。これは学問に関しては少し足りないところがありまして。こんなあばらやですが、どうぞ宜しくお願いいたします」 「学が足りない上にあばらやで悪うございました」 「おまけに神を敬う気持ちがかなり足りないときている。我々は日々務めに励んでいるというのに、いや、嘆かわしいことです」 「いつどこで家神さんがお仕事をまっとうしましたかー」 「ほら、足りていない。まったくお恥ずかしいことです」 なんであなたが恥ずかしがるんですか家神さんよう。もはや神ではなく保護者として接されている気がするが、多分事実なのでそれ以上考えないことにする。 「しかし、お守りの神さまがこんなにかわいいとは思ってなかったよ。ありがとう日本」 あれ、というかわいい声。見ると、手のひらの上でちいさな神が首をかしげている。 「わたくしは、おまもりのかみではありませんよ?」 首だけをかしげることができなくて、体全体で傾いでるのがたまらなくかわいいんだけどそれは置いておいて。あれ、どういうこと? 「だって、お守りについてるんだから、《学業守の神》とかじゃないの?」 「ちがいます。わたくしは、ひしのだいみょうじんです」 えっへん、と胸をはるちいさな神さま。え、え、でも菱の大明神って、今朝行ったばかりのあの神社のご本尊じゃ……。 あたしは目がくらむほどに間近で神さまを見た。ちんまりとした、時々すうっと透ける体。指先でつつけば弾きとびそうなこれが、あの、おおきく感じた神さまなの? 「まったく、澄香は物を知らんなぁ。御守や札というものは、その社におられる神の分身のようなものなのだ。だから、この神どのもご本尊と同じ。いこおるというやつだ」 隙あらば覚えたてのカタカナ語を使いたがるのは、今年も同じようですね神さん。 「じゃあ、おっきいご本尊の体をちぎってお守りにするとか、そういう?」 「違う違う。そんなことをしてどうする。祀られておる神はな、御守や札にひとつひとつ神力を授ける。それを手にしたものに善きことが起こるようにとな。その神力こそが、こうして今ここにおられる神どのなのだよ」 「……わかったような、わからないような……」 納得できるような、どことなく訝しいような。うなっていると、足元に取りついていた《便所の神》が、子どもらしく純粋な顔で声を上げる。 「あのねあのね、スミちゃんのからだからでてきたうんちもスミちゃんでしょ。それとおんなじ!」 「たとえ方が悪すぎるよそれ! あたしにも神さまにも失礼だよ!!」 あんた便所の神だからって、なんでも言っていいと思ったら間違いだよ! 便所の神は頬をふくらせて「うんちはきたなくないもん」と主張するが、この手のトークをまともに聞いていたら止まらないので、後にしてもらうことにする。 「じゃあ、この神さまは本体様の神力の具現化……って感じなんだ」 「ああ。ヒトは神社に参り、祈りを捧げる。神はその身に少々の力を授けるのだ。かすかなものはお前の目には見えないが、こうして本体となるよりどころがあれば、力は持続しやすくなり、信心深さのないお前にも見えるようになるということだ」 「なるほどねえ」 お守りの中には、何かを書いた紙が入れられていると聞いたことがある。この朱色のお守りの中にも、そういったものが収められているのだろう。この神さまの「本体」は、学業御守と刺繍された袋ではなくそちらなのか。 「わたくしは、てにとっていただけたので、おしごとをすることができます。わたくしをえらんでくださり、ありがとうございます」 「い、いえいえ。そんな、こちらこそありがとうございます」 「ちからをつかうことができて、ほんとうにうれしいです。ちいさいけれど、いっしょうけんめいがんばります」 ああもうほんっとかわいいなあ。お互いに頭を下げながら、頬がゆるむのを止められない。こんな神さまだったら、たとえ成績アップの効果がなかったとしても許せちゃうよ。ああかわいいかわいいかわいいかわいい。ちょっと何ニヤついてんのそこの家神ぃ。女の子がかわいいものにでれでれして何が悪いのっ。 うちの神を睨んでいると、新しく加わったちいさな神が小指を引いた。 「ん、なに?」 「わたくしは、がくぎょうのちからです。すみかさんは、べんきょうをしますか?」 「え、いや、今はまだ……帰ってきたばっかりだし」 一月一日の夕方だし。家神にこの神さまを見せたくて帰ってきただけで、明日にはまた実家に戻ってごろ寝しようかなー、なんて……。 「じゃあ、すこししたらべんきょうをしますか? わたくしは、がくぎょうのちからです。すみかさんがべんきょうをするのを、おうえんします。それがわたくしのしごとです」 うっ。と、息が詰まったのは、神さまの瞳があまりにも純粋でつやつやしていたからだ。他のものを信じきっていて、裏切られることなんて考えてもいない輝く表情。 いや、でも、あたしもうちょっとだらだらしたくて……。 「すみかさんは、がくぎょうのわたしをえらんでくださった、とてもがくもんにねっしんなかたです。わたくしは、うれしいです。いっしょうけんめいおうえんします」 ちいさな学問の力の神は、あたしの目をまっすぐに見て首をかしげる。 「べんきょうをしますか?」 首だけを動かせなくて体ごと傾ぐそれを見て、あたしは縁結びにするべきだったかと少しばかり後悔した。 結局のところ神さま効果でレポートは素早く上がり、試験の方もあたしにしてはいい成績を残すことができた。あたしは、これ神力なのかなァなにか違うんじゃないかなあ、と思ったけれど、まあ、お守りってそういうもんだよね、とちいさな神の宿る小袋にそっと一礼した。 へいじつや |