小さいころのあたしは、お婆ちゃんちが怖かった。木造の大きな家は戦前からあるもので、目に見えるあちらこちらに暗い影が潜んでいる。廊下の奥に部屋の隅、くみ取り式の煤けた便所。町暮らしのあたしはそんな古いものの奥に、何かおそろしいものを感じ取ったに違いない。 ある夏休みの夜、泊まりに来ていた小さなあたしは怖くて泣き出してしまった。両親と離れてこのおそろしい家にひとりきりでいることが、とてつもなく大変なことに思えたのだ。泣きわめくあたしの頭をなでながら、お婆ちゃんはこう言った。 「大丈夫。この家には家神さんがおるけんね」 涙ながらに見上げると、お婆ちゃんはにっこりと笑って続ける。 「この家にはね、家神さんがおるんよ。庭に祠があるじゃろ。あそこに住んでおられるのさ。その他にもね、やーろずの神々と言うて色んな神さんがおるんだ。悪い神さんもおる。善い神さんもおる。だがね、家神さんが悪い神さんから澄ちゃんを守ってくれるのさ。だから安心してお休みね」 それであたしはほんの少し落ち着いて、眠りにつくことができた。 それからあたしはお婆ちゃんちで何か怖いと感じるたびに、これはやおろずのせいなんだ。でも家神さんが守ってくれるから大丈夫。と必死になって言い聞かせた。そしてあたしはお婆ちゃんのなまりのせいで、「やおろず」ではなく「やおよろず」だということに気がつかないまま大人になる。 「ほう。今度の当主は町住まいか」 古びた祠の屋根の上で、そいつはにやりと笑みを浮かべた。 「いや、今ではなくいずれそうなるという話だ。お前が跡を継ぐのだろう?」 お婆ちゃんの葬儀が終わった夜。壊される予定の家の庭で、あたしは呆然とそいつを見上げていた。 若いのに年寄りじみた表情、着慣れた風情の和服姿。この家の《家神》は、面白そうに笑って言う。 「ならばわしがお前の家を守ってやろう。安心して暮らすがいいぞ、澄香」 その瞬間、あたしは神さまに“取り憑かれた”。 出すものを出し終えて、流すものを流し終わって、さて出ましょうとトイレのドアを開けたところでぐいっと足を掴まれた。 「スミちゃんまってー。もっとあそんでー」 視線を下ろすと小さな子どもが足にしがみついている。幼稚園児ほどのかわいいお顔が泣きそうなのは寂しいからだ。だが、だからといっていつまでもトイレにこもるわけにはいかない。 「また時間になったら来てあげるから。それまでひとりで待ってなさい」 「やーっ。スミちゃんあそんでえ。ごほんよんでえ。しゅーかんしとかしんぶんでいいからあ」 「あたしはトイレで本を読む趣味も、子守りをする義務もありません。あんた便所の神さまでしょ、ちゃんとおトイレ守りなさい!」 だだをこねる小さな体を引っぺがすと、我が家……もとい、我が賃貸部屋の《便所の神》は拗ねたように舌を出した。二〇〇〇年製造の新品トイレに宿る神は、それ相応に子どもらしい。ひとりでいるのが退屈なのか、しょっちゅう無駄に水を流して遊んでいる。今もまた、トイレの水が無意味に再度流された。あたしはため息をつきながら、小さな台所に向かう。 台所とは言っても一人暮らしのワンルーム。高級でもない平凡なマンションの設備なので、部屋の隅に流しとコンロがぽつんと置いてあるだけだ。その調理用の一角に踏み込んで、冷蔵庫から紙パックを抜き取ったところで迫力のある喝が飛んだ。 「こりゃ! それで何する気じゃ!」 「……荒神……」 振り向くと、二穴のコンロの上に小さなじじいが浮いている。ぼろぼろになった服を換気扇の風に揺らし、我が部屋の《かまどの神》はあたしの手もとを睨みつける。 「小娘はろくな料理もせんくせに、そっちだけは立派なつもりか。ええ?」 「違うよ。お供え用」 抜き取ったのは安物の料理酒で、そのまま呑むには向いていない。だが荒神はいつものように、しかめた顔で語り始めた。 「お前さんは毎日毎日こんびにとかいうもんで油物を買うてきよって……米を食え! ぬか床を作れ! そんな調子じゃあ婿取りも……」 「はいはい聞き飽きましたー。じゃあねー」 「あっ、こら! 話は最後まで聞けえ!」 いつまで経ってもキリがないので、あたしは窓の方へと歩きだした。かまどの神はお婆ちゃんの家から連れてきたので何から何まで昔風だ。料理をしててもあれこれと口を出し、洋食は好かんと言ってスパゲティーすら認めない。機嫌を悪くするたびに火の出を悪くされるので、自炊をする気がうせてしまう。 窓の外は夕暮れ色に染まっていた。白いレースのカーテン越しに、棚の上の小さな祠も橙色に照らされている。お婆ちゃんちの庭の祠は家と共に壊された。これは、その廃材で作り直した新しい“奴”の住処。あたしはガラスのお猪口に酒をそそぎ、祠の前にコトリと置いた。手を合わせ、目を閉じてお祈りをする。 「家神さん家神さん、出てきてください」 「おう。なんじゃ」 慎ましい儀式を台無しにする呑気な声。目を開けると、祠を置いた棚の上にはにやりと笑う若年寄。我が部屋の《家神》は、和服姿でどっかりと棚に座り込んでいる。 「どうした澄香よ。なんだ、供えるならもっとマシなやつにせえ。料理酒なんてお前も呑まんだろうに」 「うっさいなー。役立たずの家神さんにはそのぐらいで十分なの。家神の自覚があるなら、ちゃんと家を守ってよ」 「何を言うか。わしのおかげでこんなにも平和なのに」 「台所に行けば文句を言われる、トイレに行けば引き止められる! それのどこが平和だって? そもそもねえ、こんなことになったのもあんたのせいでしょ! あたしの平穏な生活と目を返してよ!」 そう、すべてはこの《家神》を招き入れたせいだった。トイレに入れば便所の神にじゃれつかれる。料理をすればかまどの神に説教される。おまけに外を出歩くたびに、地域ごとの道祖神に声をかけられてしまうのだ。家神を祀った時から、あたしの目にはやおよろずの神々が見えるようになってしまった。 「賑やかでええじゃないか。ま、お供えの酒をぐれえどあっぷしてくれるなら、手を貸さんこともないがな」 「とか言っていっつも何もしないくせに! この詐欺神が!」 「金がないならげえむの続きを見せてくれるだけでもええぞ。中ボスで止まってた“もんすたあすたじあむ”。わしが思うに、あれは“もげもげ”を先に出してカミナリパンチで痺れさせれば……」 「神さまのくせに世俗にどっぷり浸かってどうする! だめ。ゲームはやりません」 「澄香は気が荒いなあ」 家神はにやにやと笑いながら、これみよがしに頭をかいた。出で立ちや喋り方こそ年寄り臭いが、見た目は普通の若者だ。着物といってもちょんまげというわけではなく、ざんばらなので明治以降の人なのだろうか。人、と言っていいのかどうかは判らないが。 家神はいつも通りの飄々とした態度で尋ねる。 「で、今日はなんの用だ」 「あのさ、今日は節分でしょ。二月三日、豆まきの日。で、もしかしてと思ったんだけど……」 あたしは嫌な予感を胸に抱え、おそるおそる口にした。 「今のあたし、まさか鬼が見えたりしないよね?」 「もちろん見えるぞ」 あっさりと答えられて心臓がぎくりと跳ねる。血の気が素早く引いていった。 「嘘お! やだ、どうすんのっ。豆とか買って来た方がいい!?」 「何をそんなに恐がるか。昔ならいざ知らず、近頃の鬼なんぞちょろいちょろい。ほれ、そこにもおる」 家神は涼しい顔で言いのけて、ベランダを指差した。あたしは恐怖に凍りつく。ただでさえこの力を手に入れてから、今まで恐れていた物たちを実際に目にしてきたのだ。鬼といえば恐ろしいものの代表格だ、そんなものがすぐそこにいるなんて! 「平気平気。ほら、見てみい」 「やだやだやだ、絶対やだ。見ないって!」 「平気だと言うとるのに、相変わらず怖がりだのう。ほれ、目を開けて」 「あのー……本当に大丈夫ですから。わし、乱暴しませんから。ちょっと見てくださいや」 家神の台詞に被った弱気な声に、あたしは思わず目を開けた。窓の外、ベランダの中。カーテン越しに見えたのは、よれよれのスーツを着込み、紙製の鬼のお面を顔に被った中年のおじさんだった。彼はバーコード頭を掻いて言う。 「こんばんは。鬼です」 そして申し訳なさそうに、ひょこりと猫背を屈めてみせた。 |
「いやあ、まさか入れてもらえるとは。光栄ですわ」
自称《節分の鬼》はあたしが入れた粗茶を前に、へこへことおじぎをした。 「まあガラス越しに喋るのもなんだしねえ」 粗茶も粗茶、出がらしを使ったのでかまどの神が奥で文句を言っている。やれこれじゃ婿がもらえんだのなんだのと、いつも通りのことなのでここはあえて放置する。問題は姑のような荒神ではない。目の前の自称鬼だ。 「で、あんたのどこが鬼なのよ。どう見ても生活に疲れたおっさんじゃん」 「そうなんですわ。わし、鬼のように見えんでしょう。それは……家神さん、説明してくれますか」 やけに弱気な視線を受けて、家神は無駄に自信にあふれた笑みを浮かべる。 「おう。澄香、節分がどういう行事かは知っとるか」 「あたし?」 いきなり話を回されたので、ついつい緊張してしまう。とりあえず、知っていることを口にした。 「ええと……鬼が来るから豆を撒いて退治して、福の神を家に入れる」 「まあそういうことだ。詳しく言うとな、節分というのは正確には一年に四回ある。まず立春の前日。これは今日だな。そして立夏の前日、立秋の前日、立冬の前日。だが今の世には立春の前日、二月三日だけが強く残っている。これはな、今日が一年の終わりと始まりの境界の日だからだ」 「え、どういうこと。一月一日じゃないの?」 「昔は立春を一年の始まりとして祝うならいがあったのだ。ようするに今日はもう一つの大晦日、年と年の境目だ。この境界の裂け目から、鬼だの福の神だの祖霊だのといろんなものがやってくる。だから鬼を退治する……と、もともとのきっかけはそういうものだったらしい」 「へえ。そうだったんですか」 べらべらと紡がれた説明に、鬼は本気で感心している。 「トリビアですねえ」 あんたなんでそんなこと知ってんの。 「あんたの話でしょ? なんでそんな、初めて知ったような顔……」 「そりゃあ、この鬼殿が平成生まれだからだろう」 「はあ!?」 あたしは思わず大きな声で訊き返す。だって見た目どう見ても昭和だし。おっさんだし! そもそも鬼に生まれだのなんだのって……。怪訝な顔をしていると、家神は心得たと言わんばかりに説明する。 「元々わしらは人間の信仰によって具現化しているものだからな。お前が『ここにかっこよくて頼りになる家神さまがいる』と信じているからわしはこうして話していられる。鬼についても同じだ」 「神さん、今の発言には誤りがあります」 「しかしだ。それは言うなればわしらが常に不定形の存在であるということでもある」 あっさり無視しやがったよこいつ。 「つまりお前が『この便所は新しい』と感じているから、この家の便所の神は子どもなのだ。『この荒神は古いかまどから持ってきたから老人だろう』と考えているから荒神がああなるのだ」 台所から「ああとは何だ」と文句が聞こえてきたが、全員が無視を決め込んだ。 「だがまあ、この鬼の場合はお前個人というよりも世相を反映しとるようだ。最近の節分と言えば、父親が鬼の面を被って家族に豆を投げられるのが恒例だろう? だから『節分の鬼とはこういうものだ』という……なんだ、その」 「イメージ」 「それだ。そういう世間のいめえじが、鬼をこんな姿にしたのだ」 「そうなんです。最近は、鬼を怖がる子どもなんていなくなって……わしらは全員デフォルトがこの姿なんです」 デフォルトと来たか節分の鬼。どうやら生まれが新しい分、家神よりもカタカナには達者なようだ。 「世知辛い話だねえ。ま、それはそれでいいんじゃないの。がんばって倒されてきなー」 「待って下さい! お願いしたいことがあるんです!!」 やる気なく手を振ると、サラリーマン姿の鬼はお面を震わせながら言った。 「わしらはこの通り、今や鬼とも思われていない身です。このまま人間たちが鬼を信じなくなれば、わしらはやがて消えてしまう。お願いします! せめてあなただけでも鬼を恐れてください! わしは……わしはっ、子どもたちが鬼に怯え、豆を撒いて、もう安心だと天使のような笑顔を見せるその瞬間を愛しておるのです!」 「日本の鬼が天使とか愛とか言うなよ」 「わしが生まれた日本は平成なんです。仕方がないじゃないですか!」 まあ、現代の神さまならそういうこともあるのだろう。うちの便所の神さまだって、本当はウォシュレットとして生まれたかったとか抜かしてるし。 「澄香、やってやれ。鬼もいろいろ大変なんだ」 「えー。やだよ、なんであたしがー」 「これも何かの縁じゃないか。最近はわしらを信じてくれるやつは少ないのだ。お前ほど信心深い怖がりはとんと少なくなってなあ、他に頼れるやつがおらん。鬼の絶滅を防ぐために、まずは身近な一歩から。何もお前が怯え役になる必要はないんだ。協力してやってくれ」 「お願いします! わしらも必死なんです!!」 鬼はがばりと土下座する。よれよれのスーツ姿で、あぶらじみたバーコード頭でそんなことをされてしまえば断るにも断れない。だが一応は、と表面だけでも渋るふりをしていると、トイレから甲高い子どもの声がした。 「おねがいスミちゃん! 助けてあげて!」 便所の神だ。かまどの神もそれに続く。 「そうだぞ小娘。お前には情というものがないのか!」 「お願いします、協力してあげてください!」 「頼むよ澄香、もう迷惑かけないからさあ」 「最近おれたちホントに数が減ってんだよ。神無月の出雲会議もすかすかでさあ」 「わたしからも頼みますう〜おねがいしますよう〜」 《塩の神》、《時の神》、《米びつの神》、《枕の神》、《テレビの神》、《MDデッキの神》……家中の神々が一斉に声を上げた。愛着の湧いたものなら考え次第で何でもかんでも神が宿る。だからと言って、家中のあらゆる物に騒がれてはたまらない。あたし以外の人間には聞こえないから、近所迷惑にはならないのが唯一の救いだろうか。 「あーうるさいうるさい! 静かにして!」 耳を塞いでわめいていると、ひときわ高く響く声で便所の神が言いきった。 「オニをたすけてくれなきゃ、スミちゃんの出したものぜんぶみんなにおしえちゃうから!」 しん、と部屋が静まった。便所の神はトイレの前に直立し、体中を使って叫ぶ。 「スミちゃんは今日もベンピでうんちが出ませんでした! このあいだ出たやつのかたちは……っ」 「や、やめてやめてやめてー! わかった、助けるから! 協力すればいいんでしょ!!」 あたしはたまらず悲鳴をあげた。かわいい顔のお子さまは、憎らしいほどにっこり笑う。 「じゃあ、おねがいね!」 このクソガキが。と言いたくてもこれではとても罵れない。自分が子どもに弱いことを嫌というほど実感しつつ、あたしは大きな息をついた。 換気扇の風に吹かれて夕食の匂いが漂う。この家は、今晩はカレーらしい。あたしは玄関のチャイムを押して、寒さに震えながら待つ。しばらくして返事と共に大家さんが顔を見せた。 「あら。どうしたの」 「こんばんは、夜分遅くすみません。綾ちゃんいますか?」 「いるわよ。綾ー、高原のお姉ちゃんが来てるわよーっ」 呼びかけに答えて廊下を走ってやってきたのは、大家さんのお孫さん。すぐ隣の家に住む小学校一年生だ。綾ちゃんはどうしてあたしがここにいるのか不思議そうに首をかしげた。 「なあに?」 「あのね、今日は節分でしょう。だから豆まきをしようと思って」 ほら、と言って紙箱に収められた豆を見せる。大家さんは人の良い笑みを浮かべて綾ちゃんの肩をたたく。 「よかったわねー。一緒にさせてもらいなさい」 「えー。さむーい」 「中から投げればいいじゃない。あっ、お鍋! ごめんなさいね、行ってくるわ。庭に撒いていいからね」 大家さんはそう言うとせわしなく家の中に消えた。残されたのは口を突き出す綾ちゃんと、豆を手にしたあたしだけ。だがあたしには庭の隅で緊張しているらしき鬼と、成り行きを見守りに来た家神の姿も見える。作戦はこうだ。あたしが怖い鬼がそこにいる、と庭の闇を示して言う。綾ちゃんには見えないはずだが、この子が鬼を怖いと思い込めば、鬼はみるみる形相を変えておそろしい姿になる。そうして鬼は『恐ろしい本来の姿になって、その上で豆に退治される』という念願をかなえることができるのだ。 だが綾ちゃんは、あたしたちの気持ちも知らずにつまらなさそうにしている。抱えていたゲームのキャラクター、“もげもげ”のぬいぐるみをさらに強く抱きしめた。しずく形のピンクの体が変形する。 「じゃあ、やろっか。鬼退治だよー」 「やだあ。鬼なんていないもん。あや、やんなーい」 ぷい、と顔を背けられて少なからず腹が立つ。でもかわいい。かわいいけれどにくたらしい。だがあたしとしても、この寒い中いつまでも立ちつくすわけにはいかないのだ。家神が『頑張れ』と合図を送る。あたしは返事をする代わりに鬼のいるあたりを指差す。 「鬼はいるよ。ほら、あそこの影にこわーいやつが」 「いないよお。見えないもん」 「綾ちゃんには見えなくてもお姉ちゃんには見えるんだー。すっごい怖い。体は家の屋根ぐらいまであるよ。髪の毛はもじゃもじゃで、くさーいの。ツノが生えてて、白目がぎょろっと大きくて……」 綾ちゃんの表情が不安に曇る。臨場感あふれる喋り方が効いたようだ。あたしは闇の塊を見つめ、いかにもそこに恐ろしい鬼がいるように、怯えるように低く語る。 「口にはぎらぎらしたキバが生えてて、体中が血で真っ赤。今そこで悪い子を食べたばかりだからね、うまかった〜って笑ってるよ。手には包丁を持っててね、もうひとり子どもを食べたいなーって言ってる」 よれよれのスーツを着てお面を被っていた鬼が、いきなり大きく膨れ上がった。ゆうに二メートル以上はある。家の屋根に届く頭はバーコードではなくもじゃもじゃで、鋭いツノが生えていた。目はぎょろぎょろと見開かれ、手には大きな出刃包丁を持っている。その刃から腕を伝って体中が赤い血に染まっていた。口には血に濡れたキバ。 綾ちゃんがあたしの話を信じたのだ。そして、綾ちゃんの想像に合わせて鬼の姿も変化した。 あたしは本気でその鬼が怖くなって、思わず震え上がってしまう。綾ちゃんはそれでも虚勢を張った。 「こ、こわくないもん。鬼なんかいないもん。おねえちゃんのうそつき!」 だが顔は青ざめて、もげもげを抱く腕にもかなり力が入っている。ぬいぐるみの間抜けな顔がさらに変な形に歪んだ。あたしは最後のとどめとばかりにいやらしい声で言う。 「ほおーら、食べる子を探してる。おいしい子どもはい・な・い・か・な〜……あっ、綾ちゃんを見たよ。こっちに来る! 早く! 豆投げて!!」 言葉に合わせて鬼がこちらに突進してきたその時。 「いやあーっ! もげもげ、助けて――!!」 涙をはらむ悲鳴と共に、抱きしめていたぬいぐるみから巨大なピンクのもやが飛び出た。 それはしずく形にまとまって、間抜けな形の目鼻を並べる。 宙に浮かぶその物体は、紛れもなく“モンスタースタジアム”のイロモノキャラクター、もげもげだった。 《もげもげもんもんも―――ん!!》 もげもげは力強い雄たけびを上げ、鬼に向かって突進する。 どこからか突き出した拳が鬼の顔を殴った瞬間、閃光と共に雷が突き刺さる。 もげもげのカミナリパンチ! 鬼は悲鳴を上げる暇すらなくお空の彼方に吹っ飛んだ。 パパパパーラーパーパパー。 せつぶんの おにを やっつけた !! もげもげは男前な笑みを浮かべて、すうっとぬいぐるみの中に戻る。あたしは腰を抜かしたまま、呆然と夜空の星を眺めた。何も知らない綾ちゃんが、涙目で真剣に庭に豆を撒き始めた。 「……わしもね、まさかね、あんなやつに倒されるとはね……」 現在夜の十時半。元の姿に戻った鬼は、涙ながらに語り続けて一向に帰る気配がない。 「もう情けのうて情けのうて。わしは、わしは……」 「まあ呑め。しょうがないわな、もげもげは強いんだから」 そう言って勧める家神も家神だが、料理酒を呑み続ける鬼の方もどうかと思う。どちらにしろやつらは実際に呑むことはできないので、お供えとして注がれた酒が減ることはないのだが。鬼はさらに汚くなったスーツを切ない嗚咽に震わせる。 「あーもう終わらない。豆、ちゃんと残しとけばよかったあ」 「まあそう言うな。時代に負けた哀しい鬼を慰めようや」 「時代というか、ゲームキャラに負けちゃあねえ」 吐き捨てると鬼はわっとむせび泣く。しかしまさかもげもげが具現化するとは思わなかった。あれはあれで子どもの味方、《ぬいぐるみの神》とでも言うのだろうか。綾ちゃんはよほどあのぬいぐるみを大切にしているらしい。そういえば布地がこ汚くなっていたような気がする。 「やはりもげもげのカミナリパンチだな。澄香、明日は“池のヌシ”を倒すぞ」 「ごめんあたしのもげもげレベル五だし。即死するし」 見た目があまり好みじゃないから、捕まえたあとも育てずに放置していたのだ。もちろん、ゲームの中での話だが。実際にいるとしたら、恐ろしくて放っておけないかもしれない。 しかしいつまでも鬼を中に入れておくなんて、あんた家神として失格だ。 そんな目で見ていると、小さな手が袖を引いた。振り返るとそこにいるのは便所の神。 「あのね、スミちゃん。イエガミはね、ちゃんとおしごとしてるんだよ」 「はあ? だって今だって鬼と酌を交わして……」 便所の神は小さな頭を一所懸命横に振った。 「ちがうの。スミちゃん、さいしょはオニをすごくこわいとおもってたでしょ? でもオニはこわいカオじゃなかったよね。あれはね、イエガミがね、スミちゃんがよぶまえにオニをタイジしてたからなの。こわいかおにはなるなって。スミちゃんがどんなそうぞうしても、スーツすがたのままでいろってメイレイしてたの」 あたしが目を丸くしていると、便所の神は嬉しそうに笑って言う。 「まもってくれてるんだよ。ちゃんと」 あたしはなんだか胸が熱くなってしまって、言葉が喉に詰まってしまって、ごくりとつばを飲み込んだ。 「おう、澄香よ。明日はもっといい酒を供えてくれや」 「しょ、しょーがないなー。ワンカップだよ。あたし日本酒だめなんだから」 「相変わらずしょぼいのう」 家神は酒に赤く染まる顔で大きな声を立てて笑う。鬼は泣き、かまどの神は老人らしくすでにいびきを立てている。便所の神はあたしの指をきゅうと握り、あたしはそんな神々を呆れた気持ちで眺めている。 ――まあ、いっか。 あたしは小さく息をついて、ゆっくりと伸びをした。 へんてこな毎日だけど、なんとかやっていけそうな気がした。 《参考資料》 小松和彦「節分の鬼」(『仏教行事歳時記 2月 【節分】』第一法規出版 1988年 より) へいじつや |